第197回 23キロのクエ、銀座「白いバラ」閉店、淳ちゃん先生のこと(承前・その16)

×月×日 中野の「ふく田」でクエの会。昨年の12月から頼んでいた23キロの大物が入った。長崎県で7本水揚げされた内の2本が築地に入り、その一本。船上活け締めで3日後に昆布締めしたので、ほどよく身が締まり、絶好のタイミングだった。他に湯霜と焼き締め。天ぷらもいい。脂が乗っているが、キンメダイなどと違って上品。しゃぶしゃぶにして、仕上げは雑炊。

×月×日 銀座に残った最後のキャバレー、「白いバラ」が閉店した。雑誌「東京人」の2月号に従業員控室に貼りだされている「ホステス心得」13条の写真が掲載されている。三つだけを紹介する。
◇お客様だけに笑顔が作れても、従業員に笑顔を作れない女性は伸びません。将来、幸福をつかむことも出来ないでしょう。
◇お客様は、ほめるに限ります。お客様ばかりでなく、お友達から男子職員まで、ほめてごらんなさい。長い間には貴女のプラスになります。
◇どんな親密な友情にも、垣根を作りましょう。とかく、女同士の友情はこわれやすく、私生活の話は特に避けましょう。
 相田みつをの劣等感を裏返した自虐的「傷のなめ合い路線」とは大違いだ。「サービス」を商品としなくてはならない女性たちのしたたかな生きる知恵を教えている。

×月×日 淳ちゃん先生のこと(第二章・その16)
 私が朝日新聞社を退職した翌年の1995年9月から日本経済新聞の朝刊で渡辺淳一が「失楽園」の連載を始めた。前にも述べたが、その年の11月に作家生活三十年を記念して「渡辺淳一さんを囲む会」が日本橋のロイヤルパークホテルで開かれた。発起人は、城山三郎(作家)、井川高雄(エリエール製紙)、鶴田卓彦(日本経済新聞)、大村彦次郎(講談社)、三田佳子(女優)、渡辺亮徳(東映)、角川歴彦(角川書店)の7名だった。
 編集者生活から足を洗ったといっても、渡辺淳一と私の「仕事」を抜きにした「友好関係」が絶たれたわけではない。夏の北海道旅行こそ参加しなかったが、秋の誕生会や忘年会にはできるだけ顔を出した。
 私は96年の新年号から、文藝春秋社の「オール讀物」に、「ここに食あり<探訪>名作の中のグルメ」を連載することになった。有名な小説に登場し、今も営業している料亭やレストランを実際に訪ねるという企画だった。
 私の「転身」を知ったやぶの会の笹本弘一が当時「オール」の編集長で、声を掛けてくれたのだ。このときほど、渡辺淳一とやぶの会の仲間を有り難いと思ったことはない。いくら口では大きなことを言っても、組織を離れてフリーランスになるのは、世間的にも経済的にも不安があるものだ。まあ、私の場合は、大学という樹に寄り掛かれる余裕があったけれども。おそらく私の顔に表れていたと思われる緊張と不安の色を笹本が鋭く察知し、同時に期待もしてくれたのだろう。
 連載が始まると20代の無名のころに知り合った漫画家の千葉督太郎が、「朝日を辞めてすぐオールの連載なんて、重金さんはずるいよ」とパーティーの席でからんできた。長い付き合いだからじゃれているようなものだが、「ずるい」といわれる筋合いはない。別に姑息で卑怯な手立てを講じたわけではないからだ。
 かといって、「武士は食わねど高楊枝」で傲然とふんぞり返っていたかというと、そんなこともない。ただ「売文業」の世界では、矜持や誇りはややもすると、尊大、驕慢に通じ、謙虚、慎重は無能、惰弱ととらえられかねない。やせ我慢が物欲しげに映っては、こちらの胸の内を見透かされるだけだ。「執筆の機会」を欲しいと期待しても、向こうからやってくることはない。かといって、欲しがらなければ絶対に来ない。この誇りと遠慮の距離と間合いの取り方が、成りたてのフリーランスには最も難しい処世術だろう。
 私はその後2011年に左右社から『編集者の食と酒と』を刊行した。帯の惹句には、「どうしても『編集者』になりたくなる本」とある。講談社の元「群像」編集長で文芸担当取締役を勤めた徳島高義が、「朝日新聞では入社早々から他社にアルバイトの原稿を書くことを考えているようだね。普通の出版社では考えられないけど」といわれた。そういわれれば、芥川賞の候補になっただけで、辞めされられた出版社を知っている。単なる風評だったかもしれないけれども。私に電話の掛け方から始まって編集者の心得を一から教えてくれた先輩たちは、いずれも社外の出版物に原稿を書いていた。産經新聞の児童文学賞を受賞していた上司もいた。入社してすぐに、「そのうちによその出版社から原稿を頼まれることが必ずあるだろうけど、絶対に断ってはいけない。一度断ったら、二度と頼んではこないものだ」と教えられた。といった拙著の内容に、徳島は目を留めたのだろう。
 原稿を頼まれる身になって、初めて「頼み方」の一部始終がわかる。原稿を依頼されなくては、本当の「やりとり」はわからない。社員教育が徹底した出版社とずぼらな出版社の違いは歴然としている。学生時代のことだが、いっぱしのジャーナリスト気取りで、大学の先輩の劇作家、内村直也に原稿をお願いして、「出来上がったら速達で送ってください」といったら、「ぼくは速達で送るような原稿は書かない」と一喝された。この一事がその後の私の編集者生活の原点となった。
 座談会に出席してみると、編集者のやるべき仕事や段取り、気配りを体現することができる。「人のふり見て我がふり直せ」ではないが、何事も受けて立つ逆の立場になってみないと、「原稿執筆」といった執筆者と編集者の微妙な機微はつかめない。「おもてなし」や「サービス」も同じである。「マニュアル」や「トリセツ(取扱い説明書)」には、決して表現できないし、そもそも編集者の仕事に「マニュアル」は存在しないのだ。4年以上にわたって続いた「オール讀物」の連載は「食の名文家」として、1999年5月に文藝春秋から出版され、私のフリー第一作という記念すべき本になった。
 「失楽園」の連載が評判になっていた1996(平成8)年1月に結城昌治が亡くなった。結城の「白昼堂々」は、私が入社して最初に担当した作品だった。直木賞の候補に挙げられたが、受賞には至らなかった。結城と渡辺は同時に直木賞を受賞した「同期生」で、不思議なことにお互いの自宅もわずか数百メートルしか離れていなかった。結城の自宅で執り行われた告別式で渡辺と顔を合わせた。1月にしては、冬の明るい日差しが眩しかった。
「池波正太郎さんも松本清張さんも亡くなり、今度は結城昌治さんでしょう。これで私が葬儀に出るのは、渡辺さんだけになりました」
 不謹慎とはわかりつつも、告別式の場所でいうべきではないことを喋った。
「そうかい。キミの方が先かも知れないよ」
 と、例の独特の「キミ」の発音で切り返してきた。

 日経新聞の「失楽園」は、連載中からじわじわと、人気が上がってきた。渡辺は日経新聞で74年に「おんなそして男…」(夕刊。後に「わたしの女神たち」と改題)、84年には「化身」(集英社)を連載している。
「失楽園」は、作家有島武郎と中央公論社の女性編集者、波多野秋子との軽井沢心中事件(大正5年)と昭和2年に起こった阿部定事件が物語の底に敷かれている。
 丸谷才一は、「吉川英治の『宮本武蔵』以後、最も好評を博した新聞小説」(毎日新聞)といい、養老孟司は、「永井荷風の『四畳半襖の下張』を想起した。ただし、『失楽園』は、荷風の作品にあった戯作の趣はない。作者はきわめて謹言である」(読売新聞)と書評欄で批評した。
 それぞれに家庭がある出版社の部長、久木祥一郎と書道家、松原凜子の性愛は凄烈を極め、凜子の方からいつまでも性愛に浸っていたいと言い出す。二人は軽井沢の有島武郎が心中した別荘の跡を訪ねる。「愛の先には破壊しかない」と考え込んだ凜子は、「今、一番幸せなときに、死ぬよりないでしょう」という。二人は結ばれたまま、青酸カリが入ったボルドーの銘酒シャトー・マルゴーを飲んだ。
 小料理屋の住み込み女中だった阿部定がその店の主人、石田吉蔵と知り合って、事件に及ぶまでわずか2か月。久木と凜子が知り合って情死に及ぶまでは1年。全編を通して性愛至上主義のどこか気だるい風が渦を巻いていた。
 渡辺は、連載中に「『青酸カリは酸っぱい味がする』というんだけど、いったい誰が味わったのか、不思議だよね」と語っていた。
 この小説をプロデュースというか編集者の役割を担ったのは「小説現代」元編集長の川端幹三である。講談社を定年退職後、出版プロデューサーとして多くの小説を世に送り出している。
 かつては、海外などへも取材に同行し、資料の収集に懸命だった新聞社の文化部は、あまり意味を持たなくなった。ある女性作家は、パリのシャンゼリゼ通りの凱旋門からコンコルド広場まで両側に植わっているマロニエの樹は何本あるか、とか山陰本線の余部鉄橋の橋脚は何本なのか、などを担当編集者に「ご下命」した。新聞社はその組織を利用して、「取材」した内容を作家に届けた。誰でも自由に外国に旅行できるようになり、作家側からすれば、新聞社の海外取材網に頼らなくても自前で取材できるようになったということである。
 新聞小説の存在理由も年々変わりつつあった。連載している小説が人気になったからといって、どの程度販売部数に反映するのが、実態はなかなかつかめない。当然「失楽園」は日経新聞ではなく講談社から出版された。渡辺は、「百万部くらいはいくかな」と漠然たる思いはあったが、なんと300万部近い超ミリオンセラーになった。映画やテレビなどに映像化され、大きな騒動となった。社会現象といってもいい。「失楽園」は一躍流行語になり、「政界失楽園」といわれた自民党の有名衆議院議員もいた。中国にも翻訳され、「恋愛の毛沢東」、「情愛大師」と持ち上げられた。
 この「失楽園」の騒ぎが鎮まるまでに、2年の歳月がかかった。印税を目当てにゆすりやたかりも来た。「ガイドブックを出したい」とか「別冊を出したい」といった、話が舞い込んできた。しかし、渡辺には次の作品のイメージがなかなか湧いてこなかった。今までは、一つの作品が終わると、次作のイメージがすぐに浮かんできた。
 松本清張は、連載中の作品が終わりに近づき、次の作品の構想を練るときが最も楽しい至福のときだ、と話してくれたことがある。物語の終盤の局面では、頭の中がすでに次作のことで一杯だった。「松本作品の結末は尻切れトンボが多い」という批判も、その辺りに理由がある。次作の構想が浮かんでこないのは作家にとって、きわめて辛いことだったに違いない。

 ところで、私は2003年7月に前立腺がんの手術を受けた。同じ年に、今の天皇陛下も手術をされ、最高裁判所長官の町田顕も受けている。勤務先の大学で、「有名な人がどんどん手術を受けているので、ここの大学の知名度を上げるためにも一人ぐらいは受けた方が良いでしょう。僭越ながら私が代表として受けてきます」と同僚たちに挨拶したら、みんな喜んでくれた。手術は予定通り無事に終わったので、すぐ渡辺に報告に行き、「PSAの検査は受けていますか」と尋ねた。PSAというのは、前立腺がんの早期発見にはきわめて有用な血液検査だ。考えてみればおかしな話で、医師に向かって、「がんの検査を受けているか」と不遜なことを聞いたものだ。「うーん」といって、「男も女も生殖器系のがんは、切除すればあまり問題はないよ」と、慰めてくれたが、PSAの検査を受けたかどうかは、しかと答えなかった。
 作家の小池真理子によれば、「健康状態について周囲から指摘されたり、質問されることを嫌っており、病気の話題は好まなかった」そうだ。しかし、編集者の中には、胸部動脈瘤の手術を受けるかどうか、と渡辺に相談した人もいたし、「古い女性編集者と痔の話なんかしているんだから、もう色気もなにもないよね」などと笑っていたこともある。
 「失楽園」から8年経ってふたたび日経新聞で「愛の流刑地」の連載が始まった。「愛ルケ」といわれ、幻冬舎から出版された。幻冬舎社長の見城徹が、「ぜひ渡辺さんの小説をわが社から出したい」と渡辺に直訴し、日経新聞に売り込んだという噂が立った。幻冬舎からは、まだ小説の刊行は無かった。女性下着のメーカー、「トリンプ」社長の吉越浩一郎が、自身の「ブログ」で「『愛の流刑地』を欠かさず読んでいて、結構楽しみにしているんです」と書いたら、大変な反響を呼んだ。「言い訳」というか、反論の文章も適切でなかったのか、女性の間に商品の「不買運動」の動きまで出たというから、尋常の人気ではない。渡辺作品を支持する女性読者も多いが、「女性を性の道具扱いにしている」と激しく主張する女性たちもいたのは事実だ。やはり男性の視点で、描かれているからだろうか。
 「失楽園」が、愛の行きつく先として心中を選んだのに対し、「愛の流刑地」は、男が女を殺すという異常な内容だ。阿部定事件を裏返しにしたともいえる。渡辺は「愛の流刑地」を書き終えた時、72歳になっていた。「やぶの会」のメンバーも高齢化し、定年を迎えて退職する人も増えてきた。HBC北海道放送の時代から多くの渡辺作品のドラマを制作した演出家の森開逞次や産經新聞の影山勲、集英社の龍円正憲らは鬼籍に入った。その一方で、もちろん多種多様なジャンルから若い人たちも加わってきた。どういうわけか、女性の数が多いように思えた。気の所為かも知れない。
 古いメンバーから、「オールドやぶの会」を作って欲しい、という声が上がった。右も左も分からずに、ただ「センセイ、センセイ」と追いかける若い人についていけないからだ。「俺達は無名時代から担当しているのだよ」という自尊心と優越意識をひけらかしたかっただけかもしれない。
 2007年3月に渋谷東急デパート本店の9階にあるイタリア料理店「タントタント」に、「渡辺淳一を囲む定年編集者の会」として、第一回の会合があった。古くからの参加者だった女優のKも参加した。後に「プラチナやぶの会」と名づけられ、世話人は元秘書の小西恵美子、幹事長役に元文藝春秋の鈴木琢二が収まった。
 2009年の2月には、同じタントタントで2回目の会合があった。この年の9月17日に「直木賞受賞40年を祝う会」が東京会館で開かれた。銀座はもちろん、京都からも祇園の舞妓が二人駆けつけた。
 私はこの会に大ポカをやらかして、出席していない。すっかり失念したのだ。頭の中から抜け落ちていた。言い訳は野暮なのだが、翌々日にワイン仲間と北京へ行く予定があり、幹事役として忙殺されていたのだ。古田清二が会場から電話を掛けてくれたが、すでにお開きの時間だった。老化現象の始まりだったのかもしれない。すぐ渡辺にお詫びの手紙を書いた。後日やぶの会の人たちから、「なんかあったの?」と体調を心配され、有り難くもあり、恥ずかしくもあった。
 その翌年の2010年の9月に珍しく渡辺から声が掛かり、「プラチナやぶの会」のメンバーと古い編集者数名が、事務所の隣にある東武ホテルの中華料理レストラン「竹園」に集まった。少し遅れてきた渡辺は、緊張した様子で挨拶に立った。
 その内容は衝撃的だった。前立腺がんが発見された、と話し始めた。PSAの数値が高いので検査したら、すでに脊椎の第4関節に転移していた。外科的手術はせずにホルモン療法を選択すると付け加えた。数年前から、「腰が痛い」といって、ゴルフのコンペは中断していた。それ以前に、私も「六十肩」なのか、腕が上方に上がらなくなり、ゴルフは止めていた。ビギナーズラックというのか、ホールインワンも成し遂げていたので、これといってゴルフに未練はなかった。あれほどゴルフに入れ込み、エージシュートの呼び声も高かった渡辺からクラブを取り上げた腰痛が、がんと関係があったのか、はっきりしない。しかし、人間ドックで見つかったというのだから、少し発見が遅れたのかもしれない。
 2010年10月、渡辺は満77歳となり、「渡辺淳一先生の喜寿をお祝いする会」が東京会館で開かれた。病気の話は、一切出なかった。「老年のセックスを書けるのは、自分しかいない。年齢を重ねたことで、書ける題材が広がった」といった趣旨の挨拶をした。色紙には、「喜寿という身勝手山へ登りけり」と力強く記した。「喜寿の会」を前にして、ごく親しい編集者だけに自分の病気を知らせたと考えられる。
 2年後の2012年の誕生会は、数えで「傘寿」のお祝いの会になった。「まだ79歳だ」と本人は不服そうだったが、この種の慶事の慣例だから仕方がない。「最後の会」になることを意識したのか、女性陣は和服の人が多く、いつまでも一緒に写真を撮っていた。なにやら「撮影会」のおもむきで、出席者も三田佳子、川島なおみ、津村雅彦、阿川佐和子、林真理子、幸田真音など実に華やいだ顔ぶれがそろった。京都「和久傳」の桑野綾乃、銀座のフランス料理の隠れた名店「ボンシャン」の吉田照雄、祐天寺駅前の鮨屋「初代渡邉淳一」の店主夫妻らの姿もあった。鮨屋は店を休業にして駆けつけた。
 泌尿器科の女性主治医(美人です)も和服で出席し、「医師を志したのは、『花埋み』の荻野吟子に触発されたから」と祝辞を述べた。何度となく述べているが、荻野吟子は日本で初めての女医で、「花埋み」は1970(昭和45)年の作品だ。こんな先生に診てもらえるのは、医師であり作家である渡辺にとって望外の幸せというものだろう。
 「私は、この先生に恋している」と誇らしげに宣言していたが立派というしかない。杖の世話になっていたが、壇上に立つと、「今まで、書くことがいっぱいあった。書きに書いて、書きまくってきた。どうして今の作家は小説を書かないのだろう。私にはまだまだ書きたいことは山のようにある」、と自分を奮い立たせるかのように元気な声を上げた。
 「すでに谷崎潤一郎が亡くなった年齢を超えたけど、『瘋癲老人日記』より面白い作品を書くつもりだ」とも付け加えた。抗がん剤の影響か、顔はふっくらとして顔色もつややかだった。出席者はみな「これが最後のお別れの会」だと思っていた。
 翌2013年が明け、賀状には、「傘寿来て愛の小説書きこみぬ」とあった。4月25日に「北原亞以子さんのお別れの会」が東京会館で開かれた。渡辺は発起人を引き受け、挨拶こそしなかったが車椅子で出席していた。津本陽や高橋三千綱の顔が見えた。北原は「石の会」以来の仲間だった。私は北原を渡辺から紹介してもらった。作品を依頼する機会はなかったが、よく大村彦次郎や常盤新平と一緒に銀座のクラブで顔を合わせた。
 私は車椅子の渡辺と握手をして別れると、一人で銀座の「いまむら」へ行って、酒を飲んだ。飲まずにはいられなかったのだろう。7月には直木賞の選考委員会に出席している。桜木紫乃を選出した回で、これが最後の選考委員会となった。
 10月24日には満80歳となり、「渡辺淳一先生の生誕80周年を祝う会」が東京会館で開かれた。「生誕80周年」とは大袈裟で、そのうち「降臨」などと言いだすかもしれない、といったやぶの会の毒舌家の声が聞こえた。自宅で転倒したとかで、車椅子の上からバースデイケーキの蝋燭の炎を吹き消した。
 「ここまで、よく生きてきたものだが、また小説を書く意欲が湧いてきた。年をとっても、心をときめかせるような恋をしなくてはいけない」と、自分に言い聞かせるような挨拶をしたが、誰の目にも深刻な病状は理解できた。残念ながら往時の面影は、どこにも見当たらなかった。事務所の秘書嬢によれば、「頭脳はきわめてクリア」とのことだった。
 2014年が明け、渡辺から「寒中お見舞い」の葉書が来た。いつも賀状には俳句が大きな活字で印刷されているのが常だが、「新年や風邪が治らず冬ごもり」と小さくあった。元中央公論の水口義朗は、「あれだけ他人の死と向かい合ってきた医師の渡辺さんでも、自分の病気のことを表に出したくないのか」と驚いた。なぜか、喪中の「年賀欠礼状」に用いる日本郵便の葉書だった。(敬称略・第二章次回了)(18・2・14)
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