第185回 大相撲懸賞金の受け取り方、『はじめてのワイナリー はすみふぁーむの設計と計算』、『アウトローのワイン論』、淳ちゃん先生のこと(承前)

×月×日 大相撲名古屋場所は、圧倒的な強さで横綱白鵬が優勝した。最近気になるのは、勝った力士が懸賞金を行司から受け取る所作だ。蹲踞(そんきょ)したままの姿勢で受け取るのが本来の礼法だが、立ち上がりながら受け取る力士が多い。ひどいのになると、立ち上がってから鷲づかみにするのもいる。誰かが、きちんと指導しないといけない。ガッツポーズまがいに懸賞金を振り回す白鵬の振る舞いは目を覆いたくなる。

×月×日 『はじめてのワイナリー はすみふぁーむの設計と計算』(左右社)を読む。著者の蓮見よしあき氏は、10年以上前に、「自分のワイナリーを作りたい」という一心から、単身で長野県の東御(とうみ)市に移住し、「はすみふぁーむ」を起業した。
 俗に「ワイン特区」と呼ばれる規制緩和の特例を個人では初めて利用した。「構造改革特別区域法による酒税法の特別措置」といかめしいが、平たくいえばビールやワインなどの酒類を少量でも生産できるということだ。そのためのブドウ作りから資金調達の方法までの体験的ノウハウが語られている。
 アメリカでワイナリーのオーナーといえば、尊敬され名誉のある存在だ。功成り名を遂(と)げて、挑戦する人も多い。ワイナリー経営に関心がある人には格好の入門書だ。別に名を挙げていなくても構わない。それだけ垣根が低くなったということだ。

×月×日 ライターの土田美登世さんから、「ワインの伝道師」といわれる勝山晋作氏の『アウトローのワイン論』(writing 土田美登世・光文社新書)が送られてきた。勝山氏は、ワインバーの草分けともいえる「祥瑞」(六本木)、「グレープ・ガンボ」(銀座)を手掛け、青山にある中華料理の竈(かまど)焼き(豚、アヒル、ハト)とワインの店「楽記」のオーナーだ。
 世界のどこの国でも、戦後の農業は除草剤や、殺虫剤、化学肥料などを駆使して大量生産を志向した。1960年を過ぎると、「自然回帰」の動きが出てくる。自然を相手に試行錯誤を繰り返し、元気なブドウから作られたワインが、ヴァン・ナチュール(自然派ワイン)で、一部の人たちから熱狂的支持を得ている。
 勝山氏は「ヴァン・ナチュールは飲んでみなくてはわからない」という。麻布の高級スーパーでワインを取り扱っていた勝山氏は、まず本で勉強することからワインに接してきた。その後の団塊の世代のなかには、財力にものを言わせてヘリコプターに乗って一気に富士山の頂上に降り立つようなワイン愛好家が現れた。プロスポーツ界や芸能界に多い、その次の世代が、「ナチュール世代」といえるのかもしれない。既成の概念、規範にとらわれず、自分でワインを楽しむ世代だ。生まれた時から、空気のようにワインがあった。
 新しいワインの楽しみ方がわかる入門書と同時に日本のワイン史にもなっている。またユニークなワイン文化論でもある。

×月×日 淳ちゃん先生のこと(第二章・その4)
 作家が全集とか作品集を出すことになれば、各出版社は著者と当該出版社に敬意を表して、出版権を融通し、ある程度協力するのが一般的だ。日本の出版業界には、こういった不文律の「慣習」や「しきたり」が数多くある。早い話が作家の印税は定価の10%が一般的定式となっているが、別に法律で定められているわけではない。事実、最近の出版事情は、10%より低くなる傾向が見られる。
 渡辺淳一がどこまで本気で「週刊朝日」の連載小説を作品集の初回配本に考えていたかは、定かではない。気まぐれに、ふと思いついただけかもしれないし、担当編集者である文藝春秋の鈴木重遠が彼なりに盛り上げて、私に投げた「牽制球」だった可能性もある。渡辺本人に聞いてみても、相変わらず要領を得ない。今考えてみると、やはり渡辺自身も作品集の売れ行きが気になっていたのだろう。「週刊朝日」の連載で、単行本になっていない作品を初回に持って来れば話題になる、という魂胆があったのかもしれない。
 しかし、作品集の刊行時期と連載開始の時期を考えると、どうしても不可能なスケジュールだった。私の計算では連載中に作品集が刊行されるはずで、間に合うわけはないと、楽観するほかなかった。
 タイトルもまだ決まっていない。さし絵が難問だった。作家によっては、さし絵に無頓着な人もいる。編集部が挙げた候補に、「誰でもいい」とまったく異議を挟まない人がいるかと思うと、気心がわかっているからといって、マンネリズムに陥った画家を名指ししてくる人もいる。
 渡辺淳一はさし絵画家の選定には細かく注文を付けるタイプだ。小説の中身は谷崎潤一郎の『細雪』の現代版で、華やかな色艶(いろつや)に溢れた女性の物語だ。しかも京都の祇園を舞台に、舞妓や芸妓が登場する。
 舞妓を描く画家といえば、片岡球子や石本正の名前がすぐに浮かんでくる。美人画の第一人者と言えば、当時は風間完が第一人者だったが、たまたまほかの小説に起用する予定があり候補から外れた。
 そこで私の頭の中に浮かんだのが、小松久子だった。三浦哲郎の『駱駝の夢』(日経新聞)や『素顔』(朝日新聞)の作品で、ずっと気になっていた。1977年には井上ひさしの『黄色い鼠』(「オール讀物」連載)で、講談社出版文化賞(さしえ賞)を受賞している。聞けば、竹谷富士雄(1907~84)の弟子だという。入社したころ、朝日新聞に連載していた丹羽文雄の小説「命なりけり」のさし絵が竹谷だった。抒情的なタッチが記憶にある。そういえば、小松の絵は、師匠によく似ている。静かな諧調のある鉛筆を主体とした柔らかい線で、品格のある人物が描かれていた。不思議と奥行きのあるミステリアスな雰囲気を湛えている。
 小松は1984年ころ、人を介して竹谷富士雄の許を訪ね、師事するようになった。竹谷は二科会の藤田嗣治(1886~1968)の弟子だったから、当然二科会に入会するものと思われていたが春陽会に入り、後に新制作協会に転じた。藤田の孫弟子にあたる小松は新制作ではなく一陽会に入り、後に退会している。「どうして、新制作ではなかったのですか」と尋ねたら、「新制作は難しくてね。新しくてお隣のような関係にある一陽会に出しちゃったの」と笑っていた。
 さし絵というのは、風景だけではない。人間が描けなくては話にならない。じっとしている舞妓や芸妓の顔だけ描けても駄目だ。大家だからといって、誰でもさし絵が描けるわけではない。動きが必要になる。小松の描く女性は、気品を備え、女性の表情に秘められた肌の色艶や皮膚の温もりから、内面の心理まで克明に写し出される。小松が描いた絵からは、師匠譲りの洒落たパリの香りが感じられた。パリと京都には、古いものを守りぬくという共通項があるではないか。
 渡辺淳一に相談すると、普段は曖昧でどっちつかずの返事しかしないのに、珍しくすぐ肯いてくれた。三浦哲郎や立原正秋と組んだ小松の仕事が頭の中に残っていたようだ。それに私が自信を持って強く勧めたからかもしれない。
 渡辺淳一と小松久子で、数回祇園の取材に出かけた。祇園のしきたりといえば、舞妓の髪型ひとつとっても、そこに約束事がある。年数を経て一人前の芸妓になる日が近づいてくると、「さっこ(先笄)」という髪型になる。小松はお座敷で舞妓さんや芸妓の話を熱心に聞いてメモを取り、スケッチもした。洛北の峰定寺(ぶじょうじ)まで足を伸ばし、摘み草料理の「美山荘」で食事をしたこともある。この時は、水戸の草野眞男も一緒だった。
 後々のことになるが、渡辺・小松コンビはすっかり定着し、『別れぬ理由』(「週刊新潮」連載)を経て、再び、「週刊朝日」で『桜の樹の下で』が始まった。これも京都の料亭の母と娘の物語だ。さらに、『愛人 メトレス』((「週刊文春」連載時は「愛人アマント」)、『何処へ』(「週刊新潮」)、『かりそめ』(「週刊新潮」)、『愛の流刑地』(日経新聞)と続いた。
 連載が始まる2,3週前になって、ようやく小説のタイトルが「化粧」と決まった。ほぼ同時期に中上健次が同じ題名の書籍を刊行したが、短編集でごく普通の一般名詞だからさしたる問題はない。       
 1979年4月、週刊朝日の「化粧」は華々しくスタートした。渡辺淳一が東京へ出てきて2年目、私が八雲のマンションを訪ねた初対面の日から9年が経っていた。
 折しも桜の季節で、冒頭は「ほんまに、なんで桜はこんな一生懸命咲くのやろか」という祇園の料亭「蔦乃家」の三姉妹の末っ子、槙子の言葉だった。金閣寺の近くで行われた法事のあとに原谷(はらだに)の桜を観に行ったのだ。無地の着物に黒い帯を締めていた。爛漫の桜と法事の取り合わせは、起伏にとんだドラマの展開を予感させた。
 連載が始まる前の週の予告で、渡辺淳一は執筆の動機と意気込みを次の文章で、高らかに宣言している。
<正直いって、いまごろ男と女の小説を書くのは、苦労の多いわりに失敗しやすい。冒険であることはわかっている。
 女や愛の心理をどう書いたところで、それが男からの一方的な見方であることもわかっている。
 でも、作家には、その年齢、年齢で、書けるものと、書けないものがある。もし、生身な男と女の話を書くとすれば、そろそろいまあたりが限界かもしれない。
 いずれ年齢をとれば、油が切れ、いきいきとした風俗も負いきれなくなるかもしれない。その前に一度、華麗な男と女のフィクションを書いてみようか、そんなつもりで筆をとった。
 はたして成功するか否か、それは私の才能とともに、体のなかに埋蔵されているエネルギーの問題でもあるようだ。>(「週刊朝日」79,4,6)
 キーワードは、「女性の心理を書いても、しょせん男からの一方的見方にすぎない」ということだろう。事実、女性からの視点で書かれた最後の小説となった。女性の性愛を男が書くのは不可能だと知ったのかもしれない。
 風俗とあるのは、女性のファッションと考えるとわかりやすい。「女性を書くのはね、難しいんだよ。下着だって一年経つとすぐに変わっているからね」とよくこぼしていた。大げさに言えば、女性の衣裳文化であり、習俗といってもいい。
 「男が女に挑んだとするだろう。女はどういうわけか強固に拒否する。男はますますいきり立つけど、どうしてもブラジャーのホックが外れない。前でもないし、引いても押しても、寄せても延ばしても駄目なんだ。半分あきらめていたら、女が身体の下であえぎながら小さな声でタテ、タテとつぶやいているんだよ」
 半ば笑い話だが、実体験に間違いない。ことほど左様に、女性との性愛を書くのは難儀な技だといいたかったのだろう。いかに難儀だったか、具体的な事例はおいおいに説明していきたい。
 タイトル文字は書家の篠田桃紅にお願いした。しかし出版の確約はまだ取れていなかった。(敬称略・この項続く)(17・7・26)
次回更新はお盆明けの8月23日を予定しています