【第18回】『ハリー・ポッター』と 『ノルウェイの森』 大村敦志

放送大学叢書通信018号(2016年6月発行)より、大村敦志先生のエッセイをご紹介します。
 一九九九年十二月のある日、二度目の長期在外研究のためにパリ郊外で暮らしていた私は、家族へのクリスマス・プレゼントを買い揃えるために、パリ市内のデパートに向かった。大方の買い物を終えて最後に書店に立ち寄ったところ、一緒に買い物に出かけた十一歳の娘が、平積みになった児童書を指さして、「これ、クラスのみんなが読んでいる本だよ」と言う。それが『ハリー・ポッター』(仏語)であった。小学生たちが熱中して読む本は、フランスに来て三ヶ月余の娘には荷は重かろうが、妻のための気軽な読み物としてはよかろうと思い、この未知の本を一冊買ってみることにした。

二〇〇〇年五月、子どもたちの学年末を待たずに、私たちはフランスを引き払い、イタリア、イギリスそしてカナダを経て日本に戻った。ローマのテルミナ駅構内の書店のウインドーを見て、娘が言った。「お父さん、ここにもハリー・ポッターがあるよ」。では、お土産に一冊(伊語)。ロンドンの書店も全く同様。さらにもう一冊(英語)。そして、モントリオールの書店には、「第四巻予約受付中」という貼り紙があちこちに。その時もその後も、英語でも日本語でも、私は『ハリー・ポッター』を読んでいないが、ともかく家族一同が、世界的なベストセラーとはいかなるものかを体感した。

『ハリー・ポッター』とともに強く印象に残ったのが、『ノルウェイの森』であった。このベストセラーの英訳はすでに一九八九年に日本国内で刊行されていたが、二〇〇〇年にはジェイ・ルービンによる新訳が、イギリスとアメリカとで刊行された。私たちがロンドン市内の有名書店を訪れた際には、入口の平台いっぱいに赤と緑の本が交互に山積みにされていた。『ハリー・ポッター』を凌ぐほどのその存在感には、文字通り圧倒された。確かに、そこには世界文学となった日本文学があった。

『ノルウェイの森』も、実は英語版を読んだことはない。しかし、二〇一二年四月から六月にかけて三度目の長期在学研究の途中でパリに滞在した際に、フランス語訳(ポケット版)を読んでみた。ロンドンで見た『ノルウェイの森』は少なくとも外観は日本語版と同じであったし、タイトルもまたNorwegian Woodとされていた。ところがフランス語版は、全く様子が違う。フランスのポケット版の本の表紙は白を基調としているので、あの赤と緑が再現されていないのは仕方がない。しかし、表題がLa ballade de l’impossibleとなっているのはなぜだろう……。

本文を読んでみても、このフランス語の文章と『ノルウェイの森』が同じものなのだろうか、と思うことがしばしばであった。誤訳が目立つとか「超訳」になっているというわけではない。訳はよい訳なのだと思う。それでも何かが違う……。英訳本を目の当たりにしてから十二年後、自分自身が外国で教えることが多くなったこともあって、文化が国境を超えるとはいかなることなのか、ようやく少しわかり始めた時期のできごとであった。(東京大学教授、元放送大学客員教授)