第193回 神楽坂の「ル・クロ・マントル」、寂しきボージョレ・ヌーボー、桂文珍の落語「へっつい幽霊」、白鵬の品性、淳ちゃん先生のこと(承前・その12)

×月×日 神楽坂のビストロ、「ル・クロ・マントル」でミステリー評論家の松坂健さん、文芸評論家の温水ゆかりさん、文藝春秋ノンフィクション編集局のFさんらと会食。チマチマと形状を崩し、食べている「正体」がわかりにくい今風の料理とは違い、お腹にドカーンとくるクラシックな皿だった。料金もリーズナブル。

×月×日 11月の第3木曜日はボージョレ・ヌーボーの解禁日だったが、今年はどうも盛り上がらない。スーパーマーケットやコンビニも静かなものだ。2004年が最盛期で、昨年の輸入量は往時の半分程度。今年はさらに減少するらしい。一年に一度の収穫祭の意味を込めた一種のお祭りだが、いくら日本人がお祭り好きといっても、さすがに「飽き」がきたのかもしれない。かつては常磐線の特急「スーパーひたち」の車内で販売したこともあったが。

×月×日 朝日名人会。三遊亭わん丈「動物園」、古今亭文菊「転宅」、林家正蔵「山崎屋」、桃月庵白酒「喧嘩長屋」、桂文珍「へっつい幽霊」。白酒と文珍は早速に横綱、日馬富士の暴力問題で笑いを取っていた。
 「へっつい」とは、「かまど」のこと、と説明しても、「かまど」がわからない。京都では「おくど(竈)さん」というと、ますますわからなくなる。文珍が弟子に「『かまど』って知ってるか」と尋ねると、弟子はスマホに向かって、「カ、マ、ド」と声をあげる。音声検索だ。返ってきた答えが、「店の名前」。これは「老人」に通じない。「かまどや」という弁当チェーンがあるのだ。

×月×日 日本相撲協会が揺れている。優勝はしたけれど、白鵬の言動は目に余るものがある。渦中の日馬富士と貴の岩を土俵に上げたい、などとよく言えたものだ。自分だって、当事者ではないか。横綱とはいえ、当事者である一介の力士が、「膿(うみ)を出し切って」などという神経が理解できない。それを「よく言った」と追従する宮城野親方(元竹葉山)も可笑しい。挙げ句の果てに「万歳三唱」を強要するとは、どこまでファンをなめているのか。普通の日本人の感性には、理解できない。翌日の朝刊で、白鵬の言動を追及、非難する論調がないのは、新聞の怠慢だ。ネット情報の方が先行している。今や新聞がネットを追いかけている。
 さらに白鵬に対する11日目の対嘉風戦での「物言い」の「厳重注意処分」はどうなったのか。12日目から、千秋楽まで「出場停止」処分にすべきだった。日馬富士にも「進退伺い」を出させて、「一年間出場停止」を科すくらいの処分を即座に下すべきだ。相撲協会の、優柔不断な及び腰だけが目につく。相撲協会の辞書には、「毅然」という文字がないようだ。
 白鵬に「品位」を要求するのは、無理というものかもしれないが、立ち合いで「張り差し」を繰り返している限り、「名横綱」として敬慕されることはない。

×月×日 淳ちゃん先生のこと(第二章・その12)
 話しの順序が少し前後するのを許されたい。渡辺淳一が「週刊朝日」に「桜の樹の下で」を連載している1987年の5月、私は朝日新聞社から「気分はいつも食前酒」を出版した。70年に出版した「ミツバチの旅」(朝日新聞社)に次ぐ二冊目の著作だった。味見好三というペンベームで週刊朝日に書いたコラムを中心に中国の旅行記などをまとめた。中国が海外からの旅行者をようやく受け入れ始めた時期だった。装画は風間完、装幀は朝日新聞広告局の片岡一郎。渡辺淳一とやぶの会のメンバーが、出版記念会を開いてくれた。会場は銀座のクラブ「グレ」のママが経営する東銀座のイタリア料理の店だった。面倒な幹事役は、渡辺の秘書、小西恵美子と講談社学芸図書第二編集部の村松恒雄にお願いした。
 渡辺淳一からは、「君の文章は、どこか味があるから、このまま続けていけばいい」と有り難い激励の言葉をいただいた。何よりの自信になったことはいうまでもない。
 そんな頃、深夜に渡辺淳一と秘書の小西恵美子が我が家に立ち寄ったことがあった。渋谷の事務所と渡辺の自宅の間に、拙宅はある。電車でも一緒に帰ったことがあるが、私の方が手前の駅で降りる。対談の後か、打ち合わせの後だったか、車で送ることになったから、上がってもらった。
 「女性の生涯には必ず美しい時期があるものだ」
などと家内を交えて、話がはずみ、
 「お正月に知人が子供を連れて家に来るだろう。すると必ず、『オジチャンに抱っこしてもらいなさい』なんて言って、子どもを預けてくるんだよね。自分の子供だって抱っこしたことなんかないのに、他人の子供を抱かされても面白いわけがないよね。あれは実に困る」
などと饒舌だった。ウイスキーの水割りを4、5杯は飲んだだろうか。「小西君、ここの勘定、払っといてね」といいながら、ご機嫌で帰っていった。後から冗談に請求書を送ろうと思ったが、もちろん止めた。

 89年に私が新月刊誌「月刊Asahi」に異動になり、第一戦で活躍しているキャリアウーマンと渡辺の対談を企画した。検事・弁護士、トレーダー・ディーラー、一級建築士、医師など毎月同業種から3人の女性を囲みながらの座談会というか対談である。女性には不向きで、男性中心と思われていた職種を選んだ。89年に「いま、ワーキング・ウーマンは」と題して、朝日新聞社から出版された。
 渡辺は「あとがき」に「いずれもこれまで女性の進出が少なく、それゆえにこれから女性が、新たに働く分野として期待される。これから社会にでる女性達はもちろん、すでに社会にでている女性も含めて、一つの刺戟となるとともに、男性達にも働く女性を知るきっかけになれば幸いである」と書いた。今どきのけったいな自民党の「女性活躍推進本部」や内閣の「働き方改革」が泣いて喜ぶような内容を20年以上も前に先取りしていたことになる。
 90年の11月から、「週刊新潮」で「何処へ」の連載が始まった。今までに事あるごとに紹介してきた、直木賞受賞までの自伝的小説である。札幌医大講師の職を辞し単身上京し、墨田区の開業医でパートの医者をしながら創作に勤しんだ歳月だ。一緒に上京してきた西川純子(作中では水口裕子)を追いかけ、窓を破って部屋に入り警察沙汰になったこともあった。
 東京新聞の匿名コラム「大波小波」で、「昭和最後の無頼派」と書かれた。揶揄というよりは、「讃嘆」の感じがあった。
 92年の4月から12月にかけて朝日新聞の朝刊で、小説「麻酔」の連載が始まった。当時58歳。さし絵は小松久子。脊椎麻酔中の心停止事故という深刻な医療事故をテーマにした、久しぶりの「医学物」だった。
 編集局学芸部員のEが担当した。新聞記者は編集者でないから、作家との付き合いは慣れていない。もちろんその人の個性によるところが大きいのだが、しっくりとなじまないケースが多い。なにかにつけ、作家を立てて仕事をする編集者の姿勢と新聞記者が本能的に備えている取材対象への肉薄は相容れないものがある。作家を通じて自己主張する編集者と自らの体力と問題意識を武器に自己主張する新聞記者の違いでもある。Eは私と一度くらい顔を合わせただけで、「やぶの会」の行事に加わることもなかった。
 それはともかく、渡辺が「麻酔」で書きたかったのは、「科学が進歩し、医療の最先端でいかに精緻なテクニックが開発されようとも、それを操るのは常にわれわれ人間で、ちょっとした不注意や思い違い、些細な過失が常について回る。だからと言って許されるわけではないが、医療事故の原因を突き詰めると、その多くは『人間の過ち』にたどり着く。今後どんなに科学が進化しても、医療事故の問題がなくなることはない」ということに尽きる。
 小説の出来ばえについて、「医学物としてそれなりによく書けていて、ドラマにもなったが、あまり満足していない。ある意味まとまりすぎていて嫌味がない」(「いま語る 私の歩んだ道」北海道新聞社)と渡辺は述懐している。医療事故というシリアスなテーマなので、ドラマティックな展開があるわけではないのだが、知人の女性から、「『麻酔』って、何かきちんとしすぎてつまらない」といわれて、いたく反省する。
 その理由について、「徐々に文壇的地位を確立したのにつれ、気迫が緩んでいた」と分析する。日常の生活も落ち着き、すべてが安定志向になっていた。吉川英治文学賞の選考委員(91年)になり、日本アイスランド協会の会長に就任(同年)した。92年には経済企画庁の諮問機関である経済審議会地球的課題部会の審議委員を委嘱される。
 「つまらない」と周辺の女性からいわれたことで、「ようし、それじゃあ、とんでもないものを書いてやろう」と反発するところが、渡辺の勁(つよ)さであり、真骨頂でもある。「もう一度嫌われて、嫉妬される存在にならないと駄目だ」と自らに言い聞かせた。この発奮から後の「失楽園」や「愛の流刑地」が生まれることになる。
 私は93年4月には三冊目となる「メニューの余白」を講談社から刊行した。二冊目の『気分はいつも食前酒』に関心を持った講談社の村松恒雄が担当した。月刊「専門料理」に味見好三の名前で連載したコラム「慧眼酔眼」を土台にして、大幅に書き足したものだ。連載中は、テーマが多岐にわたっているため、味見好三なる筆者は一人でなく複数のライターが書いていると風評が立った。うれしい誤解だ。装画は風間完、題字は加藤芳郎、カットは山田紳にお願いした。加藤芳郎は、「漫画ではなく、文字だけを依頼されたのは初めてだ」と面白がってくれた。
 この年の7月に「麻酔」は朝日新聞社から単行本として刊行された。装画は福田千恵子、造本は神田昇和、編集は福原清憲が引き続き担当した。
 11月6日にやぶの会が主催して、「還暦を祝う会」が三島の別荘で開かれた。鈴木重遠や福原清憲とテニスをした記憶がある。
 還暦を祝福するかのように、11月に川西政明が「リラ冷え伝説―渡辺淳一の世界」を集英社から出版した。12月に私は「週刊朝日」の「週刊図書館」に書評を書いているので、以下に紹介したい。

 無名時代の作家にとって、良き編集者と巡り会えるか否かは、その作家の命運を左右する重大事であろう。一方、編集者の側からすれば、作家との距離をどの程度に保つかが、きわめてむずかしい。
 よく某々を育てた名編集者だとか、某々はあの編集者によって発掘されたなどといわれる。しかし、一人の有名な作家を世に出した裏側で、多くの作家志望者の才能の芽がその編集者によって摘み取られていることもあるのだ。それは人と人との出会いがもたらす運命のいたずらのようなものかもしれないが、ここにその出会いが見事に結実した例がある。
 渡辺淳一は、札幌医大の講師時代に河出書房の編集者だった著者、川西政明にめぐり会った。著者は新潮同人雑誌賞を受賞した『死化粧』(芥川賞候補)や『霙』(直木賞候補)を読んで、「この作者は書ける」という編集者の直感を得たという。
 和田寿郎氏の心臓移植手術をめぐって、大学にいづらくなり、家族を残して上京した渡辺淳一に、著者は書き下ろし『花埋み』で直木賞を取らせようとする。結果は、刊行直前に『光と影』で受賞してしまうのだが、その編集者の目から見た直木賞作家誕生までの丹念な評伝が本書の主体となっている。
 渡辺家のルーツから説き起こし、『阿寒に果つ』の時任純子から『何処へ』の水口裕子まで、自伝的な作品のモデルや関係者にできる限り会い、その実名を明かして証言を得ている。精緻な取材に裏打ちされた分析は鋭利で、三島由紀夫の新潮同人雑誌賞の選評、「『死化粧』の実感主義は、良心をまぶしたドキュメンタリーという気味があって、買わない」といった貴重な指摘も発掘、採録している。
 荒っぽい分類だが、渡辺作品は①医学から見た人間の生と死、②荻野吟子、野口英世、松井須磨子など歴史上の人物を描いた評伝、③『化粧』『化身』『ひとひらの雪』など現代における愛のかたちの三つに分けられる。それぞれはあざなわれた縄のように截然(せつぜん)とはしないのだが、著者はそれを丁寧に解きほぐし、渡辺淳一の人と作品を多角的に曝(さら)しだすことに成功した。
 活躍中の現役作家が、ここまで第三者にまっとうな評伝を書かせたのは稀有な例であろう。良き編集者たちにめぐり会えた渡辺淳一は幸福な作家といえる。ゆえにというべきだが、繊細さと図太さを併せもつ渡辺淳一は、いくら過去に交渉のあったモデルの実名を明かされようとも、ほとんど痛みを感じてはいないだろう。
 著者は、「これらの文章を私は渡辺淳一との友情のため書いた」と記すが、友情のために書けなかったこともあるはずだ。
 友情の壁を乗り越え、もっとお互いが殴りあい、傷ついたとき、作家、川西政明が誕生するのかもしれない。編集者と作家の距離がむずかしいといったゆえんである。(「週刊朝日」94年1月7,14合併号)

 この書評を詠んだ川西政明は、「別に作家になりたいわけではないけど・・・・・・」と小声でぶつぶつ言っていたが、渡辺淳一はにこやかに笑っていた。(敬称略・この項続く)(17・11・29)
次回の更新は12月13日を予定しています。