第190回 雲助、一朝のダブル親子会、中国人旅行者が行く、最近の築地市場、和田誠の才能、淳ちゃん先生のこと(承前・その九)

×月×日 日本橋のコレド室町にある三井ホールで五街道雲助・桃月庵白酒、春風亭一朝・一之輔の「二師弟に流れる江戸の風」。つまりダブル親子会。チラシの惹句には、「先代馬生・柳朝につらなる師弟のぬくもりで、旦那に若い衆お侍、粋な姐さん色悪に隠居与太郎花魁(おいらん)職人、とき経て息づく落語国、まごうかたなき江戸っ子師匠、託す弟子にも恵まれて」と、ある。五七調で凝ったつもりだろうが、肩に力が入り過ぎている。
 はなに4人が登場してトークショーを少し。とてもショーとはいえない。無理矢理日本橋と結び付けたいのだろうが、ないほうがスマート。「落語国」の粋がわかっていない。
 一之輔の「加賀の千代」から始まって、雲助の「幾代餅」で中入り。白酒の「長屋の算術」に一朝が「抜け雀」でトリ。

×月×日 中国の国慶節の大型連休とかで、東京は中国人旅行者が溢れている。銀座で見た光景を記す。7丁目の本通りに面した老舗のビアホール。夕刻に1人で入ったら隣も1人。英語で注文していたが、たどたどしかったからか、中国人と見ぬかれて中国語に堪能なボーイさんが対応。流暢(当然だ)な中国語でぺらぺらしゃべっていたと思ったら、王子のスモークサーモンに水タコの洋風刺身が運ばれてきた。すると客人は醤油にワサビを要求。小皿に醤油と練りワサビをたっぷり添えて持ってきた。嫌な顔も見せずに、きちんと対応する店の姿勢は流石だ。鮭と蛸の刺身をイメージしたのだろう。ジョッキ1杯を飲んで引き上げていった。
 よく行く板前割烹の店に、20代と思われる2人連れの中国人女性が入ってきた。あるじが、「うちの店はコースだけで、料金は1人1万円です」と説明すると、そのコースを2人でシェアできないかと食い下がってきた。コース料理を一人前頼んで、2人で分けて食べるという発想は日本にはない。
 別に彼らや彼女たちを嗤(わら)うつもりはない。1人でヨーロッパを旅行した50年前の私も、似たりよったりの振る舞いをしていたのに違いない。若い頃の自分の姿をそこに見たような気がしただけのことだ。

×月×日 2年ぶりに築地市場の場内(なか)へ。
 築地の仲卸は元気がない。友人の古家商店も店を閉じた。最盛時には1400軒ほどあった店舗も500軒を割ったとか。場内の飲食店街では外国人旅行者が大手を振って歩いている。相変わらず大和寿司と寿司大の前には行列。やたらとすし屋が増えた。写真入りの英文のメニューを入り口に張り出している。
 最近はすし屋で1人前を頼んで2人でシェアする外国人旅行者がすっかり定番化したらしい。となると前述の銀座の板前割烹の例も納得がいく。「一杯のかけそば」の影響か。もし断って、後からネットで叩かれたりするのが怖いらしい。いやはや。

×月×日 墨田区の横川にあるたばこと塩の博物館で開かれている「和田誠と日本のイラストレーション」展へ。和田誠さんは、学生時代に日本宣伝美術会展で入選し、制作集団「ライトパブリシティ」に入社。たばこ「ハイライト」のパッケージデザインに採用されて一躍注目された。ポスターやブックデザイン、「週刊文春」の表紙などの他、映画監督までその活動半径は広い。

×月×日 淳ちゃん先生のこと(第二章・その9)
 1984年の1月から「週刊朝日」で始まった連載対談「女優問診」は、5月に『12の素顔 渡辺淳一の女優問診』として朝日新聞社から刊行された。帯の惹句には「爽やかなユーモアと人生の機微」とある。書籍の担当は福原清憲。渡辺は「あとがき」にこう記している。
<女優さんと対談するのは、易しそうで意外に難しい。
 いわゆる体や声で表現する人達なので、必ずしも言葉で現わすのを得意としない人もいる。その人達から、本音をひきだすことは、なかなか根気のいる作業でもあった。(略)
 この対談で、わたしは芸能記者のようなインタビューをする気は毛頭なかった。食事をしながら対等にお喋りする。そのなかから楽しいものがあれば拾っていく、というやり方に終始した。
 したがって、この対談集はおのおのの女優さん達が日頃考え、思っていることの素直な声であるとともに、わたし自身が仕事や愛や生き方について、考えていることのまとめでもある。その意味で、これは対談という形をとったエッセイ集であるともいえる。>
 7月には直木賞の選考委員に就任した。今日出海、阿川弘之、城山三郎といった人たちが選考委員を辞任し、池波正太郎、五木寛之、井上ひさし、源氏鶏太、水上勉、村上元三、山口瞳の7人に減っていた。第91回(84年上期)から黒岩重吾と共に加わった。
 選考委員になった初めての会では、蓮城三紀彦の「恋文」と難波利三の「てんのじ村」を受賞作に選んでいる。難波は大阪出身の縁で、黒岩が強く推したので、受賞したといわれている。以後29年間にわたり、亡くなる前年の2013年まで選考委員を無欠席で務めた。大変な精勤ぶりだ。選考委員の主義と主張については、また触れる機会があるだろう。

 ところで渡辺淳一がゴルフを始めたのは、年譜によると1982(昭和57)年とある。『化粧』を刊行した年だ。
 夏のやぶの会の当別旅行は大きな恒例行事となった。毎年数十名が参加したが、全員ゴルフをやるわけではないから、ゴルフ組と観光組に分かれる。宿泊先は渡辺邸だけでは泊まりきれないので、スエーデンハウスのゲストルームや当別町のビジネスホテルなどに分宿した。ゴルフ組は朝早く東京を出発し、第1ラウンドが午後にスタートした。翌日は朝から前日のスコア順にペアリングが組まれ、下位の人から順にスタートしていく。北海道のゴルフ場は短い夏を有効に使うため、昼食の時間を取らず午前と午後に分かれてスルー(18ホールを「通し」)で回る。
 渡辺淳一はゴルフを始めた翌年の58年に丹羽学校に入学している。丹羽文雄は1955年、51歳からゴルフを始め、6年後にはシングルとなった。1985年に81歳になると、よみうりカントリークラブを40、41のスコアで回り、エイジ・シュートを達成した。
 1962年(昭和37年)ごろ柴田錬三郎と源氏鶏太の二人があまりにもゴルフの腕が上達しないので、業を煮やし「丹羽さん、教えてください」と頭を下げて頼みこんだのが、丹羽学校の始まりとされる。平成7年まで続いた。「文壇ゴルフ」という言葉があるが、戦前から、作家や評論家をメンバーとして「青蕃会」、「PGA」などの会が存在していた。「青蕃」というのは、昔OB(アウトオブバーンズ)を「オウバン」と呼んでいたことからつけられたという。「PGA」のPは「ペンマン」の頭文字だ。
 その後、ゴルフブームと共に各出版社や新聞社が文壇関係者を集めて、ゴルフのコンペを開くようになった。高度成長経済と共に、文士だけでなく猫も杓子もゴルフクラブを振り回す大ブームとなった。雨上がりには駅で傘をクラブに見立て、フォームを研究する光景がそちこちで見られたものだ。
 講談社の「群像」編集長だった大久保房男は、「青蕃会」、「PGA」に「丹羽学校」の事務局というか幹事を務めていた。大久保は純文学の世界で、「鬼の大久保」といわれるほどの名物編集者だった。特に「第三の新人」たちは畏敬の念を抱いていた。遠藤周作などは編集室に入るとブリキ人形のように身体を硬直させて大久保の机まで歩み寄り、鞠躬如(きっきゅうじょ)として微動だにせず直立していたという。鞠は身をかがめること。躬は身体だ。辞書には「身をまるめて恐れ慎むこと」とある。
 純文学至上主義といってもいいくらいで、中間小説誌や読み物雑誌を、「挿し絵がある大衆雑誌」と蔑視していた一面もある。大久保は丹羽から、技術的なことは俺が教えるから、君はエチケットやルールのことを担当しろと「新入会員の教育係り」を命じられる。
 大久保はゴルフに親しんでいる川口松太郎や、ゴルフ研究家として知られる摂津茂和、水谷準などから教わったと言うだけあって、エチケットには人一倍うるさいところがあった。ティーイングラウンド(わざわざティーグランドではないと断るところにも、かなりの頑固と偏屈がみて取れる)に上り降りする時は、のり面(傾斜面)に注意し、ホールに向かって素振りをしてはいけない、などとビギナーに説明した。
 これにかみついたのが、渡辺淳一だ。何につけあれこれ口を出す小うるさいオヤジだと思っていたら、同じように感じている人たちが少なからずいた。あるコンペのスタート前、忙しそうにしている大久保に向かって「あなたはいったい誰ですか」と、直截に問いただした。本人から聞いた話だ。ただ渡辺ひとりの思い付きではないはずで、誰かに唆(そそのか)されたのか、仲の良い2、3人に計って「勝てる」という確信を得てから、一発かましたのだろう。「それからは静かになったよ」と満足げに言っていた。
 大久保はこの「事件」に関係があると思われる経緯について、次のような文章を残している。昭和58年軽井沢で行われた講談社主催のゴルフコンペの前日、大久保は講談社の寮で「ビギナーの作家たち」からエチケットとマナーについて質問され、持論を展開した。その年の丹羽学校の忘年宴会で口論になった。
<私が講談社の寮で説明したことは、楽しくゴルフをしようと考えていたビギナーの作家にとっては、ゴルフの先輩面した脅しのように聞こえたらしい。(略)私はその作家たちとは今まで全然話したこともなかったから、第三の新人の作家たちから真似される私の熊野訛(なまり)の強い喋り方も気にくわなかったのかもしれない。>(『文士のゴルフ―丹羽学校の三十三年の歴史に沿って』(展望社))
 大久保は、ピンに向かって素振りをするな、と教わったので、そう喋ると、「プロでもみなやっているではないか」と反論が出た。この場に渡辺淳一がいたかどうかは、定かではない。多分いたのではないかと推測される。ただ初対面でプレーしたわけでもないのに「ビギナーの作家たち」と断じ、「第三の新人」を持ちだすのは、「自分は純文学の編集者であって、大衆作家の編集者ではない」という意識が垣間見られる。「自覚はないのだが、私の態度は傲慢であるらしい」と書いているところから推してみても、相当厄介な人であることには間違いない。
 私は一度講談社を訪ね、大久保に文学賞の選考委員の文壇的価値と評価について取材したことがある。芥川賞と直木賞の選考委員の顔ぶれが大幅に入れ替わったときだった。つまらなそうに私の話を聞いて、「君はそんなところに興味があるのかい」と厄介払いされたことがある。低俗なゴシップ記事の取材と思われたらしい。
 渡辺のゴルフの腕前については、丹羽学校の先輩となる三好徹が、「入学した時から、よく飛ばしていた。丹羽学校の生徒で80を切ったのは渡辺が最初で最後だった。その飛ばしの能力からみても、七十歳代の半ばを過ぎるころにはエイジ・シュートを達成するかもしれないと思った」と、『文壇ゴルフ覚え書』(集英社)で記している。
 どのくらいの「飛ばし屋」だったかというと、次のように証言している。
<わたしが3番ウッドで外した200ヤードのパー3をワンオンしたので、何で打ったかを訊くと、4番アイアンだといった。わたしより二歳若いが、それだけの飛距離を発揮した生徒はいなかった。身長は168センチのわたしよりも少し高いが、スポーツマンの体躯ではないように見えた。
 だが、聞いてみると、北海道出身の彼は、スキーとスケートをずっとやっていたというのだ。わたしには経験がないから断定しかねるが、両競技とも彼の足腰を鍛えたに違いない。>(前掲書)
 三好はゴルフの聖地、スコットランドのセントアンドリュースまで出かけ、ゴルフの歴史にも造詣が深いだけに、友人たちのゴルフを観察する眼力は鋭い。当の渡辺淳一は、自分のゴルフについて、ゴルフを始めて5年後に発表した「桜の樹の下で」の中で、主人公の出版社社長、遊佐恭平に、こう語らせている。遊佐と渡辺は同一人物と考えても差し支えあるまい。
<いまのところハンディは十二で、シングルにいま一歩というところだが、最近ドライバーが飛ぶようになってきた。
 五十近くになって飛距離が延びるとは不思議だが、口の悪い友達は、年をとって体が廻らなくなり、その分だけ下半身が安定したからだという。理屈はなんであれ、飛ぶことは悪くはない。>(『桜の樹の下で』朝日新聞社)
 執筆時には54になっていた。そして次のように分析する。
<芸事はすべてある日突然、殻を破ったように上手くなるものらしい。ゴルフなどスポーツも同様で、あるときから急にスコアがまとまりだしてくる。日々練習しているのに、それにともなって上達せず、一定の練習が積み重なったとき、突然、階段をかけ上るように腕があがる。
 奇妙なたとえだが、性の愉悦もそれに近いところがあるのかもしれない。>(前掲書)
 ゴルフと性愛を結びつけるところが、いかにも渡辺淳一らしい。
 数多い文壇ゴルファーの中で衆目の一致するところ、丹波文雄に次ぐエイジシューターとして期待された渡辺だったが、現実はそう甘くはなかった。三好徹は『文士のゴルフ』で、こう続けている。
<すでに七十四歳、この前集英社の文壇ゴルフでスタート前、近ごろハーフ50を切れないことをしきりに嘆き、もうやめようか、などといっていた。>
 渡辺淳一のゴルフといえば、こんなことがあった。朝の7時ごろ、私がまだ布団の中にもぐっているのに、「渡辺ですが、これからゴルフへ行きませんか?」と電話が掛かってきた。一人欠けたので、近くの私をピックアップするつもりだったのだろう。折悪く大事な会議が入っていたので、折角のお誘いには応じられなかったが、一瞬その気になってゴルフバッグに手を掛けようとした。残念ながら会議をすっぽかして、ゴルフ場へ出かけるほどの「大物」ではなかった。(17・10・18)
次回の更新は11月1日を予定しています。