第189回 安倍首相の国語力、柳家小三治の手術、松茸の土瓶蒸し、淳ちゃん先生のこと(承前・その8)

×月×日 とうとう安倍首相の判断で、解散・総選挙となった。まったくぺらぺらと内容のないことをしゃべる人だ。記者の質問には答えないで、はぐらかす術に長けている。「驕(おご)り解散」という言葉がぴったりする。一方の野党の側も、何が何だかわからない。小池都知事が、本来秘めている右翼嗜好を表に出してきた。自民党よりも右に位置する「日本のこころ」と連携し、そこに民進党がすり寄っていくのだから、「梅に鶯(うぐいす)」ならぬ「桜に鶯」みたいなもので、木(き)が違っている。
 解散の記者会見の数日前、ニューヨークの国連総会で安倍首相が北朝鮮問題の演説をした。「対話による問題解決の試みは、一再ならず無に帰した」とあるところを、「一切、成ならず、無に帰した」と読み上げた。「一再」は「一、二度」の意味で、「一再」と「一切」では、イントネーションが違う。すぐ後に「なんの成算があって我々は三度、同じ過ちを繰り返そうというのか」と続いている。翻訳されたら、大きな違いはないにしても、「一再ならず」という言葉を、安倍首相は知らなかったのだろう。日本語力の貧困さを露呈したわけだが、それとも「スピーチライター」が悪いのか。

×月×日 蒲田駅前の大田区民ホール・アプリコで、柳家小三治一門会。当初は独演会の予定だったが、8月に頸椎の手術を京都の病院で受けた。3週間ほど入院し、予後は順調で翌日から京都市内を歩き回って、リハビリに努めたという。最初の復帰公演は岐阜の多治見市で9月13日だった。
 柳家小八、柳家〆治、柳家一琴の後、登場。元気に「転宅」を演じた。本題に入る前の、まくらの一部だ。術後のリハビリのため大原の三千院にまで足を伸ばし、有名な庭を歩いていたら、植木屋さんが二人所在なさ気に掃除をしていた。「植木屋さん、お精が出ますね」と「青菜」のよく知られたせりふで話しかけたら、なんの反応も無かった。
 それはそうだろう。世の中「落語ファン」ばかりではない。もちろん事実がどうかは、わからないけれども。

×月×日 中野の「ふく田」で「松茸の会」。お椀扱いの土瓶蒸しから始まり、松茸と牛肉のバター焼き。締めは松茸炒飯。国産の松茸は、台風の影響ですっかり影をひそめてしまった。卸し相場で1キロ10万円だとか。日本語が得意でない松茸だったが、香りは充分に感得することができた。
 土瓶蒸しには、鶏肉と海老が入るのが一般的だ。茶碗蒸しに準じているのだろう。今回は鱧だけにしてもらう。添えられたスダチの用い方は各人の好みだが、松茸の香りを楽しむ「お椀」と考えれば、自ずと定まるのではないか。蓋を取って一気に搾りこんでも、別に悪いことではない。

×月×日 淳ちゃん先生のこと(第二章・その8)
 1982年4月には「化粧」が上下の2巻本として、朝日新聞社から出版された。装画は原万千子、装丁は熊谷博人。定価は上巻が980円、下巻が960円だった。すぐに映画や芝居の原作となり、日本的伝統美の系譜を受け継ぐ現代的な作品として高く評価された。伝統美の系譜というのは、川端康成、谷崎潤一郎の流れを汲むということであろう。
<この作品は千枚を超える長編となったが、これを書きながら、わたしは頻繁に京都に出かけ、心身ともに京都につかっていた。当然、前回の「まひる野」のときよりはかなり自信をもって、京都とそこに生きる女性たちを描けたような気がしたが、ここまでくるのに十年近い歳月と、かなりのお金がかかったことはたしかである。>(『告白的恋愛論』角川書店)
 と記し、「お市は、わたしが京都を描くうえで、無くてはならない女性だった。お市がいなければ、これらの作品は生まれなかった」と、お市へ感謝の意を表している。
 ところで、「化粧」は女の視点から女性の主人公を描いているのだが、渡辺はこうも自省する。しょせんは男性が考える女性の心理であって、外見からは決してうかがい知れない女性の内面や生理は、男性作家には描けないのではないか。男性は女性に対して寛容で、甘い解釈しかできない。一般的に思われている女性像と違って、大胆で革新的な面があるのではないか。また一方で意外に殺風景な心境が秘められているかもしれない。
 特に生理の生々しさは、女性作家に敵わないのではないかといって、渡辺は富士真奈美の小説の描写を例に挙げる。
 ある男性と別れたいと思いながらも別れられない女性の話だ。「これが最後」と思って、関係した後、立ち上がると、膣のなかを精液がタラーッと逆流する。この瞬間の感覚が男への嫌悪感に重なり、別れる決意を確固たるものにしている。この見事なマッチングの妙は男には書けない、と『創作の現場から』にある。
 私が渡辺から聞いたもう一つの例は、瀬戸内寂聴の小説だった。
「瀬戸内さんは、『「男は果てた後、死体のように重く私の上に倒れ込んできた』と書いているんだけど、こういうのは、男性には書けないんだな」と話してくれた。この出典は、調べてはみたが残念ながらわからなかった。
 瀬戸内は若い頃、文庫本にして120ページほどの短篇小説「花芯」で、「子宮という内臓を震わせ」、「子宮が求める快楽」とか「わたしの子宮はうめき声を押えきれず」などと、7箇所も「子宮」を頻発させた。花芯とは中国語で子宮のことだ。「子宮作家」とレッテルを貼られた瀬戸内の表現だけに、リアリティがある。
 そういえば、かなり以前に瀬戸内が、「女のことについて男は何もわかっていないのよ。川上宗勲や宇能鴻一郎も全然わかっていない」と、酒の勢いもあってか、熱弁を揮っていたのを思い出した。「私に書かせてごらんなさいよ」と言わんばかりの口ぶりだった。95を越えた現在も、「不倫も恋の一種である。恋は理性の外のもので、突然、雷のように天から降ってくる。雷を避けることはできない。当たったものが宿命である」と、朝日新聞に寄稿した。不倫で騒がれた元民進党衆議院議員の山尾志桜里への激励だった。
 話が逸れた。渡辺は、いかにデティールの描写が小説に重要であるか、と言いたいのだ。面白いエピソードやリアリティに富んだディテールがあれば、ひとつの短篇小説が書けるということである。そして男と女の間には、どうしても理解できない溝があるということでもある。女性の視点から書いた小説は、「化粧」が最後の作品となった。
 この頃から、渡辺はゴルフを始めた。西川純子が先に始めていた。西川に言わせると、「最初は熱心に練習もせず、うまくなるとはとても思えなかった」そうだ。以前から、「止まっている球を打って、どこがおもしろいのか」といっていた渡辺だが、ひとたび、のめりこむと瞬く間に腕を上げていった。
 毎日新聞に連載された「ひとひらの雪」は大ヒットし、「ひとひら族」なる言葉が流行語となった。「朝早くからみだらな風を吹きまくるお前は死ね」と読者から剃刀の刃が渡辺の許に送られてきたこともあった。ヒロインの霞は、律儀に様式美を順守する「楷書」のような女性だ。凛とした清楚な外面とは裏腹に男の前で乱れるエロティシズムに読者は痺れたのだ。翌年の83年2月、「ひとひらの雪」は文藝春秋から出版され、「新情痴文学」の領域をひろげた作品として高く評価された。
 翌年、「やぶの会」の初旅行ということで、埼玉県の鎌北湖へ1泊旅行が行われた。大浴場で屈強な目つきの鋭い男たちと一緒になった。後からわかったが、埼玉県警刑事部捜査一課の慰安旅行だった。出版社の編集者だけでなく、映画や演劇関係の人も参加した。その数は40名くらいだったか。宴もたけなわになり、毎日新聞の女性記者Kが宴会場の舞台に上がり、浴衣姿で踊った。浴衣の下にはなにも着けていなかった。
 新潮社文庫編集部の中村淳良は、帰りの車中で、「歳をとったら、不能小説を書くつもりだ。谷崎の『瘋癲老人日記』のような、不能者の性的感覚は文学の大きなテーマだ」と語ったのを覚えている。この「不能小説」の話は、以後渡辺と各編集者の頭の隅にとどめ置かれることになる。
 その頃、私は渡辺淳一をホストにして、女優との対談企画を考えていた。多くの作品がテレビや映画、舞台の原作として人気だった。女優との友好関係もある。タイトルは「女優問診」と名づけた。的を射たタイトルだったと自賛している。渡辺も気に入ってくれた。口の悪い「やぶの会」の仲間からは、「女優触診」ではないの、と冷やかされた。
 1984年の1月6日号から3月30日号まで、12人の女優に登場してもらった。実務のまとめは編集部の平泉悦郎が担当した。函館出身の平泉は、同じ北海道ということで渡辺と話がかみ合ったようだ。12人の名前を挙げておく。
 岸惠子、名取裕子、三田佳子、池上希実子、大原麗子、加賀まりこ、小栁ルミ子、山本陽子、大竹しのぶ、小川真由美、松坂慶子、岩下志麻
 初対面の人もいるが、三田佳子、池上希実子、山本陽子、岩下志麻などはかねてから親交があり、山本陽子とはよく雀卓を囲んでいた。
 作家のなかには、人と会って話すのが苦手だったり、人見知りするタイプもあるが、対談のホストも作家のレパートリーの一つ、と考えられていた。編集部から考えると、ネームバリューのある作家の名前と華やかな女優の名前が並ぶのは、誌面に奥行きを与え、彩りが豊かになる。本音は小説を執筆してもらいたいのだが、作家の予定もあり、大事(おおごと)になる。
 雑誌の対談といえば、その昔「週刊朝日」に連載された徳川無声の「問答有用」が有名だ。相手から話を聞きだすためには、さまざまなテクニックというか手練手管が要求される。聞き手の度量も試されるわけだ。
 渡辺は当時「対談の名手」といわれていた吉行淳之介を意識していた。吉行は1965年から約4年間、「週刊アサヒ芸能」で、「人間再発見」という対談シリーズを連載し、70年から「週刊読売」で、「面白半分対談」、74年から「別冊小説新潮」で、「恐怖対談」を連載した。「週刊読売」の対談のまとめは、後に直木賞を受賞する長部日出雄が担当したのは、よく知られている。
 1975年には、「もうしばらく対談はしない」と封印宣言をするのだが、その面白さは単行本としてまとめられている。吉行の書誌を見ると、対談集だけで、単行本、文庫を交えて20冊以上もある。こんな作家は他には見当たらない。稀有な人だ。
 「女優触診」ではないのか、と野次が入ったのは、吉行淳之介が1961年に作った、「モモ膝3年、シリ8年」なる「アフォリズム」があったからだ。もちろん俗諺(ぞくげん)の「桃栗3年 柿8年」をもじっている。
<酒場の女の子の腿(もも)や膝を嫌味でなく撫でられるようになるまでには、酒場がよいを三年する必要がある。お尻となると、八年掛かる、という意味である。>(『定本・酒場の雑談』集英社文庫)
 銀座のバーでホステスの身体に触れるのにも、ある程度の時間と経験が必要条件となる。余計なことだが、俗諺は「柿8年」の後、「枇杷は9年で登りかねる、梅は酸い酸い18年」とか「柚子のばかめは18年」と続く場合がある。18年かけて酒場に通い詰めた挙句の「収穫」の内容については、知る由もない。
 野坂昭如が、小説「文檀」を発表した時、「吉行さんが行く店が文壇バー」と喝破した。いまや「文壇バー」は死語となりつつあるが、この野坂の定義は強烈だ。それだけ、吉行が当時の作家の間で、一目置かれていたという証左だろう。「吉行さんがいうことなら間違いない」という風潮があった。
 多くの文学賞の選考委員を務めていたこともあって、1983年には江藤淳から「文檀人事部長」と揶揄されたが、吉行は「人事担当重役でなきゃ、イヤだよ」と、まったく相手にせず、柳に風と受け流した。
 1978年に吉行が、「夕暮まで」を発表し、「夕暮れ族」なる言葉が生まれた。この「夕暮まで」を週刊朝日で取り上げようとして、渡辺淳一にコメントを求めたことがあった。もちろんすでに読み終わっていた渡辺だが、「今回は勘弁してよ」と断られた。遠慮があったのだろう。渡辺にしては、珍しいことだったので、記憶に残っている。
 「やぶの会」の鎌北湖行は好評で、夏には北海道へ行こうと言う話が持ち上がった。石狩川河口近くの石狩郡当別町にトーモク株式会社がスエーデンヒルズという別荘地を開発し、渡辺は、その1軒を買い求めた。トーモクとしては、「広告塔」としての価値も考えたのかもしれない。新千歳空港から約65キロ、車で約75分。札幌駅からJR学園都市線で最寄の石狩太美駅までは約30分、札幌の市内中心部からは車で40分ほどのところにあった。
 約90万坪の計画地の中央に27ホールのスエーデンヒルズゴルフ倶楽部がある。別荘地に隣接しているといってもいい。夏に当別のスエーデンヒルズに出掛けるのが「やぶの会」の恒例行事となった。ゴルフ組と観光組にわかれ、1泊2日の日程だった。折角北海道まで行くのだから、ゴルフをやらない手はない。私は渡辺から古いマクレガーのクラブを譲り受け、ゴルフを始めることにした。36でテニスを始め、10年くらいが経っていたから、45か46の頃だ。

 渡辺の「やぶの会」についての考え方は「来るものは阻まず」で、原則「誰でもウエルカム」だった。テレビ、映画関係者、航空業界、観光業界等、編集者に限らずそのメンバーの業種は多彩に広がった。しかし、どうしても、出版関係者というか活字媒体関係者を重視していたように思える。
 出版社によってそれぞれ社内事情が異なる。文藝春秋のように社内異動が激しいところは、前任者、後任者が入り乱れ数が増えていく。前任者は、「縁が切れた」わけだから、本来参加する必要はないのだが、万難を排して出席する人が絶えないのは、やはり人徳だろう。
 集英社は女性向けの雑誌が多く、渡辺の意向で各誌の連載企画に務めて協力していたから、どうしても参加者が増える。一方中央公論や新潮社などは、異動が少なく、参加者は固定する傾向にあった。
 先述した新潮社の中村淳良は、「やぶの会」から得た「ご利益」について、次のような言葉を残している。
<編集者人生のほとんどをカバーするほどの長い期間、会社の同僚のような、あるいはそれ以上の濃い関係を他社の編集者と続けられたのも渡辺さんのお人柄による>(「波」2014年6月号)
 新聞社やテレビ報道記者は、各省庁などで「記者クラブ」という組織がある。「やぶの会」の性格は、報道や広報といった意義とは基本的に異なるが、一人の作家を中心とした「記者クラブ」と言えなくもない。編集者は「記者クラブ」とは無縁だし、他社の編集者と深く交わることが少ない。そこを中村は指摘しているのだ。
 作家を囲む編集者の会は、別に珍しくはない。映画界には「小津組」とか「木下組」という呼び方があるが、映画界から転じて直木賞を受賞した作家は、「◯◯組」と称していた。またある作家は新聞社系の週刊誌の取材には、「出版社の僕の担当者と一緒に来てほしい」と条件をつけた。「人見知り」ともいえるが、何か問題があった時のいわば「身元引受人」と考えたのだろう。政治家や役人が顔見知りの「番記者」とは「なれあい」があるので安心するが、週刊誌や雑誌の記者には、警戒感を抱くのと同じである。別に規模を競っても意味はないが、やぶの会ほどの大人数が集まった作家は珍しい。多くは作家を囲んでゴルフに出かける程度だ。
 「やぶの会」の一派に将棋愛好家だけが集う「トン死の会」があった。「トン死」とは将棋用語で、「詰まないはずの手を間違え、一瞬にして詰まれてしまう場合や王手から逃げる際に誤った手を打って負けた場合」を、「頓死(とんし)」と表現する。写真家の弦巻勝が世話人で、月に1回程度渡辺の自宅に集まって将棋を指した。夫人が手料理とビールを用意した。最初は鷺宮の頃だから「やぶの会」より古いともいえる。弦巻は高田馬場の仕事に呼び出され、よく将棋を指した。「締切りが来ると無性に駒を持ちたくなるんだ」と言い訳を用意していた。そのうち4人で麻雀に移動することもあり、有馬千代子(頼義夫人)、女優の中原ひとみ、阿佐田哲也、深作欣二、相米慎二などが加わることもあった。
 年に一度は泊まりがけで出掛けたそうだ。勝浦修九段や田丸昇九段に女流の谷川治恵など、プロの棋士たちも顔を出した。ところが、「やぶの会」と「トン死の会」の会員だった出版社の編集者がゴルフ中にティーグランドで倒れ、文字通り頓死する事故があってから会の名前を変えたと聞いている。
 大出版社や零細出版社、プロダクション等、さまざまな編集者やプロデューサーが「やぶの会」には出入りしたが、渡辺は平等に扱った。各社は、渡辺の原稿が欲しいのである。仕事の選択はあくまでも渡辺が決める事柄だった。
 なかには、連載の順序や出版時期の調整、文庫化の時期などを「談合」のような形で決める作家もいた。大げさにいえば、一種の「カルテル」かもしれない。作家の方でも「営業内容」をオープンにすることで、公平性をアピールできる利点もある。結論は作家の専決事項に属するのはいうまでもない。渡辺の場合、最終的には科学者らしい合理的な判断がなされるのが常だった。情に流れそうに見えても、決して流されることはなかった。そう見せるだけだったのかもしれない。

 編集者が数十人も集まれば、当然「嫌われ者」というか、「鼻つまみ者」が存在する。ある直木賞作家の話だ。ゴルフはしないが、ラグビーをやったり沖縄へ旅行したりする編集者の会があった。これは「クラブ」でも「組」でもなく阿波踊りの「連」が似合った。やはり、「嫌われ者」がいて、どうにも治まらない編集者が袋叩きにしたいと、くだんの作家に申し入れた。作家は、「君たちの気持ちはよくわかるけど、僕の現在の収入の大部分は彼の週刊誌に寄稿している原稿料に頼っているので、今回は収めてくれ」となだめたそうだ。
 「やぶの会」では、それほどの暴力事件に及ぶことはなかったが、なぜか皆から嫌われているご仁が存在した。その人間関係については渡辺も承知していた。圭角が強いのに間違いはないのだが、別にことさら攻撃的ではなく悪い人ではないが、善人とは言い難い。ゴルフをやっても雀卓を囲んでも嫌われる。どこか陰湿な性格で、「狷介」が斜に構え、拗ねているとでもいえば良いのか。
 ご仁が在籍している出版社から転職してきた同僚に、その人の名前を出したら、「重さんの付き合うような人ではない」とだけ苦々しげに言った。私からご仁の名前が出てきたのが意外だったのだろう。思い出したくもない、と言った気配だった。
 やぶの会の旅行だったか、当のご本人が囲んでいる雀卓を横目に見ながら、渡辺は私たちと酒を飲みながら聞こえよがしに、「嫌われても 嫌われても ◯◯◯◯」だな、と種田山頭火の有名な俳句「分け入つても 分け入つても 青い山」をもじって、にやりとした。おそらくご仁の耳にも入ったと思われるが、別に歯牙にもかけなかった。無神経ともいえる勁(つよ)い人なのだろう。もしかしたら後年発表した『鈍感力』は、このご仁から発想を得たのかもしれない。ここでも渡辺は公平だった。おそらく医者が患者を差別しないのと同じように、平等に「診察」していた。まさにやぶの会の会員はすべて患者のようなものだった。
 『12の素顔――渡辺淳一の女優問診』は1984年5月に朝日新聞社から刊行された。そのころ私は、「化粧」に次いで、「週刊朝日」では、第二作となる小説を依頼した。(敬称略・この項続く)(17・10・4)次回更新は10月18日の予定です