第186回 「お盆玉」と「板前割烹」、ブータンの松茸、淳ちゃん先生のこと(承前・その5)

×月×日 新語やスラングには関心がある方だと自任しているが、「お盆玉」なる言葉は知らなかった。家人によれば、2、3年前から聞くという。郷里の老父母がお盆休みに帰省してきた孫たちに渡す「小遣い」のことで「お年玉」をもじった言葉だ。どうだかなあ。
「喪中見舞い」と同じで、使う気にはならない。
 言葉を大切にしないのは安倍晋三首相の「お家芸」だが、科学者のなかにも言葉に神経を使わない人が目につく。日経新聞夕刊のコラム「あすへの話題」で龍谷大学の伏木亨教授が、「割烹の魅力」なる文章を寄せていた。
「割烹は海外でも増えている」とある。これは異なことをお書きになる、と思ったら、なんのことはない「板前割烹」のことだった。
「行き慣れた店で、ご主人と顔を合わせながらの料理は美味(おい)しい。最近このような割烹形式の料理店に人気があり、旅行客によるネットの評価も高い」と書いているが、 割烹とは「割烹着」というように料理と同義語だから、「割烹形式」なる言葉は存在しない。「板前割烹形式」の店が増え、料理人が表に出てくる時代になった、と言いたいらしい。安倍首相ではないが、それこそ「丁寧に説明してもらいたい」ものだ。
 食品の「うまみ」や「こく」などについて鋭い論考を著している伏木教授だが、料亭やレストランなど「料理の提供と受容の形態」については、さらなる研究が必要だろう。

×月×日 中野の「ふく田」で、パリから帰国中の料理研究家、相原由美子さんと会食。鮑のステーキとブータンの松茸を堪能する。
 ブータンの松茸は7月17日に第1便がブータンのパロからバンコク経由で羽田に到着し、9月ごろまで楽しめる。8月には、ブータンのティンプーで松茸祭りが盛大に催されるが、現地の人は松茸の香りを好まないのだとか。

×月×日 淳ちゃん先生のこと(第二章・その5)
 現代版「細雪」を企図した週刊朝日の連載小説「化粧」は、柔和な京言葉と祇園の料亭の女将や芸妓たちが身にまとう和服の描写が評判を呼んで、順調に滑り出した。京都を舞台にした渡辺淳一の最初の小説「まひる野」は標準語だが、「化粧」は京言葉で書かれている。渡辺自身は祇園のお市から教えてもらっていたと思うが、編集部でもしかるべき人に依頼して毎週、逐一京言葉の校訂を受けた。
 一口に京言葉といっても、祇園街のような花街と室町辺りの商家や西陣周辺の職人とでは、それぞれ用語もアクセントも微妙に異なる。録音した芸妓(げいこ)の言葉を忠実に文字に再現しても、小説の文章にはならない。「京言葉は濁音が多く、字面から見るとあまり綺麗とはいえない。美しく聞こえるのは、アクセントやイントネーションによって独特の柔らかさが加味されるからだ」と渡辺はいう。しかし小説ではアクセントまで表現できない。
 京都の言葉について、渡辺は北海道新聞に語り下ろした半生記「愛と生を書き続けて」のなかで、次のように述べている。
<京言葉には「ノー」という否定語がないのです。例えば、私が、「今晩、どこそこで待っているから会おうよ」と誘うと、芸妓は「おおきに、うれしおす」と答えます。でも、その子は来ません。翌日、その子を呼んで、「待っていたんだよ。今晩こそは」と言っても来ない。私が頭にきて文句を言うと、お茶屋のおかみから、それは嘘ではない、と教えられたのです。「おおきに」というのは、「誘ってくれてありがとう」という意味だと。(略)
 これに比べて、北海道はまったく明快。札幌のススキノで遊んで、「今晩どうだ」って誘うと「嫌だ」って答えますから。そこまで言わず、すこしはあいまいに断ってよ、と思ったこともありますが……。>(集英社『渡辺淳一の世界Ⅱ』)
 こんな話も聞いたことがある。
「転居通知には、『お近くにお越しの節は、ぜひ気楽にお立ち寄りください』という決まり文句があるけど、北海道の人は真に受けて、本当に来ちゃうんだよね。不審に思って『何か用かい』と訊くと、『葉書に、寄ってくれと書いてあったじゃあないか』と真顔で開き直るんだ」

 この北海道の「直截」と京都の「婉曲」の落差が、渡辺をして京都にのめり込ませたのかもしれない。
 しかし、川端康成の「古都」や谷崎潤一郎の「細雪」の京言葉はどこか違う、といい、「今、作家で私ほど正確な京言葉を書ける者はいない、と自負しています」とまで自信を持たれてしまうと、「ちょっと言い過ぎじゃありませんか」と突っ込みを入れたくなる。

「化粧」が始まって一か月後に産経新聞夕刊で「愛のごとく」の連載が始まった。渋谷の公園通りにある渡辺淳一の仕事場は一種のサロンだった。夕方に訪ねると、必ず各出版社の編集者ら7,8人がたむろしている。原稿が出来上がるのを待っているのだ。まだファクシミリが普及していなかったから、原稿を持ちかえってゲラ刷りにし、また届けるといった手工業的作業に明け暮れていた。
 原稿を入手してから、下版(校了)までの時間的な余裕は限られている。原稿が活字になってから著者の「手直し」が入る。作家によってその程度は異なるのだが、渡辺の「直し」は相当に多い。原稿はいわば下書きのようなもので、完成品との間にはかなりの差がある。池波正太郎や平岩弓枝、津村節子などはほとんど手を入れないが、松本清張、五木寛之などは、かなりの赤字が入る。
 誰かが、五木の赤字の入ったゲラ(校正刷り)を見て、「血の滴るようなゲラ」とか、「鬼気迫るゲラ」と表現した記憶がある。あるいは松本清張のゲラ直しを見た五木の発言だったかもしれない。要は自分が納得する小説に仕上げる執念だ。著者がそこに至るまでの余裕の取り方の問題であって、別に池波正太郎や平岩弓枝が、「手を抜いている」わけではない。
 限られた時間のなかで、複雑な手直しに加えて京言葉の校訂が入るわけだから、作業はそう簡単なことではない。もちろん携帯電話はなくパソコンもまだ普及していない時期だったから、いきおい仕事場に編集者が集まり、サロンと化すわけだ。
 渋谷駅から仕事場までの途中、デパートの地下にある食品売り場に寄って、手軽な食材を求めてくる編集者もいた。やがて料理好きの影山勲(産経新聞)が台所に入り、包丁を揮って簡単な料理を作るようになった。そのうち仕事場にある酒を飲み始める。
 執筆中の渡辺にできた料理を差し入れたりしているうちに、原稿を書き上げた渡辺も顔を出して一緒に飲み始める。ビールは秘書が用意し、ウイスキーは到来物があった。ある日、影山がフランスパンにハムとチーズを手にして、意気揚々と現れたことがある。渡辺が、「ゲラはどうしたの?」と言うのに、「しまった」というなり会社に電話して、庶務の子どもさん(給仕)を呼び出すと、「俺の机の上にある小説のゲラをオートバイに頼んでくれ! そこにあるだろう!」と怒鳴りつけた。
 温厚な渡辺も呆れて、「キミねい、フランスパンよりゲラの方が大切じゃないのかい」と笑っていた。こういう時の渡辺の口調には、「キミねい」の「キミ」に微妙な北海道訛りがでる。作家を囲む編集者の親睦団体「やぶの会」の源流は渋谷の仕事場から発したといってよい。別に原稿を貰う約束が無くても、御用聞きよろしく顔を出す編集者もいた。この辺りはやはり渡辺淳一の人徳だろう。渡辺自身も、<編集者同士が仲良くなって、それが後に「やぶの会」という、文壇で最大規模の編集者の会のベースになりました>と後に語っている。(『渡辺淳一の世界Ⅱ』集英社)
 編集者は著者の原稿を誰よりも先に読むわけだが、文末で「……のようである」とか「……かもしれない」と曖昧に終わる文章が多いのに気が付いた。断定を避けているのだ。新聞や週刊誌の文章では、考えられない終わり方だった。これには渡辺一流の計算があった。
「人間の表面には現れない裏側に潜む心理の襞(ひだ)を書きたい。小説を書く醍醐味はその心理描写にこそある」とよく言っていた。「化粧」を発表してから約10年後、文芸誌「小説すばる」に「創作の現場から」と題して、「作家の手の内」を公開している。小説を書こうとしている人への一助となることを目論んだ書だが、次のようにある。
<微妙な心理の綾(あや)を書く場合、注意しなければならないのは、あまり断定形をつかわないことです。「こうだ」「そうである」ではなく、「かもしれない」「のようだ」といったように、表現に含みをもたせることで、奥行きのある心理描写が可能になってきます。>(集英社文庫)
 この渡辺がいう「効果」のほどには、異論があるかもしれないが、他の作家にはあまり例をみないユニークな文章のようである。私には、どうしても渡辺本人のやや優柔不断な性格が現れている文章に思えてくるのだが。
「ようである」が2,3行おきに頻出すると、こちらから指摘して直してもらう。「化粧」ではない他の小説だが、文庫版1ページに「ようである」が5か所も出てくる。私が担当だったら、少し言い換えてもらっただろう。
「化粧」の連載はだいたい発売時季と物語の季節は連動していた。真冬に夏のことを書くのは、渡辺の趣味ではなかった。連載が始まって、最初の正月を迎える1979年の歳末はことのほかのんびりとしていた。翌年の1月からは「渡辺淳一作品集」全23巻の刊行がいよいよ始まろうとしていた。第一回の配本はもちろん「化粧」ではなく、札幌時代から直木賞を狙っていた『花埋み』だった。見本もすでに出来上がってきた。暮れも押し詰まった12月29日に仕事場で「正調石狩鍋の会」が開かれた。調理指導・監修は渡辺淳一、調理主任はもちろん影山勲。札幌の炉端焼きの店「サランベ」から立派な鮭が2尾届けられた。渡辺のいう石狩鍋の「正調」は味噌仕立てで生の鮭の頭から尻尾まですべて入れる。野菜は大ぶりに切ったジャガイモ、大根、長ネギなどだ。鍋の半分以上を鮭で満たす。20名くらいの編集者が集まり、用意したすべての食材を3台の鍋で食べつくした。影山の包丁さばきと味付けの塩梅に故郷の味を満喫した渡辺は途中でダウンしたが、翌朝まで雀卓を囲む人もいた。翌日は渡辺も加わって、宴は30日の夜まで続いた。

 年が明けて1980年の3月には、第14回吉川英治文学賞を受賞した。受賞作品は、『遠き落日』(上・下)と『長崎ロシア遊女館』。黒岩重吾(『天の川の太陽』)との2人受賞は初めてのことだ。デビュー作から受賞までは、異例の早さだった。
 吉川賞は1967年に創設され、第1回が松本清張、第2回が山岡荘八、第3回が川口松太郎という受賞者を見てもわかる通り、そもそもは「幅広い作家活動に対して」といった功労賞的色彩が強かった。第8回の新田次郎『竹田信玄』からは候補作も発表され、作品が主体となった。第11回が池波正太郎、第12回が杉本苑子、第13回が吉村昭と言った受賞者の顔ぶれを見ても、渡辺がいかに「早い」受賞だったかがわかる。
 直木賞路線では吉川賞を取ると、「一丁上がり」というか、その後にもらうべき適当な賞はないと言っても良かった。ひとしきり渋谷の仕事場で、吉川賞が話題になった時、「婦人公論」の水口義郎が、「まだあるよ」と声を出した。皆が怪訝な眼差しを向けると、「大宅壮一ノンフィクション賞だよ」とさりげなく言った。その場に笑いが湧きあがった。渡辺は自室に籠って執筆に勤しんでいたので、その場にはいなかった。
 渡辺の多くの「男女もの」には、それとなく複数の特定の女性の影が透けて見えるからだ。もちろん創作であることに間違いはない。日本初の女性医師、荻野吟子(「花埋み」)や歌人の中城ふみ(「冬の花火」)、黄熱病の野口英世(「遠き落日」)などの伝記小説の系譜があるから、「男女もの」もその延長線上にあると考えたのかもしれない。「中央公論」の「白夜」を担当していた水口は酒を嗜まなかったが、独特の岡目八目で皮肉な観察眼を持っていた。渡辺と同じ昭和8年生まれなので、仕事場に集まる編集者仲間では「長老扱い」だった。ノンフィクションのジャンルには伝記も含まれるから、本気で「白夜」の受賞を考えていたのかも知れない。
 授賞式が終わり、編集者数人が女優Kの山中湖の別荘に泊まりがけで出掛けた。銀座の女性も2,3人いたようだ。私は参加していない。女優のKとは、「麻雀仲間」だった。この小旅行が「やぶの会」のルーツだという人もいる。
「化粧」の連載は翌年の1981年4月には終わる予定だった。ちょうど2年の計算になる。連載も終わりに近づくと、そろそろ「着地」を考えなくてはいけなかった。京都は金閣寺近くの原谷の桜から始まり、ほぼ季節は同時進行だった。おそらく京都の桜の情景で終わる予感がした。平安神宮の枝垂れ桜は「細雪」に登場するから、どこか他に桜の名所を探すことになるのだろう。
 祇園の料亭「蔦乃家」の若女将となった里子は夫がある身ながら東京の大企業専務、椎名(余計なことだが、イ段の文字が二つある)の子供を産む。椎名は神の罰を受けるかのように、マニラに転勤となった。しばしの別れを惜しむ小さな旅に出かける構想はふたりで一致していたから、京都の近くで適当な場所を探す必要があった。渡辺に編集長の畠山哲明と祇園のお市を交えて、飛彈の高山から平湯を抜け、信州の上高地までロケハンしたことがあったが、季節を考えるとあまり相応しくはない。

 渡辺が初めて丹後の峰山町(現京丹後市)を尋ねたのは1980年の10月23日だった。文藝春秋主催の講演会で、作家の豊田穣、漫画家のおおば比呂司と一緒に三重県名張市、奈良県五條市、京都府亀岡市と続き、最終日が京都府の峰山町だった。文藝春秋から鈴木重遠が同行している。
 講演会に出発する前に、京都でお会いしたい、と都合を尋ねたら、峰山の講演会が終わったら、和久傳(わくでん)には泊まらず、すぐに車で京都に向かうつもりだという。4日間の講演旅行を終えた渡辺は、初めての旅館に泊まるよりも早く京都へ戻りたかったのだ。祇園のお市の顔を見るためだったのかもしれない。京都で会うのは別の機会にするから、峰山に泊まったほうがいいと、私は勧めた。
 私の頭の中には、椎名と里子が出かける「別れの旅」の候補の一つに峰山の和久傳へ蟹を食べに行くプランがあったから、和久傳がいかに素晴らしい旅館であるか仔細に説明して、ようやく納得してもらった。
 渡辺が最初に泊まった10月はまだ蟹の解禁前だったはずだ。北海道育ちの渡辺は、蟹といえば毛蟹が最高と思っている。私は両親が若狭の出だから、小さい頃から越前蟹(ずわい蟹)を食べている。怪異な外見はともかく毛蟹の身はどうも気品に乏しい。渡辺にずわい蟹を一度食べさせたい、という思いもあった。講演会からひと月経った11月末に再び峰山へ行くことになった。
 和久傳では女将のKにすっかりお世話になった。「毛蟹なんか、蟹の内に入らない」と主張し、「ずわい蟹に命を賭ける」女将の剣幕と実際に間人(たいざ)の港に揚がったばかりの蟹を焼いて食べてみると、渡辺もずわい蟹の美味しさを認めざるをえなかったようだ。この「蟹談義」は「化粧」にも登場するが、拙著『食彩の文学事典』(講談社)にも詳しく書いた。
 峰山に着いたら、雪が降っていた。お天気雨の「雪バージョン」とでもいうのか、薄い日差しがあった。渡辺は、「雪空に穴があるらしく、雪のうしろに陽が輝いている」と書いている。巧い。作家の文章だ。
 和久傳で蟹を堪能した翌日、女将の運転で天橋立(あまのはしだて)まで送ってもらった。助手席に座った渡辺は、車の中でほとんど眠っていた。雪が降り始めたかと思うと、はるかかなたの海上に虹がかかった。
<一枚の鈍色(にびいろ)の壁と見えた空と海に、雪がしきりに降る。見ていると、雪は海から舞いあがっているようでもある。
 松島を過ぎ、屏風岩まで戻ったとき、海に虹が見えた。車を停めて見ると、大きく半弧を描いた左端のほうは晴れて、右端のほうはまだ雪が降っている。>(新潮文庫)
 女将はあれだけぐっすり眠っていたセンセイが克明な風景の描写や自分が説明した話を書けるはずがない、と思ったらしい。「週刊朝日」を読むや否や「本当は、重金さんがお書きになったんでしょう」と本人に尋ねたらしい。私が書いたと思われるのは光栄ではあるけれども、ありえない話だった。私の文体ではない。渡辺がきちんと自分で書いた。作家とジャーナリストとでは、文章のテクスチャー(質感)がまったく違う。
 実は渡辺には、どこでも眠れるという特技がある。医師だから急な患者があれば当直中の深夜でもたたき起こされるのは日常茶飯のことだ。長時間の手術で「脚持ち」と呼ばれる助手を務めていた時、あまりにも長くなったので、患者の大腿部を抱えたまま眠っていたことがあったとも聞いた。さらに起きてすぐに仕事に取り掛かれるのも特技に加えていい。天橋立への車中でも、おそらくうつらうつらしながら印象に残った光景は言葉に置き換えて、大事に頭のどこかに記憶していたに違いない。その後も、渡辺と女将の親交は続いた。私も加わり3人でゴルフをしたこともある。
「化粧」に続いて毎日新聞に連載した「ひとひらの雪」や再び「週刊朝日」を舞台に連載された「桜の樹の下で」などを読むと、おぼろにその陰影を感じる。もし文藝春秋の講演会の後、私がどうしても京都で会いたいからと言い張って、渡辺が和久傳に泊まらなかったら、以後の小説にもかなりの影響があったと思う。
 この峰山への小旅行で、単行本は朝日新聞社から出版することを決断する。(敬称略・この項続く)(17・8・23)
次回更新は2週間後の9月6日を予定しています