【第26回】着物へのレクイエム 北山晴一

放送大学叢書通信026号(2017年10月発行)より、北山晴一先生のエッセイをご紹介します。
 何気なく、気晴らしに読んだ本が本業に役立つ、そんな幸運にめぐり合うことはなかなかないが、船橋聖一『悉皆屋康吉』(新潮文庫)との出会いは、そういうまれな幸運のひとつとなった。

一九七九年だったか、八〇年だったか、まだフランスの大学で教えていたころ、ちょうど明日から復活祭のお休みが始まる素晴らしく清々しい、それでいて憂いの漂う日であった。ブーローニュの森に近い、大学の図書室の片隅で女子学生のひとりと長々とおしゃべりして、さあ帰ろうかと思ってふと書棚に目をやると、日本語の文庫本がたくさん並んでいた。三島由紀夫、大岡昇平、井上靖、もちろん漱石や鷗外も……。そんな中に舟橋聖一の本も交じっていた。

舟橋聖一のことは、同じ本所生まれの先人として名前だけは知ってはいたが、くだらない中間小説ばかり書いている胡散臭い老作家のイメージしか持っていなかった。『悉皆屋康吉』を手に取ったのは、おそらく「悉皆屋」という、その耳慣れないタイトルのせいであったろう。しかし、これが、当時ようやく焦点の定まりかけていた自分の研究(消費とモードの社会史)にとっての貴重な発見となったのである。

『悉皆屋康吉』は、悉皆屋という着物のプロの目から描いた着物文化盛衰の物語である。

悉皆屋というのは、大阪で、着物や羽織の染模様、小紋または無地の色上げ、あるいは染直しものなどを請負い、それを京都の染物屋に送って仲介の労をとり、手数料を儲けたのがはじまりだという。ついでに、しみぬき、洗い張り、ゆのし、湯通しなども引き受けるようになった。明治になってからは東京でも、染物業の仲介者をすべて悉皆屋と呼ぶようになったのだという。

主人公の康吉は、稲川という落ち目の悉皆屋の手代だったが、やがてライヴァルの梅村の大番頭伊助に認められて、番頭の地位を譲られることになる。だが、番頭としてこれから大活躍というところで、一九二三年の関東大震災に遭い、梅村の店は灰燼に帰してしまった。紆余曲折あって、結局、康吉は主人の梅村に愛想をつかして独立、鶴村という暖簾を出した。もともと康吉には才能があったが、しかも無類の努力家だったので、まもなく染織界の五本の指に数えられるまでになった。当時流行の牽引車になりはじめていた百貨店の染織部長にも抜擢された。もちろん小説作品だから、話の横糸として梅村の娘、お喜多とのロマンスなども絡められている。

この作品の中で康吉は、一九二〇年代という、日本が近代の都市風俗に染まってゆく時代の変化を体現する者として見事に描かれている。たとえば小説のはじめの部分に置かれた染めの色に関する次の記述だ。震災前の話なのだが、すでに着物の命運に対する康吉、すなわち舟橋聖一の危機意識を伝えて圧巻である。

ある日、康吉は、蔵前の旧い町屋の隠居から白地の紋縮緬一疋を至急深川納戸の無地に染めてくれ、という注文を受けた。注文は受けたものの、しかし康吉は、深川納戸という色を知らなかった。思案のしようもない康吉は、しかたなく伊助に相談すると案の定、きびしく油を絞られてしまった。伊助に色見本を出されて、「康さん、お納戸には、幾種類もあるんだよ。鴨川納戸、相生納戸、花納戸、橋立納戸、幸納戸、隅田納戸、鉄納戸、藤納戸、深山納戸、深川納戸、大内納戸—ざっと数えただけでも、この通りだ」と言われていわばテストをされてしまう。康吉には返すことばも、ぐうの音も出なかった。「当節じゃア、栗皮も茶なら、煤竹も茶だ。私達の若い時分は、そんな鷹揚なことじゃア、通らなかったんだ」、そう叱咤する伊助のことばは、旧い世代の要求の高さ、趣味のたしかさを示すと同時に、伊助の体現してきたかつての知の体系が急速に崩れつつあったことの証言でもある。

しかし、このように震災前すでに深層で進んでいた着物文化の衰退が、いっきょに外在化するのは、震災後の時代の変化の中においてであった。

つまり、震災後の「派手を競い、札束を切って、ぐるぐると金を廻すことに腐心する」消費社会の中で、着物はほかの商品同様に単なる財力のシンボルとして贅沢競争の道具となってしまい(「だれでもすぐ、錦紗の、縮緬のと、やわらかものを着たがるようになった……。」)、その結果、着物は一時的繁栄こそ享受したものの、そんなものは、繊細な美や趣味を尊ぶ着物文化の衰退の前兆でしかなかった。そう舟橋聖一は言いたかったにちがいない。 (立教大学名誉教授)