【第2回】とにかく読まねばならぬ本 住田正樹

放送大学叢書通信002号(2011年9月発行)より、教育社会学者の住田正樹先生のエッセイをご紹介します。

とにかく読まねばならぬ本 住田正樹

 研究者にとって本といえば、だいたいは著名な古典が出てくるだろう。私にもそのような本がないわけではない。だが、その前に私には懐かしい洋書と訳書の2冊の本がある。
 私は大学の学部では都市社会学を専攻した。元もとマスコミに関心があって社会学を専攻したのだけれども、次第に関心が社会病理に移っていったのである。3年生のゼミが始まって直ぐの4月下旬、日比谷の書店でたまたまゼミの矢崎武夫先生(当時、慶應義塾大学教授)に会い、コーヒーをご馳走になったのだが、その時に「どんな本を読んでいるか」と聞かれた。私が数冊の社会病理の書をあげたところ「社会病理のいい本があるから見せてあげよう」とおっしゃったので、翌々日だったと思うが、先生宅にお邪魔した。先生が「これはいい本でね」といってお貸しくださったのがElliot and Merrill のSocial Disorganization だった。和書とばかり思っていた私は「へェーッ」という感嘆詞を胸の中に抑え込んだ。「分厚い本、重たそう」というのが第一印象だった。何せ796頁にもおよぶ大著である。しかしこうなるととにかく読まねばならない。翌日から大著と辞書とを抱えて毎日図書館に行ってノートを取りながら読んだ。4ヶ月ほどかかって漸く読み終えた。内容はよく分からなかったが、ともかくも読み終えたという安堵感と一寸ばかりの満足感があった。
 大学4年生のとき私は大学院では教育社会学に専攻を変更して教育病理をやってみたいと思うようになった。そこで大学院の授業料と当分の生活費を蓄えようと計画して、卒業後2年間働いた。当初は2年間のブランクなど大したことはあるまいと思っていた。ところが大学院に入ってみると大学院生はみんな自信をもって自分の研究テーマに取り組んでいるし、ゼミの討論もみんな積極的で活発だった。感心した。一体みんなはどうやって勉強しているのだろうと思い、自分はどうやって研究していけばいいのだろうとあれこれ迷った。そうした時に神田の書店で目に入ったのが、ミルズ(Mills)の『社会学的想像力』だった。この書は社会学の著名な古典だけれども、その時は古典だからではなく、研究の作業技法について書いているようだったので、とにかく読んでみようと思った。終わりの付録「知的職人論」を読んだとき、これは具体的な研究の仕方だ、今の自分にピッタリだと思った。よく読まねばならぬ。何度か読んで考えた。そうだ、「良工は材を選ばず」ではなく「良工は材を選ぶ」だ、研究者の卵といえどもプロ意識をもたねばならぬ。私は直ぐさま横浜のデパートに行き、広いテーブル、豪華な肘付椅子、四段の引き出し、アーム型電気スタンドを購入し、それまで使っていた不安定な片袖学習机、金属音のする事務椅子、傘に割れ目の入った卓上電気スタンドを廃棄した。「知的職人論」には次にファイルを作れと書いてある。早速ファイルボックスを買った。次に週に一度は何か書けとある……が、これは能力を越える、無理、無理は続かぬ、年に一度にしよう、「週」の訳語の横に「年」と鉛筆で書いた……。
 博士課程に進学してから私はElliot and Merrill の書を購入した。読もうと思ったわけではないが、初めて読んだ洋書なので手元に置いておきたかった。『社会学的想像力』は「知的職人論」の頁だけ切り取っていつも鞄に入れていた。黒表紙のElliot and Merrill の書とミルズの書の切り取った頁を見るたびに当時の若気の奮闘が思い浮かぶのである。(放送大学教授)

(*横書きに改めた際に、漢数字表記の一部をアラビア数字に変更しています)