第194回 アマン東京、ベトナム料理「アンディ」、「お疲れ様」の流行、淳ちゃん先生のこと(承前・その13)

×月×日 大手町タワーの33階にあるホテル「アマン東京」で、フリーライターの土田美登世さん、光文社の三宅貴久さんとメインダイニング「ザ・レストラン by アマン」で会食。PRディレクターのH嬢も同席。イタリアのベネトで17年間修業して、半ば「イタリア人」の平木正和シェフが手掛けるのは、まさに「正調北イタリアン」料理といってよい。
 ベネチア名物のバッカラマンテカート(干し鱈のペースト)は、郷土料理からレストラン料理へと見事に昇華している。添えられた北イタリアのソウルフード、ポレンタも品格を備えた上品な味だった。

×月×日 銀座レカンのシェフソムリエだった大越基裕さんが独立して、東京風モダン・ベトナム料理の店、「Ãn Di(アンディ)」を7月に開いた。ワインジャーナリストの柳忠之さん、名越康子さんなどと会食。
 大越さんはバーテンダーとしての経験もあるので、ワイン(国産から南アフリカ、カリフォルニアなど実に広範囲)だけでなく日本酒(なんと、ぬる燗!)や宮崎産の米焼酎も交え、一皿一皿の料理にふさわしい飲みものを選ぶ「ペアリング」の妙を披露してくれる。ベトナム料理には魚醤のニョクマムが欠かせないが、北陸の魚醤「いしる」を用いるなど、東京発のモダン・ベトナム料理らしく、細かい配慮が随所にうかがえる。渋谷の神宮前という場所柄もあるのか、店内は若い女性客が圧倒的に多かった。

×月×日 朝日新聞の声欄に、「お疲れ様」をメールの「枕詞」として強要される有料老人ホームの52歳になる職員からの投書があった。見出しは「『お疲れ様』を押しつけないで」とある。投書者は、「使いたくない言葉を強制する権利は誰にもないはず」と憤っているが、もし事実なら常軌を逸している。「強制」は論外だが、私もメールの冒頭に「お疲れ様」とあると、どうしても違和感を覚える。
 しかし、「お疲れ様」は大流行で、若い人は別に違和感を覚えないようだ。さる大学の非常勤講師を務めている女性が、「授業を終えて帰るとき、学生が『お疲れ様です』と挨拶をする」と怒っていた。「あんたみたいな学生がいるから、疲れるのよ」、と言いたくなるそうだ。芸能界の時刻に関係なく「お早うございます」から始まって、「お疲れ様……」(時には「オツカレー……」と省略される)で別れる風習の影響なのか。
 大分古くなるが、同じ声欄で、「『ホントに』を止めよう」という投書が載っていた。スポーツ選手に限らず、テレビのインタビューを聞いていると、「ホントに」を本当に乱発している。米大リーグのエンジェルスに入団した大谷翔平選手も記者会見で連発していた。どこから流行り出したものなのか。「マジで?」や「ウソォー!」(もう古くなったけれども)と関係があるのかもしれない。

×月×日 淳ちゃん先生のこと(第二章・その13)
 1994(平成6)年5月に、渡辺淳一の母親ミドリが札幌で亡くなった。享年87。淳一は還暦を迎えた60歳だった。
 渡辺家のルーツについては、前回に紹介した川西政明の『リラ冷え伝説―渡辺淳一の世界』(集英社)の資料に拠って書き進めていきたい。
 東京千代田区の麹町に生まれた、ミドリの父渡辺宇太郎は北海道に渡り、小樽で警察官をしていた。美唄(びばい)で佐渡島出身の仙田イセと知り合い、空知郡歌志内村(現歌志内市)に雑貨屋を開く。歌志内が石炭の産出で好況を呈していたころで、味噌、醤油、酒から煙草、灯油などあらゆる生活用品を売る渡辺商店は歌志内随一の商店だった。雑貨屋というよりは今でいうスーパーマーケットに近かったのではないかと考えられる。
 ミドリの母、渡辺イセは三人の娘を産み、ミドリは末娘である。ミドリが5歳になった年に父の宇太郎が亡くなった。その後はイセが一人で店を守り抜いた。教育熱心だったイセは幸い財力にも恵まれ、三人の娘をいずれも高等女学校まで通わせている。当時の教育事情を考えると一般の家庭ではなかなかできないことだった。ミドリは札幌に出て、中之島にあった札幌市立女子高等学校で学んだ。もちろん下宿である。ミドリは卒業すると、上砂川尋常高等小学校の先生となる。家業の雑貨店はイセがすべてを差配していた。
 渡辺淳一の父、米沢鉄次郎の家族は秋田県の仙北郡六郷町(現美郷町)出身で、鉄次郎は空知郡の幌内炭鉱で生まれた。六男三女の三男で、勉強が好きだった鉄次郎は岩見沢尋常小学校を卒業すると、苦学しながら札幌師範へ進んだ。当時の師範学校は、学費が免除され、寄宿舎での生活が保障されていた。師範学校の卒業と同時に、渡辺ミドリが勤める上砂川の尋常高等小学校の先生となった。そこで一歳上のミドリと知り合い、結婚する。祖母イセは、「渡辺家を守る」という大命題を抱えていたため、鉄次郎は渡辺家の婿養子となった。昭和3年のことだ。ミドリは翌年小学校を退職し、長女淑子が生まれた。
 向学心に燃えた鉄次郎は三井砂川鉱業所に勤める大学出の社員から高等数学を学び、上級学校の数学教師の資格を取得する。昭和8年10月24日午前3時20分に渡辺鉄次郎とミドリの長男淳一が砂川町字上砂川の三井砂川鉱業所の職員住宅で産声を上げた。上級職員のための住宅で、教育を重視していた鉱業所が学校の先生のために、優先的に提供していたのだ。
 1940(昭和15)年4月、渡辺淳一は父親の勤める上砂川小学校に入学した。自分の学究と子供たちの教育に熱意をもっていた鉄次郎は、昭和17年に旭川師範に転勤となる。淳一は旭川師範付属国民学校初等科の3年生に編入した。昭和19年、鉄次郎が札幌市立工業学校(定時制=現北海道立札幌工業高等学校)の数学教師の職を得て、一家で札幌に移る。淳一は札幌市立幌西(こうさい)国民学校の初等科五年に編入した。昭和21年3月に幌西国民学校を卒業すると、淳一は北海道庁立札幌第一中学校に入学した。
 私はミドリに会うことはなかったが、渡辺淳一からよく話を聞いた。1985(昭和60)年の5月に、「週刊朝日」の人気企画「篠山紀信の女子大生」表紙シリーズに淳一の長女、敦子が登場した。選考の段階で特別に便宜を図ったわけではないが、面接のときに、とぼけて「渡辺淳一の小説は読みますか」と聞いたのを覚えている。
 雑誌が発売になったら、「札幌のおふくろが喜んでいたよ」とぼそっと、もらした。毎日書店まで出かけて眺めているらしい、とつけくわえた。もちろん東京の家庭でも喜んだはずだが、あえて触れず、「札幌のおふくろ」を持ちだしたところに、「脱家庭」のポーズ(姿勢)を取りながらも、「うれしさと感謝」の意を感じ取った。「親孝行ができましたね」と言わずもがなのダメを押したら、「まあね」と恥ずかしそうに顔をほころばした。
 母親のミドリが息子の淳一に向かって、「おまえの浮気は病気ではない。病気なら治るが、お前の浮気は治る見込みがないから」と、言い切った話しはすでに述べた。妻の敏子にも縷々説明したに違いない。淳一によると、そういうときの口ぶりは、楽しげだったという。北海道の風土特有の大陸的であけっぴろげな明るい人だった。生家に女性を連れていっても、何も言わずにご馳走してくれた。しばらく経って別の女性を連れて行き、その子が遠慮して食べないと、「どうしたの、前の人はもっと食べたわよ」と実にさばけた性格だった。
 この話は淳一自身が語っているのだが、おそらく結婚する前の逸話だと思われる。ミドリから学んだことは「好きなことは何でも思い切りやりなさい。でも責任は自分でとりなさい」ということだった。それは良くも悪くも「マザー・コンプレックス」といえるだろう。
 川西政明は、前掲書で、次のように断じている。
<渡辺淳一というのは、祖母イセ、母ミドリによって醸成された渡辺家の気風の純粋培養だといえる。
 淳一は渡辺家を継ぐ者として大切にのびのびと育てられた。渡辺家の資産がそれを可能にしたのでもある。>
 奇しくも、イセは三姉妹の母であり、淳一もまた三姉妹の父となった。川西が指摘する「渡辺家の気風」が、淳一にとって解き放たれることができない「桎梏」になったことはないのだろうか。渡辺は、堂々と母ミドリを自慢する。例えば、食べ物でいうとイクラの醤油漬けがある。数多い著作の中で、一冊だけ食べ物について書いた本、『これを食べなきゃ―わたしの食物史』は「母のイクラをたべさせたい」という章から始まる。
 銀座の鮨屋の職人に母親が漬けたイクラを食べさせたら、「これを仕入れるわけには行きませんか」と尋ねられた。「やぶの会」の料理番、産経新聞の影山勲は、札幌まで出かけてミドリから直接手ほどきを受けてきた。その極意は、「いくらを丁寧に洗うこと」に尽きるそうだ。
<母の味を褒(ほ)めると、往々にして、それは長年、その味に舌が馴染(なじ)んだせいだといわれてしまう。
 要するに、味覚的にローカルで、それしか受け入れられなくなった結果だ、というわけである。
 さらには、母の味に固執するのは、マザコンの裏返しだ、という人もいる。
 たしかにそういう面もあるかもしれないが、それでも「旨いものは旨い」としかいいようがない。>(『これを食べなきゃ』集英社文庫)
 札幌から母が作ったイクラを送ってもらって、イクラ丼の店を銀座に開業するのが夢とまで言っていた時期もあった。銀座の地価とイクラの原価のバランスの折り合いがつかないので、結局は「夢物語」に終わった。母の死後、「わたしの舌に、母のイクラの味は変わることなく滲(し)みついている」と強がってはいたが、やはりどこか寂しげだった。
 母のミドリも妻の敏子も淳一が家庭の外で、女性と親しくなっているのを承知していた。渡辺は「浮気」と表現することもあるが、当の男や女性の立場からすれば、ごく単純にあっさり「浮気」と片づけてもらいたくないという人もいるに違いない。また渡辺は、「不倫」という言葉も軽々しくは使わない。
 中期の短篇には、妻と妻以外の女性の間で浮遊し迷走する男性を主題にした作品が複数ある。言葉を厳密に吟味していくと、複雑になって混乱するので、分かりやすく、男(夫)、妻、恋人と単純にして説明する。いわゆる「三角関係」である。
 恋人から見ると、男に妻と子供の「家庭」を感じるとき、複雑な感情が生じる。企業に勤める恋人と文筆業の男は妻の目を盗んで京都へ旅行する。旅先で男は恋人に気づかれないように、子どもへのお土産を秘かに買うが、恋人の鋭い嗅覚でわかってしまう。またホテルのバーで、男は寄稿先の出版社の編集者とばったり会うが、恋人を相手に紹介しない。
「奥さんなら、紹介するはずだわ」と機嫌が悪くなる。妻は、男が恋人と一緒に旅行しているに違いない、とうすうす感じている。妻は、恋人のアパートに電話を掛け、訪ねていく。
 これは、いずれも1972(昭和47)年から産経新聞夕刊に連載した長篇小説『愛のごとく』に出てくる話だ。小説では3人の関係に決着が付いていない。うだうだ、のらりくらり、ずるずると煮え切らない関係が続く。曖昧、軟弱、優柔不断、逡巡、躊躇、因循、韜晦といった言葉は男だけでなく妻にも恋人にも及ぶ。妻や恋人はさらに、嫉妬、逆上、不審、狷介、怨嗟、狡知、執拗、復讐、反撃といった言葉でも分析しなくてはなるまい。
 この三つの点と線の軌跡が織りなす構図は、多くの短篇小説に描かれている。
 1980(昭和55)年、「渡辺淳一の世界」(集英社)に書き下ろしで発表された「マリッジリング」(『泪壺』講談社文庫)は、課長の男が同じ会社の部下の恋人と結ばれた時、指輪を外さなかった。恋人が指輪を気にしていることを察した男は、ある日、指輪を外してホテルに入った。指輪があったところには、別の生きもののように帯状に形どられた白茶けた痕が残っていた。恋人には男と妻の重くて長い歳月を誇示する毒々しい「魔物」に見えた。寝ている男をそのままにして、恋人は夜更けにホテルから独り去っていく。
 同じ年、「オール讀物」に発表された「午後の別れ」(『風邪の噂』新潮文庫)は、実に些細なというか不可解な男の行動が恋人の不興を買う。
 男はいつも妻に、「ゴルフで一泊する」といって恋人のマンションで過ごす。律儀といえば律儀だが、繊細さに欠けている。夕刻になって家に戻るときは、「帰ろうかな」とは言わずに「行こうかな」といって、部屋を出る。恋人はそんな関係に「飽き」がきているが、なかなか「きっかけ」がつかめない。その日も帰るときになって、「これから晩ご飯は何を食べるの?」と無神経に聞いてくる。一人では、食欲も出て来そうにない。
 不機嫌を察した男は、帰り道に新宿へ行ってご飯を食べようととりなすが、あまり気が進まない。駅前からタクシーに乗ろうとして、薬屋の「特売」という広告のビラに目をとめた男は、「これ安いな」と言って、剃刀の刃とチューブの歯磨きを買って、ゴルフの着替えが入っているバッグの中に押し込んだ。男に妻と子どもがいることは百も承知しているが、「明るくてスマート」と思い込んでいたイメージが潮に流されるように崩れていった。
 同じように、妻の許に帰るとき、駅前の化粧品店で、安いチューブの歯磨きを3本買う姿に、家族の姿を想像して、別れる決断をするのが、1986(昭和61)年に「小説新潮」に発表した「さよなら、さよなら」(『泪壺』講談社文庫)だ。毎月まとまった小遣を与えている男は、土曜日に泊まって日曜の午後に帰る。妻には仕事で外泊する、という口実を告げていた。恋人は、「家を守るために汲々としているただの男にすぎない」といささかうんざりし始めていた。倦怠から生じた逡巡に決定的な区切りをつけたのは、安い歯磨きを買う男の姿だった。しかしその理由は言えない。言ったとしても納得するはずがない。「なにを、つまらぬこと……」と一蹴されるだけだ。男は、電話口で「なぜ別れるのだ。理由を言え」と強く迫ってくる。しつこく「他に男ができたのか」と詰め寄る。もし好きな男性が現れたら、どれだけ楽なことか、と思いながら電話を切った。
 1989(平成元)年に「小説現代」に発表した「春の別れ」(『泪壺』講談社文庫)の恋人はデザイナーで、妻子のある男の「結婚しよう」という言葉を半ば信じかけていた。いそいそと男のズボンをプレスし、下着を洗濯した。「うちのやつは冷たくて……」という言葉に惑わされながらも、喜々とした気分に浸ったのも事実だった。酔って来たときに脱ぎ捨てたズボンをハンガーに掛けたら、きちんとアイロンの効いた白いハンカチが出てきた。それは妻の「挑戦状」に思えてきた。
 ある日恋人は撮影で出掛けたスタジオが男の自宅の近くだったので、つい家の前に行ってしまう。作られたばかりの新しい表札には、子どもの名前もあった。これから家を捨てようとする男が、表札を新しくするはずがない。
「もう終わりにしましょう」といっても、男は釈然としない。「そんなに簡単に別れられるものなのか。女の人がわからない」という男に、「私も男の人がわからないわ」と答える。
 洋の東西を問わず、「夫の浮気」は古くから文学の大きな主題だった。夫の視点で書かれた作品が多いが、妻の立場から書いた作品もある。さらに「妻の浮気」を扱った小説も数多くある。時代をさらに経て、「愛人の視点」から夫や妻を照射した作品が現れた、ということだろう。
「週刊朝日」で編集部の山下勝利が「帰っていいのよ、今夜も」というドキュメントともフィクションともつかない連載を登場させたのは、1987(昭和62)年のことだった。朝日新聞社から出版された書籍の副題には、「新・愛人時代」とある。(敬称略・この項続く)
(17・12・13)次回の更新は新年の1月17日を予定しています。