第187回 久下貴史さんの個展、小川是君の死、淳ちゃん先生のこと(承前その6)

×月×日 銀座の伊東屋で開かれている久下貴史(くげ・たかし)さんの個展「ぼちぼちニューヨーク」へ。早いもので、もう17回を数える。かつての同僚、池辺史生(ふみお)さんと邂逅。
 京都出身の久下さんは風間完画伯のたった一人の弟子。中野の自宅に住み込ませ、内弟子にする意向だったが、夫人の反対で実現しなかった。年齢の近い息子が3人もいたから、いろいろと難しかったのだろう。久下さんは上京を断念し、京都で新聞配達をしながら風間さんの指導を受けた。
 一度風間さんと京都へ出かけた時、朝食時にホテルへ呼び出したことがある。画伯がいつも持ち歩いているゴルフ場のちびた鉛筆をポケットから出すと、卓上のコースターに今どんな絵を描いているのか、ここに描いてみろ、といった。左手で、なにやら女性の顔を描いたようだ。
 やがて週刊朝日の「山藤章二似顔絵塾」の第1回大賞を受賞する。その時の担当者が池辺さんだった。

×月×日 元大蔵省(現財務省)の事務次官から横浜銀行頭取を務めた小川是(ただし)君が食道がんで亡くなった。高校時代の同級生。頭脳明晰だったことはいうまでもないが、人間的な魅力(面白さといってもいい)にも富んでいた。いわゆる「脇の甘さ」はまったくない人だが、別に肩肘はったところはなく、誰とでも親しく話ができた。
 同じクラスには運輸省(現国土交通省)の海上保安庁長官から帝都高速度交通営団(現東京メトロ)総裁になったT君もいたが、こちらはガリ勉一筋で面白くも可笑しくもない。同じエリート官僚といっても、対照的な2人だった。

×月×日 淳ちゃん先生のこと(第二章・その6)
 1981年が明けた。2年間にわたる連載小説「化粧」もようやく4月の終着点が見えてきたし、単行本の出版も本決まりとなった。3月から毎日新聞の朝刊で新しい連載小説「ひとひらの雪」が始まる。
 2月上旬、渡辺淳一と編集者の有志で北海道の紋別に出かけた。女優のK、影山勲(産経)、鈴木重遠(文春)、横山征宏(集英社)、龍円正憲(河出書房新社・後に集英社)、大村孝(毎日新聞出版局)、まだ女子大に通っていた秘書の小西恵美子に私と9人の旅だったと思う。幹事役が誰だったのか記憶にないが、前の日に各々で札幌に入った。
 札幌を9時ごろ出発する網走行きの特急で旭川を経て遠軽(えんがる)まで。遠軽から紋別までは雪道を自動車で走った。特急の発車時間まで大通り公園の雪像を見ていたら、毎日新聞の大村孝から声を掛けられた。大村は新潮社の出版部に在籍していたが、「週刊新潮」への異動に首肯せず、毎日新聞の出版局に転じた。それほど書籍の出版の仕事に愛着を持っていた。
 大村に毎日新聞で近く始まる連載小説の単行本の出版権について尋ねると、断られたという。同じ新聞社の出版部門で働く者にとっては残念な情報だった。その交換条件として、他の週刊誌に連載した長編の小説の出版権を提示されたという。連載の始まる前から、そこまで周到に手を打たれたのでは、引き下がるほかはなかったのだろう。
 遠軽まで札幌から4時間はかかった。この年は前年の暮れから青森から北陸にかけて、「56豪雪」といわれる全国的な豪雪に見舞われ、130人を超える死者が出たほどだ。紋別では折しも「オホーツク流氷祭り」が開かれていた。札幌の雪祭りは自衛隊が制作に協力する雪像が呼び物だが、紋別の海岸通りの公園には氷像が並んでいた。やはり自衛隊の協力が必要だった。
 どこで夕食を摂って何を食べたのか、まったく記憶にない。二次会で出掛けたスナック「なおみ」のママが、「その節は有難うございました」と渡辺に何度も頭を下げ、私たちに「先生は私の命の恩人だ」と繰り返し話しかけてきた。縦に長いカウンターがあるだけの素朴な店だが、入り口においてあるカラオケセットは最新の機材だった。
 聞けば、ママは初期の短篇「廃鑛にて」に登場する「患者」だった。直木賞を受賞した1970年の暮れに「母胎流転」のタイトルで「小説現代」に発表した作品だ。編集者のあいだでも、当時の短篇を推奨する人は多い。「廃鑛にて」は短編集の書名にもなっているくらいで、代表的な作品だった。
 渡辺は1959年に医師の国家試験に合格すると、整形外科学の医局に入り、大学院に進学した。医師の免許を得てから半年にもならないのに、雄別の炭鉱病院に出張を命じられた。まだ26歳の新米医師だが、肩書だけは整形外科医長だ。あわてて先輩医師について、骨折やアキレス腱の手術を執刀しただけの「急造医師」だった。
 釧路から鉄道で1時間ほど北に入った三菱系の雄別炭鉱はかなりの量の石炭を産出し、雄別町には1万人くらいの人が住んでいた。山を越えれば阿寒湖だ。炭鉱は落盤や機械事故などによる骨折や脱臼といった派手な外傷が多かった。医師の定員は10人だが、常勤は6人で外科系は整形外科に外科、産婦人科の3人しかいない。近くで最も大きい病院は、釧路の労災病院だが、車で片道1時間半はかかる。手におえない患者は「大学に連絡して、釧路に送るように。自分で手柄を立てようとするな」と事前に河邨文一郎教授から懇々といわれていた。
 以下は、渡辺の述懐と小説「廃鑛にて」の記述からの話だ。小説だから当然のごとく脚色や誇張がある。あくまでもフィクションとして読んでいただきたい。
 小説では、新米医師の有村が当直の夜、炭住に住むショック状態の29歳の朝井千代を往診する。血圧がほとんどない。妊娠4か月というにはお腹が膨らみ過ぎている。輸血と点滴をしても血圧が上がらない。朝井が診察を受けている釧路の山村産婦人科医に連絡すると、彼女は何回も堕(おろ)しているので、恐らく子宮破裂だという。子宮が裂けたところの胎盤をむしり取って子宮を縫っておけばいい。出血が止まれば、後は何とかするからと簡単にいう。
 盲腸くらいならともかく、子宮の手術などとてもできないと弱音をはく有村に、「釧路まで運んだり、点滴や輸血だけでは間に合わない」と手術を勧める。というよりは「指示」、いや「命令」に近かった。有村の診立ても、「このままでは間違いなく死に至る」ということで一致していた。今、「鉱山(やま)」に外科医は自分しかいない、という使命感が有村を奮い立たせた。ベテランの看護婦長に協力してもらい、手術に踏み切った。
 有村のメスが腹膜を切り開いた瞬間、腹部にたまっていた血が一気に溢れ出た。おびただしい量で、膿盆を使って掻き出すほどだった。胎児を取り出すと、血の海の中に黄色に輝く球体を見た。「これだな」と手に取ると、婦長が、「それは膀胱(ぼうこう)です」と教えてくれた。
<「子宮はその下だな」
 有村は医局で見た手術書の図を思い出した。更に掻き出す。二度くり返した時、ようやく膀胱の下に白く部厚い肉塊が目に映った。(略)
 山村医師の言ったとおり子宮の上部が大きく裂けている。そこから千切られた胎盤の端が顔を出し血を噴き出している。そこがまさしく大出血の源(みなもと)だった。>(『廃鑛にて』中公文庫)
 胎盤を取り出すのは困難な作業だった。芝生に水を撒く回転噴水を思わせるかのように血が噴き出してくる。
「よし、針と糸」と言うと、有村は狂気のように、前後、左右、斜め、とみさかいなく子宮の破裂口に糸をかけた。十分ほど経つと、四方八方から縫いかけた糸はようやく効果を表し、破裂部は左右から寄せられた子宮の表面で、袖(そで)の先のようにすぼまった。
 一応止血は成功し、1時間ほどを要した手術は終わった。しかし血圧は無く、脈搏(ブルス)も無かった。医学書によれば、人間の総血液量は体重の13分の1。その3分の1が出血すれば、死ぬとある。患者は、45キロくらいだから、3500ccとしても、半分以上の2000ccはゆうに出ていた。
「あと2、30分か」
 有村は半ばあきらめて自室に戻った。死んでいく経過を見る気持ちにはなれなかった。
 しかし奇跡は起こった。看護婦が、「脈搏が感じられる」と知らせてきた。血圧計の水銀柱も微かに波動している。教科書通りなら、死んでいるはずだった。女だから生き返ったので、男なら死んでいた、有村はそんなことを考えていた。
 翌日になると、朝井は意識を取戻し、三分粥ではなくもう少しお米の入ったお粥が欲しいと食欲も出てきた。2週間後に朝井は「いつか先生とデートしたいわ」という言葉とN社の2千円のウイスキーをプレゼントして笑顔で退院していった。
 4年後に再び雄別炭鉱病院に3か月の出張勤務となった。有村が驚いたのは、朝井が3か月くらいの赤ん坊を抱いて訪ねてきたことだ。「先生がいなかったら、今ごろ私もこの子もいなかったわ」という言葉に、「違う、それは君自身の力だよ」としか、言いようがなかった。
<あの子宮が再び甦って子を妊(はら)んだというのか、まさか、あれだけ縛りつけ、いびつに曲ったのに、あれだけ小さく縮こまったのに。
 どう言いきかせても有村には信じられない。>(前掲書)
 言うまでもなく有村は、渡辺と等身大の医師として描かれていた。朝井千代に擬せられた22年前の元患者が目の前にいる。「先生は私の命の恩人です」としつこく繰り返す小太りのママの言葉には、歳月を超越した感謝の念がリアルに込められていた。
 現在の雄別炭鉱の跡地に人は住んでいない。炭住などが廃墟として残っているだけだ。心霊スポットの「秘境」として、肝試しに訪れる人が後を絶たない、と聞いた。本来、医師はあまり患者のことを書くべきではないと思うが、ママは、自分がモデルだと公言し、『廃鑛にて』の文庫本も店に置いてあるほどなので、渡辺もエッセイに当時の心境を吐露している。
<彼女の顔を見ているうちに、当時の恐怖が甦ってきた。
 実際そのときは、お腹は開いたが、血の海で仰天し、膝はがたがた震え、膀胱を子宮と間違えて、縫いかけたほどだった。>(「紋別まで」『北国通信』集英社)
 医師と患者にこのようなドラマティックな邂逅があるとは想像できなかった。ママは「恩人」との再会にテンションが高まったのか、若い声で織井茂子の「黒百合の歌」を熱唱した。慣れた歌いっぷりだ。紋別のカラオケコンクールで優勝した経験があるという。
 渡辺は、「初めて出会った女という性への驚きや畏怖を書きたかった」と述べている。若き新米医師にとって、雄別炭鉱病院の出張は、「女性が持つ生命力の強さに男性はとうてい敵わない」ことを知った。「人間は体内の血液が半分以上出血すると死ぬ」という教室で教わった知識を否定された。男性と女性の生命力の違いについては、よく次のような例を持ち出して説明していた。
 硬いテーブルの上に、赤ん坊を置いたとする。男の赤ん坊は、泣いたりぐずったりするけれども、女の場合はしばらくするとすやすやと眠ってしまう。環境への順応性が男と女でまったく違う。その違いが生命力に反映しているんだ。
 雄別の炭鉱病院で学んだことは、もう一つあった。社会の現実を知ったことだ。矛盾といってもいい。炭鉱には厳然とした身分格差というか二重構造があった。事務職、鉱員、組夫と呼ばれる下請けの作業員。それぞれ、住むところも買い物をする市場も違う。作業を終えて汗を流す浴室から病院の病室まで差があった。炭鉱の病院であって、一般の人や下請けの人の病院ではなかった。事故に遭って重傷者を先に手当てしていると、どうして組合員より組員を優先するのだ、と文句を言われた。新米の青年医師のまっとうな正義感は、融通が利かない「青二才先生」とレッテルを貼られ、相手にされなかった。
 翌日は札幌まで空路で帰ることになった。車で20分ほどの紋別空港(現「オホーツク紋別空港」)へ行く途中、スキー場を見ると、渡辺は、一すべりすると言い出した。高校時代は国体を目指していた、と豪語する割にはそれほどの腕前ではなかった。別に転倒したわけではないが、20数年ぶりのゲレンデは歳月の重みを感じたようである。
 飛行場で待っていた飛行機は、DHC-6型機(デハビランドカナダ)。当時全日空(ANA)の主力機だったオランダ製(エンジンは英国のロールスロイス社)のフレンドシップ機と同じで胴体の上部に翼が水平に付いていた。大きさは、40人乗りのフレンドシップの半分くらい、20人で満席だった。
 よく飛行機が飛んだと思う。あえぎ、あえぎエンジンを全開にして北見山脈を越える雲と霧の中の飛行だった。渡辺の「もしこの飛行機が落ちたら、日本の出版業界は壊滅的な悲劇を迎えるな」と冗談めかした言葉に笑(えみ)も凍えるような飛行だった。予定の到着時刻からかなり遅れて、札幌の丘珠(おかだま)空港に着陸した。札幌の雪はやんでいたが、数日前に降り積もった雪の重みで屋根が押しつぶされた無残な格納庫が私たちを迎えてくれた。北海道の冬の自然の過酷な一端を目の当たりにし、無事に札幌に着いた安堵がさらに増幅した瞬間だった。
「やぶの会」の名前が決まったのは、この紋別行のすぐ後だったと思う。名前の由来は、何があるのか分からない、というのが表向きの説明で、「何でも有り」ともとれる。渡辺の医師としての腕前と関係がある、と面白くいう人もいるが、あくまでもジョークに過ぎない。(敬称略・この項続く)(17・9・6)
次回更新は9月20日を予定しています。