第192回 新世界菜館の上海蟹、「たかたのばじょう」、淳ちゃん先生のこと(承前・その11)

×月×日 神田神保町の新世界菜館で毎年恒例の上海蟹の会。初荷は9月13日だったが、今がちょうど食べごろといえる。今年は例年になく大ぶりだった。上海蟹のミソと鱶鰭(ふかひれ)煮込みスープの上に下(おろ)した蕪(カブ)が載っている。これは、日本料理の「蕪(かぶら)蒸し」の技法だ。クリュッグ、マム、ランソンとシャンパンを3本開ける。まさに至福の時が夢のように、はかなく消えていった。上海蟹は来年の2月末まで楽しめるとのことだ。

×月×日 NHKテレビのローカルニュースで、流鏑馬(やぶさめ)の映像が流れ、アナウンサーが「〇〇神社の境内に作られた『ばじょう』で……」と言ったので、一瞬何のことかわからなかった。「高田馬場」を「たかたのばじょう」とは言わない。もっとも競馬場を「けいばば」とは言わないけれども。 

×月×日 淳ちゃん先生のこと(第二章・その11)
 渡辺淳一が1984年の第91回直木賞から黒岩重吾とともに選考委員に就任したことは、すでに述べた。当時50歳。築地の料亭「新喜楽」の大座敷に先輩作家が並んでいる前では、かしこまるしか所作は浮かんでこなかった。自分より年下は井上ひさしだけで、渡辺のほうが4回先に受賞していた。
 この回には林真理子が「星影のステラ」で初めて候補に挙げられた。選考委員の山口瞳は、「顔を洗って出直していらっしゃい」と選評に書いた。他の委員からも、「どうしてこんなくだらないものを書くのか」と酷評を受けた。しかし渡辺は「単なる少女趣味とはまったく違う。ステラは実在してもしなくてもいい。いわば若い女性が抱く夢で、それなりのリアリティがある」とある程度の評価を与えている。
 林は次の第92回も「葡萄が目にしみる」、第93回で「胡桃の家」と連続して候補に名を連ねたが、いずれも受賞には至らなかった。
 第92回の「葡萄が目にしみる」の選評で、渡辺は、「この人のいいところは、よかれ悪しかれ、林真理子そのものが小説ににじんでいるところで、これだけ自分を素直に露出できるのは、作家としての貴重な資質に違いない」と温かい言葉を投げかけた。
 さらに「胡桃の家」(第93回)では、「氏はこれで連続三回候補になり、その都度この人の才能をかっているのだが、今回もまた見送られてしまった」と残念がった。
 林真理子が念願の直木賞を受賞したのは候補になって4回目の第94回(1985年)で、受賞作は「最終便に間に合えば」と「京都まで」だった。渡辺は選評で、「この作者は新鮮な感性と柔軟な文章をもち、人物を見る目も行届いている。四回連続候補になり、いずれも八十点以上の作品を書けるのは、相当力のある証拠である」と褒めあげた。長いあいだ気に掛かっていた懸案が解決し、肩の荷を下ろした気分が伝わってくる。
 選考委員のなかで、一貫して林真理子を評価しなかったのは池波正太郎で、過去3回について選評では一行も触れていない。無視である。受賞作については、次のように記している。
「薄汚い男女の交情を描いてはいるが、読後、胸にこたえるものが何もなく、私は票を入れなかった。むろんのことに薄汚い男女を書くのはよい。よいが、それだけでは、文学賞をあたえる小説にはならない。プラス何かがなくてはならぬ。その何かが読者の胸を打たなくてはならぬ。」
 憤懣やるかたない思いが短い文章から読み取れる。池波は直木賞の選考で失敗したのは、林真理子と胡桃沢耕史の二人だけだ、と広言した。
 胡桃沢耕史は「黒パン俘虜記」で89回の直木賞を受賞した。賛同しなかった池波は、選評で「私はこの作を買っていない」と冷たく突き放した。
「この人には自分の作品に対する、もっとも肝心なものが欠けている。小説としての〔真実〕がないのである。ゆえにフィクション、ノン・フィクションにかかわらず〔こしらえもの〕になってしまうのだろう。」
 授賞式で胡桃沢が壇上で挨拶を述べている時、池波は最前列で拳を握りしめて仁王立ちになり、睨みつけていた。「何かおかしいことを言ったら、壇上に昇って殴りかかるつもりだった」と私に語ったものだ。そうはさせじと、文藝春秋の菊池夏樹が「松の廊下」さながら、すぐにも止めに入る態勢で背中にぴたりと張り付いていた。「オール讀物」の編集長だった藤野健一が張り込みの刑事のように傍らで眼を光らせていた。
 胡桃沢は池波の没後、名前こそ明かしてないものの、「この人は怒りっぽくて、何でもかんでも自分の思うようにならないと、いまにも死にそうなほどエキセントリックになる」と、『翔んでる人生』(廣済堂出版)に平静を装って記している。
 池波正太郎と二歳年下の胡桃沢耕史(かつては清水正二郎)は、古くから親交があり、30代のころには胡桃沢が運転する自動車で大阪の司馬遼太郎を訪ねたこともあった。
 胡桃沢が同人として参加していた同人誌「近代説話」の人たちは、司馬遼太郎、寺内大吉、黒岩重吾、伊藤桂一、永井路子などほとんど全員といってもいいほど直木賞を受賞している。胡桃沢一人だけが取り残された。いつまでも「性豪作家」の肩書ではいられない。この疎外感をエネルギーに変えた。清水正二郎の名前を捨て、直木賞取りの道に邁進する。横浜市は富岡の長昌寺に眠る直木三十五の隣の墓所を買い求め、生前に墓石を設えるほどだった。
 胡桃沢の「黒パン俘虜記」は4回目の候補作で、しかも3回連続して候補に挙げられていた。したがって、長年の実績を加味した努力賞的理由から推す選考委員も多かった。選考委員の城山三郎は、この傾向になじめなかった。あくまでも候補に挙げられた作品を評価するべきだ、と考えていた。城山は、「わたしは今回限りで選考委員を退きたいとおもう。自信と気力を失くしたというだけのことである」といって、選考委員を辞任した。
 どこでボタンが掛け違ったものか、胡桃沢は候補に名前が挙がり始めたころから、直木賞について人目をはばからない発言を繰り返した。つい愚痴やひがみにバイアスが掛かり増幅して、矛先は選考委員にも向けられた。そのなかで、「女の色気で受賞した作家がいる」という内容が、池波を激怒させた。選考委員を侮辱していると感じたのだ。
 話が逸れた。林真理子の話だった。池波正太郎が、林真理子を評価しなかったのは、ただ一点、「女性の粋」を感じなかったからだ。「女性の」といった形容句を使うと、誤解を招くから、単に「粋」だけでもいい。伝統的な東京の女性美に慣れ親しんできた池波にすれば、最新の都会に生息する最先端の無機質で奔放な若い女性(しかもその多くは地方出身者だ)の無遠慮な行動力と気質は、池波の美学になじまなかった。「薄汚い」という印象を得るだけで、理解できる埒(らち)の外にあった。おそらく勉強熱心な池波は、林の候補作以外の作品にも目を通していたと考えられる。その中にどうしても許容できない表現があったのに違いない。
 林真理子の受賞については、こんな話もある。最初の候補作品「星影のステラ」について、山口瞳は、「出直していらっしゃい」と一喝した。しかし、その後雲行きが変わったようだ。雑誌「話の特集」の編集長を長く務めた矢﨑泰久は『人生は喜劇だ』(飛鳥新社)の中で、山口瞳と林真理子の話を紹介している。山口瞳と矢﨑泰久は古くからの競馬友達だった。矢﨑は山口から、「直木賞に林真理子を考えているのですが、どう思いますか」と尋ねられた。矢﨑は、林のガツガツした感じが嫌いで、有名になりたいという意識が透けて見える印象も良くない。黙っていたら、「どこが気に入らないのですか」と畳みかけてきた。
「若いからかも知れないけど、軽率な人ですね。ちょっと不快なことがありました」
 と答えると、数日後に林真理子が突然、矢﨑の会社に現れ、詫びて涙をこぼした。驚いたが、山口の差し金であることに疑いはなかった。林が受賞したのは、それからしばらくしてのことだった。キングメーカーの役割を果たし、してやったりと満足気な表情の山口の顔を矢﨑は思い浮かべた。
 いずれにしても、林は初の候補作以来、一貫して支持してくれた渡辺に対して足を向けて寝られないのは確かで、女性作家の「渡辺応援団」の第1号といってよいだろう。
 林の受賞から3年後の第100回(1988年)直木賞では、藤堂志津子の「熟れてゆく夏」が受賞した。第99回の「マドンナのごとく」に次いで2回目の候補だった。
 藤堂は札幌生まれの札幌在住で、札幌の広告代理店に勤務していた。初めての候補作「マドンナのごとく」は、北海道新聞文学賞を1988年に受賞している。その時の審査委員が渡辺だった。川西政明が作成した渡辺の年譜には、「北海道新聞文学賞で藤堂志津子『マドンナのごとく』を発掘」とある。
 直木賞選考会では、「マドンナのごとく」にはあまり点が入らなかった。渡辺は「新しい才能の出現」とまでいって、かなり強く推した形跡が選評に現れている。
「この作品は一見、軽い風俗を描いているようで、読みすすむうちに、男女というよりは、オスとメスの孤独と虚ろさが浮きぼりにされてくる。この種の小説を平板なリアリズムだけから批評するのは酷というものであろう。」
 これだけ肩入れすれば、やっかみの声がささやかれるのも道理というものだ。「マドンナのごとく」は渡辺が代筆した作品で、さらに藤堂は「渡辺の愛人」といった口さがない噂が流布された。「だから強く推したのだ」という邪推である。藤堂は北海道新聞文学賞受賞後、「やぶの会」にもゲストとして参加していたこともあって、あらぬ疑いが掛けられたのだろう。
 編集者や作家は誰しも有望な新人を発掘したいという欲望はあるもので、渡辺も例外ではない。地縁重視といった批判もなしとしないが、自身が無名だったころに同じ北海道出身の先輩作家から受けた厚意を思い出せば、ごく当然のことで、後ろ指を指される筋合いではないと信じていた。受賞した「熟れてゆく夏」について、渡辺の選評を読む。
「一見、浮わついた風俗を描いているようで、その底に醒めた虚無や孤独が潜んでいるところが、この作品を一段、奥の深いものにしている。いくつかの欠点もあるが、それを越えてこれだけのロマネスクを構成した力は評価すべきであろう。」
 と絶賛している。その意味では、渡辺が藤堂の応援団長だったともいえるが、やはり藤堂は林真理子に次いで、女性作家の渡辺応援団第2号といってもいい。

 かつて渡辺と二人で選考委員のモチベーションに話が及んだとき、「候補の作品を読むだろう。いつも、この新人に俺は勝てるのか負けるのか、を考えているのさ」と言ったのをはっきり覚えている。いつか自分のライバルになる存在かどうかを極めていたのだろう。プロ野球のレギュラー選手がドラフトで入団してきた新人に、いつレギュラーの座を奪われるかどうか、不安になるのと似たようなものかもしれない。
 隆慶一郎が、下馬評ではかなり有力視されていた「吉原御免状」で、1986年の第95回直木賞を逸した。当時、「選考委員の池波正太郎と藤沢周平が、自分達の座を奪われるのを恐れ、受賞させなかった」という噂が、まことしやかに駆け巡った。池波も藤沢も度量の小さい人ではない。
 胡桃沢耕史は、池波が自分を評価しかった理由として、「今まで兵卒と思っていた人間が、急に自分たちの仲間になるのがたまらなく嫌だったと思う」(前掲書)と書いているが、これも的を射ていない。自己の都合や好悪の感情だけにとらわれていたのなら、選考委員の仕事はやっていけないのではあるまいか。ライバルとしての意識を持つのと、若い才能に嫉妬してその芽を摘もうとするのは意味が全く違う。
 ただ、受賞者に対して、「自分が選んであげたよ」という「良い顔」を見せたがる人はいるようだ。選考会議は「非公開」なので、各委員の発言の詳細はわからない。だから会議では欠陥部分を指摘して反対の立場だったのに、受け入れられず受賞してしまうと、選評では一転して「賛辞」を述べる人がいる。文壇なんて狭い世界だ。後々顔を合わせる機会が増えていく。そこで、「良い顔」を見せておいた方が、「損はない」という魂胆なのだろう。
 この話は松本清張から聞いた。「会議で言っていることと、選評が百八十度違う人がいるんだ。どう思うかね」と睨むような目を向けられた。「どう思うかね」と尋ねられても困る。「護送船団方式」が好きな日本人の生活の知恵みたいなものかもしれない。しかし、ことは文学であり、小説である。作家の矜持として、好ましくないのは明らかだ。受賞者からしても、自分の作品を採らなかったからと言ってその選考委員をいつまでも怨みに思い続けるのだろうか。小説家という「人種」は、異能の才に恵まれた人が多いので、常人には理解しがたいところが多々あるから、断言はできないのであるが。
 この松本清張から聞いた話を渡辺に喋ったことがある。渡辺も深く同意して、直木賞の選評だったと思うが、同じ趣旨を寄稿したはずだ。
 渡辺から聞いた話では、芥川賞の選考会が終わると新喜楽から記者会見場へわざわざ移動して、受賞者に「おめでとう」と声を掛ける選考委員がいるという。「私が選んであげたんだよ」と受賞者に恩をうっておく魂胆がまるみえだ。受賞者からすれば、雲の上にいるような作家から声を掛けられたわけだから、充分すぎる恩義を感じるという寸法になる。
 少しばかり異なるケースだが、こんなこともある。長部日出雄が「津軽じょんがら節」と「津軽世去れ節」で藤沢周平と第69回直木賞を受賞した昭和48年7月のことだ。吉行淳之介の対談の構成を長部が長いあいだ引き受けていたことは前に述べた。長部受賞の知らせに、吉行が喜んだのはいうまでもない。芥川賞の選考委員だった吉行は、築地から記者会見が行われる新橋のホテルに回って、ひと言お祝いの言葉を言って別れようと思った。「記者会見の席に選考委員は出ないのが通例だが、直木賞の受賞者に会いに行くのなら、差し障りもないだろうと判断した」と『定本・酒場の雑談』(集英社文庫)にある。
 わざわざこういう「断わり」を書くところを見ると、渡辺のいう「噂」が真実味を帯びてくる。選考委員は選考委員なりに気を遣わなくてはならないのである。渡辺はこんな話もしていた。渡辺が選考委員になる前のことだ。
 受賞が決まった夜に、選考委員と受賞者が銀座のクラブで祝杯を上げているグラビアが「週刊文春」に掲載されたことがある。旧知の関係だったのだろう。
「受賞を逸した人は、どんな気持ちで見るのかな」
 渡辺は、ふとさびしげにもらした。芥川賞も含めて落選4回の体験があるだけに、説得力があった。
 受賞の前段階、つまり賞を受けるか、受けないか、で一悶着あるケースもある。太宰治は「芥川賞を下さい」と選考委員の佐藤春夫に懇願の手紙を送ったが、みんながみんな、「喉から手が出るほど賞が欲しい」とは限らないのだ。山本周五郎が直木賞を辞退したのはよく知られている。受賞を「堕落」と考える周囲の声もあるようだ。矢﨑泰久は、昭和53年色川武大が第79回直木賞を「離婚」で受賞したときの模様を記している。
 受賞パーティーの控え室で井上光晴と夏堀正元が、「バカヤロー、堕落しやがって! 何で直木賞なんてもらったんだ」といってなぐりつけた。
<色川武大を彼らは真剣に愛していたのだろう。涙を浮かべながら殴りつけ、殴られた当人は「すまん」と、床に両手をついて詫びた>(前掲書)

 渡辺淳一が「失楽園」を発表したころ、将来は作家になって、「わたし、いつかは本物の渡辺淳一に会う」と友人に電話を掛けていた文学好きの主婦が釧路にいた。原田康子の「挽歌」に憧れ、原田と同じ文芸同人誌「北海文学」に参加していた1965年生まれの桜木紫乃だ。桜木は2013年の第149回直木賞を「ホテルローヤル」で受賞する。
 受賞が決まった夜、桜木は渡辺と初めて会った。ゴールデンボンパーの鬼龍院翔の熱烈なファンと自任する桜木は、彼が愛用するタミヤのロゴ入りTシャツにジーンズ姿で受賞の記者会見に臨んだ。取材が長引き、桜木はかなり遅れて、渡辺が待つ銀座の文壇バー「数寄屋橋」に現れた。「あと10分遅れたら、受賞を取り消すところだった」とジョークをかます渡辺に桜木は思わずハグしていた。
 渡辺の選評を記しておく。
「状況設定が巧みなうえに、そこでくり広げられる男女の姿が、それなりに存在感があり、読ませる。文章が安定していて、大きく乱れず、安心して読むことができた」
 次回の150回では朝井まかてと姫野カオルコが受賞したが、渡辺は欠席し選評も記さなかった。桜木の選評が最後の直木賞選評となる。桜木は「数寄屋橋」での出会いが最初にして最後の機会となった。
 渡辺淳一は1984年の第91回から2013年の第150回まで、直木賞の選考委員を務めたが、149回までは選考会を一度も休んだことはない。ただ一回欠席した150回は亡くなる4か月前だった。
「桜の樹の下で」は1989年4月に朝日新聞社から出版された。装画は加山又造で装丁は三村淳が担当した。以後三村は多くの渡辺作品の装丁を手がけるようになる。(敬称略・この項続く)(17・11・15)
次回の更新は11月29日を予定しています。