第200回 映画「長江 愛の詩」、人情落語の大作「ちきり伊勢屋」、田崎真也さん「還暦」、淳ちゃん先生のこと(最終回)

×月×日 映画「長江 愛の詩」を恵比寿カーデンシネマで。悠久の流れをたたえる長江の歴史と周囲の変貌を若い男女に託して語らせる構成は斬新だが、わかりづらい。長江の風景を見に行くようなもの。
 三峡ダムは、まさに中国の繁栄の象徴かも知れないが、失ったものも大きいということだろう。

×月×日 有楽町「マリオン」の朝日名人会。柳家わさび「佐々木政談」、桂文治「親子酒」、古今亭志ん輔「抜け雀」、立川生志「猫の皿」、柳家さん喬「ちきり伊勢屋(下)」。
 志ん輔は、志ん朝の弟子。長い間、NHKテレビの「おかあさんといっしょ」に出演していた。「ちきり伊勢屋」は、人情物の大作。当世では演じる人もいないし、機会もなかなかない。

×月×日 「田崎真也氏 還暦お祝い会」が東京ドームホテルで行われた。650人が出席。発起人は田崎チルドレンといわれるソムリエが20人ほど。山本博、麹谷宏、野本信夫、大畑澄子、達磨正宗の白木善次、吉兆の湯木俊治、ブルギニオンの菊地美升、毎日新聞の西川恵などの各氏と久闊を叙す。
 料理は大きく白ワイン系と赤ワイン系の二つがあり、さらに冷たい料理と暖かい料理が順に出てくる。つまり4群で6皿ずつ、24種の料理ごとに各国のワイン、日本酒が2~3種類、合わせて50種以上がペアリングを考慮して供された。
 例えば、冷製のクラムチャウダーには、シャブリ(ドメーヌ・ロン・デパキ)と純米吟醸酒の金紋世界鷹(埼玉)に作奏乃智(ざく かなでのとも 三重)。猪の煮込みには、イタリアのコルダーナ・バローロ・リゼルヴァとテッレ・デル・バローロ(ピエモンテ)。日本酒は達磨正宗の5年古酒(岐阜)といった具合。
 まさにビュッフェ・パーティーでは、本邦(いや世界でも)初の画期的な試みで、今はなき「ホテル西洋」時代からの盟友、鎌田昭男料理長の労作。後世に残るメニューだ。司会は永井美奈子、バースデー・シンガーは尾崎亜美という豪華メンバー。田崎さんも、美声を披露した。日本のソムリエ界では、「田崎の前に田崎無し、田崎の後に田崎無し」といえるだろう。

×月×日 淳ちゃん先生のこと(第三章・その2)
 渡辺淳一と私の年齢差は六つだ。作家と編集者の年齢差について、渡辺は、「作家のほうが10歳くらい上の方が最もやりやすいのではないか」と書いている。別にこれと言って、確たる理由があるわけではない。
<わたしがデビューした頃には、もちろん年上の編集者が多く、それで仕事上とくに問題になることはありませんでしたが、だんだんつき合いが長引き、取材や講演会にまで一緒に出かけるようになると、年上であることが次第に気重になってくる。これは編集者の側にとっても同じことだろうと思います。>(『創作の現場から』集英社文庫)
 確かに編集者から見ても、あまり年下の若い作家とは付きあいにくいところがある。渡辺の10歳くらい下となると、1943年前後の生まれとなるが、太平洋戦争まっただ中で、この年代の編集者も作家も少ない。私のように六つ違うと、編集者から作家に対して人生の先輩としての敬意が生まれる。若い時代に読んだ書籍の話になっても、三島由紀夫の『鏡子の家』とか武田泰淳の『森と湖の祭り』など、共通の話題が成立した。
 渡辺は、「もともと編集者というのは一種の特殊技能者で、たとえ組織に属していても本質的にはひとりひとりの独立した仕事だ。クラブのホステスに似て、店に雇われていても自営しているようなもので、責任があるはず」という。
<作家を長く、仕事としてやっていく以上は、いい編集者が自分の周りにつくよう努めなくてはいけない。それは結局、自分の糧になるわけで、いい編集者を周りにつけることこそ、作家の才能の一つだということができそうです。>(前掲書)
 私が、渡辺のいうところの「いい編集者」だったかどうかは、わからない。しかし「週刊朝日」の連載小説に関して、私の思うようにやらせてもらえたことは感謝している。もちろん私の独断ではなく、特に図書編集部の福原清憲や編集部の同僚の協力を得てのことである。
 よく作家を師と仰ぐ、編集者がいる。私は、作家を師と思ったことはない。もちろん、多くのことを学んだことはあるが、作家のほうも、編集者を弟子とは思わないであろう。競争相手とも思わないし、ゴルフの「同伴競技者(一緒にラウンドする俗にいうパートナー)」でもない。また「ホステス」の要素もなしとはしないが、もう少し作家の内面に介入している。
 2016年8月に文芸評論家の川西政明が亡くなった。髙橋和巳や埴谷雄髙、武田泰淳の評伝で知られる。河出書房新社の編集者時代に渡辺淳一を発掘した功績を忘れてはならない。上司には著名な編集者、坂本一亀(音楽家坂本龍一の父)がいた。川西が北海道出身の船山馨と一緒に渡辺に初めて会ったのは、1967年の夏の札幌だった。渡辺淳一34歳、川西政明は26歳。渡辺の言う作家と編集者のほど良い年齢差だった。「和田心臓移植」の1年前である。ふたりは意気投合して、連日夜が明けるまで薄野で痛飲した。
 以後、医学の道から文学の世界への転身を含めて、なにかと助言し激励した。川西と出会わなかったら、渡辺は医学の道をそのまま進んだかもしれない。
 ひたすら作家の陰にいて、ある時は黒子、ある時はパトロンとして、「良い作品」を作る出すことに精を尽くす共同制作者でもある「文芸編集者の存在」に気づいてくれたら、望外の喜びだ。
 渡辺淳一の80年間の人生で、私が知り合ったのは直木賞を受賞する前後から後半生と言える43年でしかない。しかしその時期は、私の朝日新聞社生活と多く重なっている。
 もし渡辺淳一と彼を取り巻く編集者たちの知遇を得なかったら、私の人生はもう少し違った道を歩んだようである。(この項敬称略)
(「淳ちゃん先生のこと」完)


◎なお、「オンとオフの真ん真ん中」も200回を迎え、区切りの回なので、ひとまずここで終わります。長い間のご愛読を感謝申し上げます。有難うございました。
 しばらくお休みをいただいて、5月9日から「鯉なき池のゲンゴロウ」と題して、再スタートいたします。ご期待ください。(18・3・28)