第196回 渋谷の「ズッカ」、大雪のキャンセル、中野の「すっぽん鍋」、「ポップ落語」の出現、淳ちゃん先生のこと(その15)

×月×日 渋谷の桜丘にあるイタリア料理の店「ズッカ」でテニス仲間の新年会。バーニャカウダ、ラビオリ、魚のスープなど多彩な皿が並んだ。スパゲッティを締めに持ってくるところが、今風なのだろう。イタリアでは、とてもお目に掛かれない献立だ。ワインもイタリアに固執しないで、フランスから「新世界」まで、若者向けに低価格の品をそろえている。
 メンバーもほとんどが70代に突入した。いつまでテニス続けられるのか。話題はいつもそこにたどりつく。

×月×日 東京の大雪。帰宅時に重なったので、乗りかえ駅は大変な混雑になり、飲食店で予約のキャンセルが続出した。ある高級天ぷら店では、10,000円のコースを8,000円にしてワンドリンクサービスするからとフェイスブックで呼びかけていた。なんだかなあ。一種の「天災」で、不要不急の外出は控えてください、とお願いされている時だし。
 さるレストランの経営者が「店によって違いはそれぞれあるだろうけど、お客さんの行き来を考えたら募集せずに、そのままの方がいいような気がします」とコメントしていた。同感だ。2割引でワンドリンクが付くから、といってあの雪の中を出かけていくのは、ご近所さんならいざ知らず、お客がみじめになるだけだ。店の都合だけ考えて、お客の心理がわかっていない。
 突然のキャンセルで席が空いた時、「助けて……」という投稿をたまさか見つける。助けてあげたいと思う時もあるが、「自然災害」の場合は、ちょっと事情が違ってくる。雨の中、雪の中、いざという時に電話一本で来てもらえるお客さんをどれだけ手の内にあるかが、店の「財産」ということになる。

×月×日 東京の寒波はすさまじい限り。漫画家の山田紳さんを囲んで、中野の「ふく田」で二年ぶりの新年会。前日の雪が残る景色の中、スッポンの鍋と雑炊で温まる。

×月×日 有楽町のよみうりホールで「よってたかって新春らくご‘18」。春風亭一之輔(千早振る)、立川談笑(片棒=改)、春風亭百栄(キッス研究会)、柳家喬太郎(文七元結)。「新春」と謳いながら、葬式がテーマの「片棒」と年越しの借金騒動の「文七元結」とは、理解できない。
 談笑の「片棒」は「改」と断わりがあり、新作に近い。噺の途中で、高座から客席まで降りてくる始末。百栄も創作落語だ。これらは、若い人にうけようという了見が見え見えで、「ポップ落語」といった方が良い。ミステリー小説の世界には「バカミス」なる「文芸用語」がある。そのうちに「バカラク(おバカな落語)」といわれるようになるかもしれない。落語そのものが「おばか」な芸能ではあるのだけれども。

×月×日 淳ちゃん先生のこと(第二章・その15)
 銀座のカウンターバー「桜子」のママ、桜子は気の強い性格で、あまり酒は飲まなかったが、少し酔うと、「編集者は淳の奥さんが苦手だから、みんな私のところに原稿を頼んでくるの……」と自慢げにいう。ここでも、「妻の役」を演じていた。桜子がいくら尻を叩いても、渡辺の執筆のペースは変わらなかった。
 笹沢左保は締め切りに追われ、3日徹夜した挙句にどうしても明日中に渡すため椅子に座らず、和室の違い棚を机代わりにして立ったまま書いたという逸話がある。椅子に座って書くとそのまま寝てしまうからだ。編集者への嫌味という意味合いもあったという。
 渡辺にはこういったエピソードはあまりない。そうでなければ、ゴルフや麻雀を楽しむことはできないだろう。別にゴルフや麻雀を楽しむために原稿を書いているとは言わないが、「余暇の善用」に長けていた。
「どうしても約束の時間までに書けないことが、たまには起きる。男の編集者なら、何とかしてくれるんだけど、女の編集者だとなかなか話が通じないんだよね」
 もちろん迷惑を受けるのは、編集者サイドで、校閲か印刷所を「被害者」にして逃げることになる。女性の場合は杓子定規というか、融通が利かないというか、スクエアーに物事を進めていく傾向がある。とっさの機転というか、自分が「悪者」になって作家の責任を肩代わりする度量に欠けるケースがあるのではあるまいか。
「書けない時は、どうしても書けないんだよね。それを、女性編集者は『センセイ! 私がこれだけ頼んでも駄目なんですか。私に約束してくれたでしょう?』と情に訴えてくるもんだから、困るよ」
 もちろんすべての女性編集者が、この種のタイプというわけではないが、言われてみると腑に落ちることが多い。
 流行作家としては、渡辺が執筆する量は決して多くはない。1989年、56歳のときに読売新聞に連載した小説「うたかた」には次のような表現がある。渡辺淳一と等身大とみていい作家の安芸隆之は、夫と子供のいる着物デザイナーの浅見抄子と付きあっている。
<安芸の仕事の量はさほど多くはない。決まっているのは月刊誌一本だけで、あとは小さなエッセイや対談などをいくつか抱えている。それらをすべて含めても、月に百枚くらいなものである。>(「うたかた」講談社)
 当然原稿を書くためには調べなくてはならないこともあるし、筆が進まない日もあるから、気分としてはいつも締切りに追われているようなものだ。執筆の合間に自分の時間をひねり出して、趣味の他にも家族の団欒を考えなくてはならなかった。
 札幌の同人誌時代の仲間が上京し、一夜渡辺と痛飲し渋谷の事務所に泊まった。朝になって目を覚ましたら、渡辺はすでに起きて懸命に原稿用紙のマス目を埋めていた。まさに鬼気迫るプロ作家の姿があった、と感嘆していた。
 渡辺は、自分の綿密なスケジュール管理が巧みだった。秘書が作った予定に従わず、自分の都合で勝手に動くこともあった。朝早いのには慣れているから、編集者が目を覚ました時には、朝食もとらずにタクシーを呼んでどこかへ出かけてしまっていた、という話がある。
 原稿が「落ちた」(遅れて休載になること)話は聞いたことがなかった。野坂昭如が、依頼された原稿が間に合わず、詫び状の原稿用紙をそのまま凸版で載せたという有名な「小説新潮」の「締切り哀話」は、左右社の『〆切本2』に掲載されている。井上ひさしにも似たような話があり、行方不明の末に新聞の社会面に載った。
 渡辺は、原稿が早いほうではなかったが、「行方不明」になることはなかった。どこからともなく、連絡が入るのだ。患者の病状に合わせて、次の投薬や点滴の内容に気を配る医師の習性があったのだろう。無頼派といわれ、自堕落な生活を送っていたように見えて、実際はしっかりと「自分の城」と「家庭」を守っていた。北海道時代の地道な「渡辺家」を範としたのである。

 渡辺のように、数多くの女性を「恋人」に持つと、「別れ方」が難しくなる。ドアチェーンを金鋸で切ろうとして警察沙汰になった若い時もあったが、年齢を重ねるにしたがい、相手の女性によっては「去る者は追わず」という心境になったこともあるようだ。あの時の「無頼」はいったいなんだったのか。「うたかた」には、30代から40代に掛けて「無頼を気取っていた」とある。
<無頼になるためには、まず酒を飲み、女性を求めることだと思いこんでいた。思うとおり書けぬまま、あそぶことが単純に創作のエネルギーになるのだと信じていたところがある。>(前掲書)
 プラスになった面もあるが、胃の具合が悪くなったというマイナスの面もあったと反省している。しかし、生活態度は五十近くになり、ようやく落ち着いてきたようだ。
 それでも、ある女性の場合は、喧嘩した翌日から毎朝電話が掛かってきたという。
「お早う」と掛かって来るから、「ガチャン」と切る。次の日もまた掛かってくる。
「お早う……」
「ガチャン」
「お早う……」
「ガチャン」
「お早う……、もうご飯食べた?」
「ガチャン」
 数週にわたって毎朝の定時番組のようだった。外国へ行ったときは、毎日のように葉書が届いたという。実にマメなのだ。今なら、携帯電話やメールがあるから、さらに頻繁に連絡を取ってくるかもしれない。
「その熱意には負けるわよねぇ」
 と同意を求められても困る。
「金の切れ目が縁の切れ目」となったこともあるだろうが、病気で銀座のクラブを休まざるを得なくなり、回収できなくなった女性の売掛金を立て替えて払ったこともある。短篇小説「銀座たそがれ」の話だ。「それぐらいは当然だろう」と自分自身にいいきかせ、納得する意気地がリアルでいじらしい。
 そうかと思うと、バブル経済の終焉とともにいずこの商売も不況に陥り、金を借りに来る女性も多かった。「ずいぶん、せびり取られた。もう顔も見たくない」と、不機嫌な顔をしていたこともあった。「私のことを小説にして、ずいぶん売れたのでしょう?」といわれれば、確かに当たっている部分もある。放って置くわけにはいかなかったのだろう。
 編集者はみんながみんな銀座で飲むのが、好きなわけではない。酒が飲めない人もいるし、客がホステスのご機嫌を取るのはおかしいという人もいる。それが好きな編集者ももちろんいる。また複数の出版社で一人の作家と飲む場合の勘定は、どこの社が持つのか複雑だ。クラブで他の社の人に連れられて別の作家と合流することもある。ママが律儀に確認することもあれば、ママの裁量に委ねられる場合もある。
 だいぶ昔の話しだが、銀座の小さなスタンドバーで出版社と製紙会社の幹部がある作家とよく顔を合わせていた。三人の飲み代の合計を、三人それぞれに送っていたことがわかってしまった。いずれも支払う理由と条件が備わっていたから、なかなか気が付かなかった。これは悪質な例だが、代金を三等分して請求書を送っておけば、なんの問題も無かったのだ。
 渡辺の覚えめでたいX社の編集者は、あまり銀座のクラブで飲むことが好きではなかった。その事情を知っているはずの渡辺がある時、渋谷の事務所で「今から銀座に行こう」と、くだんの編集者に声を掛けた。
「今日の払いはY社の勘定だから」 
 X社の編集者は別に勘定を払うのが嫌なのではなく、銀座のクラブの雰囲気が好きではなかったのだろう。私もどちらかといえば、バーの止まり木に座って独りで飲んでいる方がいい。他社の勘定で飲むというのも落ち着かないものだ。まったく気にしない人もいるけれども。いや、渡辺の「金銭感覚」について書いているところだった。
 自分で安売りの歯ブラシを買うところは、所帯じみていると同時に細かい金銭感覚を持っていることを証明している。新刊本が出ると、自分で数百冊を購入して編集者や先輩作家、友人などに献本する。著者が買い求める場合は、八掛け(2割引き)で印税から差し引くのが慣習になっている。贈る人の名前と署名を毛筆で記した。墨はくっきりして力があるということで、墨汁を常用していた。贈呈先にも細かい神経を使った。出版社の役員クラスから、実務を担当した若い編集者まで、細かい目配りがあった。私の書庫にも、為書き入りの書籍が70冊以上も並んでいる。一度、熱心に校閲作業を進めてくれたフリーの校閲者のために献本と署名をお願いしたら、「その本代は版元で出してよ」といわれたことがある。
 もちろん面識があるはずもなく、版元の制作に関わった人に過ぎない、という理屈で、筋は通っている。根が科学者だから、計数の才は天賦のものといっても良い。金銭哲学というほどの大げさなものではないが、「財産なんか子孫に残すものじゃないよ。自分の代で使い切ればいいんだ」と話していた。
 90年代になると、風格というか落ち着きが出てきた。豪快に女性との艶聞をほしいままにした渡辺を守っていたのは、やはり妻の敏子の功績といわざるを得ない。妻としての「愛憎」の起伏は、想像を絶するものがあったはずだ。当然、渡辺への「復讐」も胸をよぎったに違いない。
 例えばこんなことがある。新聞の連載小説を毎日切り抜いて、渡辺の机に揃えておくのも敏子の役目だ。事務所でも秘書が揃えているが、自宅で執筆することもあるから、両所に必要なのだ。
「家の外で女と関係していることを新聞に書いているわけだけど、その小説の切り抜きを毎日俺の机の上に置いてくれるんだ。その気持ちというのは複雑だろうね」
 別にこちらから聞いたわけでもないのに、ふと思い出したように語り始めたことがあった。一瞬、「申し訳ない」という表情が顔に浮かんだ。俺は何をやっているのか、という慙愧(ざんき)の念がこみ上げてきたのだろうか。だからといって、創作活動は中止できるはずもない。「作家の業」などといった簡略で薄い言葉で片づけられない人間の懊悩がそこにはあった。敏子の側にも当然裏を返した憂悶が秘められていたわけで、渡辺もその内面がわかるから、作家と夫と父親の三角形の中で、人知れず悩乱と煩悶があったのだろう。
 かつて、渡辺は岸恵子との対談で、次のように述べている。
<私の小説は、納豆の豆の一粒一粒を結んでいる糸みたいに、ぐじぐじあれこれ迷っているところだけを書いているんです>(『12の素顔―渡辺淳一の女優問診』)
 渡辺家の中にも、納豆の豆にまとわりついているねばねばした糸があった。長男として渡辺家を守り抜いていく渡辺を、妻の敏子も複雑な葛藤を抱えながらも支えていたのである。
 朝日新聞社から「麻酔」が1993年に刊行されてから、1年以上たった94年10月に、私は朝日新聞社を退職することにした。入社してから30年が経っていた。さる近県の私立大学に第二の職を求めたのだ。母校の慶応大学新聞研究所(現メディアコミュニケーション研究所)で非常勤講師を20年近く勤めていたし、指導教授からも誘われていた。後進の面倒を見ることは嫌いではなかった。40近くも齢の離れた若い学生と知り合うのは楽しいし、なによりも自分自身の勉強になる。他にも本にまとめたい企画も多くあった。
 渡辺淳一の小説を三作、対談集を二冊、朝日新聞出版局から出すことができた。出版業界にあって鵺(ぬえ)みたいな新聞社の出版局から、よく出版できたものと思う。
 渡辺に「新聞社を辞めることにしました」と報告すると、間髪(かんはつ)を容れず、
「そうか。もう朝日から本を出さなくてすむな」
 にやりと私を見た。
「そうですね。だけどもう原稿を頼む人がいなくなるかもしれませんよ」
 と言い返した。ちょっと渋い表情を見せながらも、すぐに笑みを浮かべた渡辺としっかり握手をした。
 1970年に初めて原稿を依頼して以来、25年におよぶ作家と編集者の関係が終わった瞬間だった。(敬称略・この項続く)
(18・1・31)
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