【第22回】ヴェンチューリ『建築の多様性と対立性』 香山壽夫

放送大学叢書通信022号(2016年12月発行)より、香山壽夫先生のエッセイをご紹介します。
 建築家としての私に、また教育者・研究者としての私に、量り知れない大きな影響を与えてくれたこの本は、ペンシルバニア大学の助教授であった、ロバート・ヴェンチューリによって書かれたものである。しかし私がその大学に留学した一九六四年、この本は、そこには「まだ無かった。」当時、全く無名だった若いひとりの教師の講ずる「建築理論」の講義として私は、「読んだ」のではなく先ず「聴いた」のである。

何の予備知識なく受講した私であったが、講義が始まるや、その言葉の明晰さと、参照する事例の豊富さ、そして分析する論理の鋭さに、驚嘆した。この講義程熱心に聴き、ノートをとり、参考文献に目を通したことは、後にも先にも無い。一度の受講では勿体無く、単位を取得した翌年も、また大学を卒業して就職した翌年にも、講義にもぐり込み、計三回聴いて、そのノートに手を入れた。その時のノート、配られたプリント集は、色あせつつも今でも手元に残っている。

三年後、私がアメリカを離れて、ロンドンの建築事務所で働いている頃、この本はニュー・ヨークの近代美術館の建築叢書の一冊として出版された。小形だがハードカバーで、小さい図版を豊富に用いた美しい本である。図版は、全て大学での講義で用いられたスライドがそのまま使われていたし、文の一行一行から、ヴェンチューリの声が聞こえるような気がした。

出版されるや、その反響は大きかった。アメリカ建築史の重鎮で、エール大学教授の、ヴィンセント・スカリーは「二〇世紀後半に出版された最も重要な建築書」と絶賛したが、その評価は、今日に至って、低くなるどころか、益々高くなっていると言っていいだろう。

一言で言えば、この本は、当時すでに定説化し、通俗化もしつつあったモダニズムの理論を根柢から批判・再検討し、それ以前の長い建築の流れの中で、新たに捉え直すものであったから、この本以後の建築批評、あるいは創作論は、この本抜きで語られることはできなくなったのである。建築を学んでいくにつれ、モダニズム建築、ル・コルビュジエあるいは丹下健三、に対する憧憬を抱きつつも、心の底に懐疑の念を育てつつあった私にとって、この本は将に目を開いてくれたものであった。

しかしそれだけではない。私にとっては、そもそも建築についての議論が、あるいは更に広げて芸術についての議論が、具体例にそくしてかくも論理的に、かつ平明に行い得るものであるとは、それまでは、想像も出来ないことであった。芸術家や建築家の言葉とは、主観的で、非論理的で、それ故飛躍し分裂していることを楽しむものだと思っていたからである。そしてまた、個性的であるとは、独善的で、伝統を否定することから出発するものだと、思い込んでもいたからである。詩人T・S・エリオットの創作論をはじめとして、広く芸術家の創作の世界に分け入りつつ、具体的に、かつ哲学的に論ずる姿勢に、私は驚嘆した。

その後、私が何度か、母校の教壇に立った時、ヴェンチューリとは席を同じくする機会も多くあった。美術学部が創立百年を祝うシンポジウムを催した時、並んで記念の講演をしたこともあったし、東大に招いて、安田講堂で、特別講演をしてもらったこともあった。

しかし、そういう経験を重ねても、私の心に最も強く響くのは、学生時代に聴いたあの講義の声と、それを記録したこの本なのである。

Complexity and Contradiction in Architecture, Robert Venturi, The Museum of Modern Art, New York, 1966(伊藤公文訳、鹿島出版会、一九八二年) (東京大学名誉教授)