第198回 玉村豊男の『病気自慢』、新芥川賞の二作、シャトー・ロッシュベル、淳ちゃん先生のこと(承前・その17)

×月×日 玉村豊男さんから、新著の『病気自慢』(世界文化社)が送られてきた。書名は古今亭志ん生の『貧乏自慢』を倣ったのだろう。交通事故、原因不明の吐血、輸血による肝炎、肝臓がんと病気が続く中で、ワイン造りに励み、テニスに興じている。
 現在72歳だが37歳からの36年間に、8つの病院に14回入院した。そろそろ遺言と「病気の履歴書」を書く心境に達したらしい。「葬式無用・戒名不要」を持論とするので、遺骨はブドウ畑に散骨するのが理想。メルローやシャルドネに人骨のカルシウムは良い影響を与えるだろう。ビンテージはまだわからないが、著者は「玉村豊男粉骨砕身畑」の特別バージョンが高く売れることを期待している。
 この諧謔精神と、「医師や医学の力を借りて、自分の病気は自分で治す」という強い意志が、病気への対処術として有用かつ重要なことがよくわかる。一読して、「勇気が湧く人」と「めげる人」がいると思われるが、前者の方が多いはずだ。

×月×日 第158回の芥川賞受賞作品、石井遊佳さんの「百年泥」と、若竹千佐子さんの「おらおらでひとりいぐも」を読む。二作とも東京育ちの人間には書けない小説だ。石井さんの作品は、マジックリアリズムの手法だが、現代インドの鋭い文明論になっているところが秀逸だ。大阪育ちの石井さんは、浪速の「いちびり(お調子もん)」と「すかたん(見当違い)」をインドに見つけた。読み進めていくうちに、猥雑さでは大阪をはるかに超越するインドの人と土地に愛着を感じるようになる。
 文芸評論家の斎藤美奈子さんは、若竹さんの作品を「帰郷小説」と名づけ、故郷の言葉で小説を書く人に、「もっと出てこい」とエールを送る。しかしこれからの若い人がどれだけ方言を駆使できるかはわからない。テレビとSNSが、「全国共通痴呆語」の普及に努めているからだ。
 まったくの偶然だが、2作とも蛭(ひる)に血を吸われる情景がある。不思議な付合だ。

×月×日 パリ在住の食ジャーナリスト、相原由美子さんが帰国したので、食ジャーナリストの中嶋正代さん、ミステリー評論家の松坂健さん、「ワイン王国」の飯島千代子さんらと会食。デンマークのコペンハーゲンでワインを造っているアンヌ・クリステンセン嬢を相原さんが同道。会うのは二回目。彼女はフランスのモンペリエ大学で醸造学を学び、信州の「真澄」で知られる宮坂酒造で研修したこともある。
 今回の来日は、彼女がデンマークに輸入しているサンテミリオン・グラン・クリュ・クラッセのシャトー・ロッシュベルを日本に売り込むため。といっても、たった3ヘクタールの畑しかない小さな家族経営のシャトーなので、生産量も限られている。フランスの大統領官邸や三ツ星のレストランに納入されている。2012年を試飲したが、メルローとカベルネ・フランの特徴をしっかり把握した濃醇な味わいだった。

×月×日 淳ちゃん先生のこと(第二章・その17回)
 渡辺淳一は2014年4月30日、自宅で妻と三人の娘や孫たちに看取られ、静かに眠るように息を止めた。前年の11月までは、渋谷の事務所で6月に刊行した「愛ふたたび」(幻冬社)に手を入れていた。過激な性描写が問題になり、地方紙連載中に多くの新聞が連載中止の措置を取って話題となったが、売れ行きはあまり良くなかった。ある女性文芸評論家から酷評を受けたのを、気にしていたのかもしれない。年末には自宅に戻った。葬儀は遺志により、近親者だけで秘かに済ませ、メディアへの発表はなかった。
 5月5日の午後、元文藝春秋の鈴木重遠から、訃報が届いた。すぐに朝日新聞文化くらし部の宇佐美貴子に連絡を入れた。NHKが一報を流す2時間くらい前だった。
 5月6日の各紙朝刊で、渡辺淳一の逝去は一斉に報じられた。翌日になって追悼文の相談を受けたので、藤堂志津子の名を挙げた。藤堂の原稿は渡辺の「代筆説」や「愛人説」を流されたことに触れている。もちろん全否定しているのだが、渡辺の対応は、きっぱりしたものではなく、あやふやでかえって誤解を深める結果になったのは、実に歯がゆく、じれったい思いをしたと記している。どうして、明確に決然と否定してくれなかったのか。
<酒席などで、冗談まじりに問われるたびに「違いますッ」と私は断言し、その横で先生が微笑(ほほえ)む光景は何回となくくりかえされたものだった。内心楽しんでいたのだろう>(朝日新聞5月13日付け朝刊)
 渡辺淳一の特徴を的確に捕えている。今まで述べてきた、曖昧というか、優柔不断な一面を描出している。自分の意志を明確にするよりも、ぼかすことの方が多かったような気がする。藤堂の目の前で、疑惑を毅然として否定しなかったのは、「面白がっている」と藤堂は取った。しかし渡辺にすれば、「そのまま勝手に言わせておいても、別にいいんでないかい?」という一種の斟酌であり顧慮だったのかもしれない。それが藤堂をいたく傷つけている、ということに気が付かなかったのではあるまいか。
 渡辺の死後、多くの作家が新聞や雑誌で追悼文を発表した。その一人、小池真理子は次のような文章で追憶している。
<かつての文士のいったい誰が、いかにも手ごわそうな、あとで何を言われるかわかったものではない女性作家の太ももや腰に、気軽に触れることができただろう。先生は職業や社会的地位は無関係に、ただ女性であるというだけで相手を評価しようとする方だった。なんというおおらかさ、なんという無邪気さであることか。>(「オール讀物」14年6月号)
 いついかなるときでも、渡辺の周囲には多くの女性が惑星のように浮遊、飛行していた。接近し過ぎて衝突した女性もいれば、炎上して隕石となった女性もいた。看護士、大学生、銀座のクラブ、祇園はお茶屋の女将(おかみ)や芸妓(げいこ)、女優、編集者、実業家など、その交際範囲は実に広かった。渡辺が世に問うた多くの小説の登場人物には、虚実であざなわれた彼女たちの彫像とその影が見える。もちろん単数ということではなく、複数の女性たちを融合、置換し、新しい人物を造形した。
 同じ「オール讀物」で、髙樹のぶ子も次のように書いている。
<いつだったか、訊ねたことがある。先生、小説の中の性愛と現実の女性と、どちらが上ですかと。先生は即座に応えられた。現実の方が圧倒的だよと。
 そのとき、なんて幸せな人だろうと思った。激しく熱い性愛を描きながら、けれどそれを圧倒するほどの生身の喜びを味わって来られたのだ。いや作家でありながらその事実を堂々と言えるということに、訊ねたこちらが圧倒されてしまっていた。>(前掲誌)
 この世の万人に共通する「加齢と不能」は渡辺にとって、どんな意味を持つのか。性愛の幸福を満喫してきた人が、人生の最後に生の神髄である性愛を取り上げられた時、新しい美を発見するのか、あるいは思いもよらない変身を遂げるのか。女としても、作家としても髙樹は期待と興味を持って注視し続けていた。
<渡辺さんは性愛を神の座から引き下ろすことなく、性愛は渡辺さんにとって神の輝きを保ったまま、彼の人生は終わったのだ。>(前掲誌)

 渡辺の死が公になってから数日後に、朝日新聞の宇佐美貴子から、渡辺淳一の「俳句」について、寄稿の依頼があった。「俳壇 歌壇」の「うたをよむ」ページに掲載するつもりだという。求めに応じて書いた 「渡辺淳一の俳句」の原稿を記しておく。

<昭和二十六年四月、雪が残る札幌から修学旅行で京都へ来た高校三年生の渡辺淳一は、平安神宮の枝垂れ桜に声を失った。蝦夷山桜(エゾヤマザクラ)しか知らない十七歳には「造花」にさえ見えた。同じ日本に長い冬と短い夏だけの「季語の無い国」があるとは、差別に似た苛立たしさを感じた。
 中学時代の国語の教師、中山周三は主宰していた歌誌「原始林」に渡辺淳一の短歌を掲載している。中学三年の初詠は「わら窓の雪小屋の夜は忘れがたし赤き焔に照らされてありし」で、中山は「甘美な感傷にはしらず、実感を着実にいかしているところもある」と評した。渡辺淳一が文学に芽生える契機となった。
 昭和四十六年に札幌を舞台にした小説『リラ冷えの街』を発表した。題名は季語の「花冷え」から考えついた。北海道の遅い春の冷気を表現するのには、六月のリラの花の木陰が最もふさわしい。
 京都の料亭の母娘を巡る愛を描いた『桜の樹の下で』の章立てには季語が多くある。執筆には土地の四季を体感しなければと京都に居を求めたが、北国育ちでも厳冬の底冷えは耐えられなかった。
 二十年ほど前から賀状に自作の句を記し始めた。平成六年の句が手許にある。
   なにをもて新春というか寝そべる犬

 二十四年には傘寿のお祝いがあった。
   傘寿来て愛の小説書きこみぬ

 そして、今年は事務所を閉鎖する知らせと、寒中の見舞いを兼ねていた。
   新年や風邪が治らず冬ごもり

平成十六年はまだ精気があったけど。
   あやまちをまたくり返す初詣で
>(2014年6月8日朝日新聞「俳壇 歌壇」)

 7月28日3時から帝国ホテル「孔雀の間」で、「渡辺淳一さん お別れの会」が催された。会費は1万円。香典、供物の類は遠慮したが、供花だけは受け取った。
 発起人は、出版社がKADOKAWA、河出書房新社、幻冬舎、講談社、集英社、新潮社、中央公論新社、文藝春秋の8社。新聞社が朝日新聞社、産經新聞社、中日新聞社、東京スポーツ新聞社、西日本新聞社、日本経済新聞社、北海道新聞社、毎日新聞社、読売新聞社の9社。いずれも社長の名前の50音順だ。
 約900人が出席した。作家を代表して北方謙三と林真理子の二人が弔辞を読み、友人を代表して臨済宗相国寺派管長の有馬頼底(らいてい)が「お別れの言葉」を述べた。有馬頼底は、渡辺が新人時代に加わった「石の会」を主宰していた有馬頼義(よりちか)の遠縁に当たる。
 出席者は、津川雅彦、豊川悦司、三田佳子、黒木瞳、名取裕子、川島なおみ、八代亜紀などの芸能人から石破茂などの政治家まで多彩な顔ぶれで、生前の交友の広さを物語っていた。作家は、浅田次郎、宮部みゆき、出久根達郎、三好徹など。画家の村上豊、デザイナーの三村淳などの顔も見えた。出版社の役員や編集者は無論のこと、銀座のクラブの女性たちも参加した。クラブの女性たちも、それ相応に年齢を重ねていた。故人より年長の、古い編集者が不自由な身体にもかかわらず、杖を用いて駆け付けた。渡辺淳一ほど編集者に慕われた作家を私は他に知らない。
(敬称略・第二章了)
次回の更新は3月14日を予定しています(18・2・28)