第188回 「セザンヌと過ごした時間」、7人休場の秋場所、5代目桂三木助、淳ちゃん先生のこと(承前・その7)

×月×日 映画「セザンヌと過ごした時間」を渋谷のル・シネマで。「近代絵画の父」ポール・セザンヌと作家のエミール・ゾラは、南仏エクサンプロバンスの中学校で同級生だった。家計が貧しいゾラはパリへ出て苦学の末に流行作家となる。素封家の息子セザンヌはパリとエクスを往復して、画業に勤しむがいっこうに芽が出ない。
 二人は終世を通じての親友だが、セザンヌは難しい性格で周囲との人間関係はいつも破綻した。セザンヌの絵画が世に認められたのは晩年になってからだった。マティスは「セザンヌは私たちみんなの先生」といい、ピカソは「あなたは父親みたいな存在だ」と褒めたたえた。
 親友である芸術家同士の厚情と嫉妬が絡み合うストーリーは、派手ではないが見応(ごた)えがある。セザンヌが好んで描いたサント・ヴィクトワール山の風景もいい。ゾラ原作の映画、「居酒屋」と「嘆きのテレーズ」(「テレーズ・ラカン」)をもう一度観たくなった。

×月×日 三横綱に前頭二人が休場するという異例の秋場所。かてて加えて、三日目には大関の高安、人気沸騰の小兵、宇良までもが怪我で休場する羽目になった。5日目に佐田の海が復帰したと思ったら、大関の照ノ富士も休場。横綱の対戦相手に苦慮していたところに8日目から碧山が復帰し、横綱に挑戦したが、勝負にならなかった。
 テニス界も同じで、ランキング10位以内に位置する主力選手の故障と欠場が問題となっている。選手の肉体がヤワ(軟弱)なのか、スケジュールが過密すぎるのか。プロ野球の日ハムの大谷翔平も宇良関も体重の増加に取り組んできた。どうも故障と関係があるように思えてならない。

×月×日 有楽町朝日ホールで朝日名人会。桂三木男(大工調べ)は名人といわれた3代目三木助の孫、自死した4代目三木助の甥になる。9月下席から真打に昇進し、5代目三木助を襲名した。入船亭扇辰(一眼国)、柳家喬太郎(擬宝珠)、林家正雀(芝居風呂)。トリは、柳家権太楼の「藪入り」。
 権太楼にいわせると、「野ざらし」や「湯屋番」は時代背景が理解されにくいせいか、寄席に掛けてもあまり人気が出ない。「薮入り」もその範疇に入るという。権太楼は薮入りの風習や丁稚(でっち)の大事な仕事はネズミの駆除で、交番に持って行って懸賞金がもらえたと丁寧に説明していたが、やはりリアリティは希薄だ。薮入りや奉公、丁稚も、もはや死語といってもいい。
 爆笑路線の王道をいく権太楼にとって、「ネタおろし」に近い「薮入り」が似合う演目かどうかは、議論が分かれるところだ。レパートリーの広い権太楼だが、「代書屋」以外となると、なかなか難しいのかもしれない。

×月×日 淳ちゃん先生のこと(第二章・その7)
 1979年の4月から足掛け3年にわたって「週刊朝日」に連載された渡辺淳一の「化粧」は、1981年4月に完結した。
「化粧」が終わるのを待っていたかのように3月から毎日新聞の朝刊で、小説「ひとひらの雪」の連載が始まった。題名は、渡辺自身がいたく気に入っていた。野坂昭如は、「雪はひとひら、ふたひらと数えるのか」と揶揄したが、「そういう瑣末なことは超えて、ひとひらでなければいけなかった」と自信を持って断言している。
 連載が始まるとすぐにある「事件」が起きた。担当者が原稿一日分をすっ飛ばして、翌日の原稿を紙面に載せてしまった。当時の新聞印刷はまだデジタル化されていなかったから、鉛と錫の合金の「活字」を用いていた。作家にもよるが、多くの人は新聞小説の原稿を3回分とか1週間分まとめて渡す。毎日一回分ずつ原稿を渡す人もいるが、少数派だ。なかにはすべて書き終えて自宅の金庫に入れておいた吉村昭や新田次郎のような少数派のなかの少数派もいる。連載中にもしものことがあれば、読者に迷惑が掛かるという慮りである。
 乙川優三郎が朝日新聞に連載した『麗しき花実』の場合は、乙川の強い希望で、さし絵を中一弥に依頼した。すでに百歳近かった中は、「私も年で、連載の完結まで生きていられるかどうかはわからない。もし予め全部の原稿を頂けるなら、引き受けましょう。画稿はすべて描き上げますから」と言って、乙川も了承したという。
 それはともかく渡辺の場合は、おそらく数日分を渡したのだろう。新聞の印刷局の活版部では、活字に組んだ「小組」を棚に保管しておく。棚から出して1頁の「大組」にする際に、誤って翌日の回を組み込んでしまった。
 私も読んでいたが、どうも昨日の回とつながらない。翌日読んで、「ああ、飛ばしたな」とわかった。あわてて少し手直しをした形跡はあるが、ぎくしゃくした感じは否めない。
 渡辺は「原稿を書きためておくと、碌なことはない。これからは1日分ずつ渡すことにするんだ」と笑っていた。訂正を出すよう要求したが、不思議なことに毎日新聞は訂正も出さずに頬被りしてしまった。「訂正を出すと、処分される人がでるから」というわけのわからない理由だった。こういう時、渡辺は比較的寛容な態度をとる。医療の現場にいて、「人間がやることに過誤は避けられない」ことがわかっていたのか。あるいは定年間近の担当者の境遇に同情したのかもしれない。
 毎日新聞出版局が「ひとひらの雪」の出版権を取れなかったことはすでに述べた。あくまで仮定の話しだが、出版が毎日に決まっていたら、渡辺はもっと強く出たかもしれないし、激怒して毎日からの出版を取りやめる、と言い出すことも考えられる。やはり多少の引け目があったのかもしれない。
 スタート時に「事件」があったものの、「ひとひらの雪」は連載中から大きな評判を呼んだ。妻子とは離婚の話し中で、二人の女性と派手に関係を持つ男の小説だが、「ひとひら族」なる流行語が生まれたほどだった。「華麗な不倫」を堂々と営む中年男性を指した言葉だ。「釣り落とした魚は大きい」というが、毎日新聞出版局の大村孝にすれば、さぞ悔しい思いをしたことだろう。
「化粧」の連載は終わったが、単行本の準備がある。専業の出版社に負けない「本造り」を心がけなくてはならない。折角苦労して出版権を獲得したのに下手な本を出したら渡辺にも申し訳ないし、他の出版社から「それ見たことか」と笑われてしまう。「新聞社はやはり本を作れない」と言われたくはない。担当は図書編集室の福原清憲に決まった。私と同じ歳で、出版社にいた経験もある。私が担当していた池波正太郎の『真田太平記』の出版も手掛けていたので、気心は通じていた。
 渋谷の仕事場には相変わらず編集者が集まっていた。福原も「やぶの会」顔を出すようになった。渡辺の仕事は毎日新聞の「ひとひらの雪」の他に「中央公論」で、五木寛之の「青春の門」を意識したと思われる自伝的長編小説、「白夜」シリーズが、1976年から始まっていた。「彷徨の章」に続いて「青芝の章」を掲載していた。
「やぶの会」と言っても、別に規約があるわけではないし、「入会審査」をするわけでもない。ただ渡辺は、「部長などの偉い人ではなく、原稿のやり取りを担当しているヒラの部員たちの集まり」といっていた。駆け出しの無名時代を知っている編集者はそれぞれに社内で出世している。その人たちの前では、渡辺も小さくならざるをえないが、若い人の前なら大きな顔も出来る。
 早乙女貢のように1955年から1965年までの経歴を「作者の意志」として、自分の年譜から抹殺した例もある。1954年の「山本周五郎の知遇を得て創作に専念」から1966年の「直木賞候補になる」までの間が空白なのだ。自分の過去を隠したい何かがあったのだろうか。下積み時代によほど公にしたくない著作を書いたのかもしれないし、当時の事情を知る編集者との付き合いを自ら絶っていったという話も聞いた。渡辺の場合はそんな大仰なことではなく、無名時代を知る人にはどうしても遠慮が抜けず、ただ単に気ぶっせいだからであろう。初めて単行本を出してもらった出版社や担当編集者には生涯なんとなく頭が上がらず、その編集者に処女をささげたような感じになる、と含羞を込めて述べている。

 ちょっと話を4年前に戻したい。野口英世の生涯を追った「遠き落日」を「野生時代」に連載していた渡辺は1977年に母校である札幌医大整形外科教室の研修生となった。「化粧」の始まる2年前のことになる。他の連載は、毎日新聞日曜版にエッセイ「公園通りの午後」を寄稿し、小説は「MORE」(月刊・集英社)に「女優―松井須磨子の生涯」程度で、比較的少なかった。医学物と歴史物を書き続けていたのでは、想像力が枯渇すると考えたのだ。やはり小説の本髄はフィクションにある、という持論が甦り、初心に戻りたかったのかもしれない。気分転換と「充電」を計ったのだろう。月の半分を札幌で過ごすことになった。
 若くして講師というエリートの道を歩みながら、「石もて追われるごとく」の一面もあった札幌医大の退職から8年ぶりに古巣へ復帰したわけで、「故郷に錦を飾った」ともいえる。同期では3人が教授になっていた。心臓移植手術の和田寿郎は定年となり、東京女子医大に転出していった。恩師の河邑文一郎教授は、暖かく迎えてくれた。東京の出版社から電話が掛かって来ると、「渡辺は、いま忙しい」と答えるように、医局員に指示してくれた。
 渡辺は、やぶの会に大学時代の医局をイメージしていたのだと思う。自分を医師に育て上げてくれた信頼できる教授がいて、講師としてエリートコースを歩んでいた医局の雰囲気が好きで好きでたまらなかったのに違いない。多忙な東京での執筆生活を逃れ、月の半分ほどを札幌で過ごしてみたら、大学の医局での活気に満ちた生活が甦ってきたのだろうか。将来は教授にまで上り詰めたかもしれない医局の夢を忘れがたく、自分が「教授役」となって「渡辺淳一教室」を作りたかったように思えてならない。それには自分より年上の人は無用だった。
 作家という職業は一匹狼の芸術家と同じで、組織に属さないまったくの個人経営者だ。大学の医学部とは対極の位置にあると言ってもいい。心の中のどこかに、いつかは組織の上に立ちたいという上昇志向があったのかもしれない。その頃池波正太郎は私に、「淳ちゃんは銀行や商社などの大企業に入っても、立派に出世する人ですよ」と語っていたのを思い出す。

 翌年の98年2月に、「遅ればせの会」なる出版記念会が築地の河庄双園で開かれた。呼びかけの案内状を私が書いている。

 皆様、お元気で新年をお迎えのことと思います。
 さてこのたび、私どもの共通の友人、ジュンチャンこと、渡辺淳一さんを囲む会を企画いたしました。これといって、きわめつきの理由がないところから、「遅ればせの会」と名付けました。
 渡辺さんが北海道から上京して十二年、東京ではまだ出版記念会は開かれておりません。昨秋には「渡辺淳一作品集」が好評裡に完結しましたが、なお新聞、月刊誌の連載等をかかえ、どうやら今年も、渡辺さんは多忙のようで、編集者にとっては泣かされる年となりそうです。
 そこで、親しい友人たちでテレ屋の渡辺さんを引っぱり出し、大いにハッパをかけつつ楽しい一夕を過ごしたいと思います。是非、ご参集ください。
 昭和五十七年一月吉日

 いやあ、恥ずかしい。この手の文章はかなり書いていて、いささかの自信もあるのだが、いま読み返してみると、あまり良い文章とは言えませんね。若気の至りとしても、未熟でお粗末だ。片仮名が多いのも気になる。書いている者と渡辺淳一との距離感、レンズのアングルが定まっていない。その理由は、言い訳になるが発起人の顔ぶれと会の趣旨が曖昧だったからかもしれない。
 発起人の名前を挙げてみる。

 安藤金次郎、伊賀弘三郎、加藤武彦、角川春樹、川合多喜夫、川西政明、川野黎子、草野眞男、高松繁子、千葉豊明、畠山哲明、三木章、水口義朗、藪の会(50音順)

 出版社の現場の責任者が多い。集英社、祥伝社、角川書店、毎日新聞、新潮社、文藝春秋、朝日新聞、講談社、中央公論の部長や局長クラスで、社長は角川春樹くらいのものだ。無名時代を知っている編集者もいる。
 千葉豊明は大学同期の親友。渡辺の小説には、男の主人公と親しい友人が必ずといっていいくらいに出て来るが、その友人のイメージは千葉に重ねられる。加藤武彦は日本航空の広報室。
「藪の会」の文字が見えるが、ここで初めて名前を公的に外部へ発信したことになる。藪でも、ヤブでも構わないのだが、これからは「やぶの会」に統一したい。あえて社長クラスを外したのは、「若僧のくせに派手なことをやりやがって」という世間のやっかみを慮ってのことだろう。出る釘は打たれるのを、警戒したのに違いない。親しい編集者、友人を対象としたごく内輪のパーティーにしたかったことが伺われる。そこに秘められた含羞と遠慮が、案内文の曖昧につながったといえるのかもしれない。
 1995年には、作家生活30年を記念して、「渡辺さんを囲む会」がロイヤル・パークホテルで開かれた。発起人の肩書は案内状に記されていないが、次の7氏だった。
 城山三郎(作家)、井川孝雄(大王製紙)、鶴田卓彦(日経新聞)、大村彦次郎(講談社)、三田佳子(女優)、渡辺亮徳(東映)、角川歴彦(角川書店)。二つのパーティーの発起人の顔ぶれを比較すると、歳月の経過もあるが渡辺の上昇志向がみてとれる。もはや釘が出ていたとしても、打つ人はいなかっただろう。
「遅ればせの会」の出席者は約100人で、河庄双園の大広間をぶち抜いた、着席スタイルの宴会だった。もちろん、銀座からホステスも応援に来た。同業者の顔はほとんど無く、親しい編集者が中心だった。
 幹事役は、祥伝社の渡辺起知夫が務めた。「微笑」に連載した小説「白き狩人」を担当した女性編集者が後に起知夫夫人となったこともあって、渡辺淳一が珍しくも媒酌人を務めている。そんな縁があり、渡辺起知夫はやぶの会の事務局長役を務めていた。手許に起知夫が作った「遅ればせの会」の綿密、詳細な進行表と注意書きが残っているが、二次会は銀座のクラブ「アカシア」と記されている。
 これぞ札幌から渡辺と同時期に上京し、パートの医者時代に警察沙汰となった西川純子の店だ。彼女とは、後年さらにもう一悶着起こすことになる。(敬称略・この項続く)(17・9・20)
次回更新は10月4日の予定です