【第11回】講演会「ドイツ文化を学ぶ」

放送大学叢書通信011号(2014年1月発行)より、イベントレポートをご紹介します。
講演会「ドイツ文化を学ぶ」

五月十一日、『自己を見つめる』の著者、故渡邊二郎先生にちなむイベントが開催されました。市川市国際交流協会の主催による、市川市・ローゼンハイム市パートナーシティ締結十周年記念講演会「ドイツ文化を学ぶ」です。渡邊先生は三十五歳の時以来、四十年以上を市川市で暮らし、その遺された草稿や蔵書は市川市中央図書館に特別コレクションとして寄贈されました。

「『自己を見つめる』—円熟と諦念の境における思索」という表題でお話しになったのは、千田義光先生(國學院大学名誉教授)。渡邊先生の授業に放送大学開学以来の人数の受講希望者が殺到したのは、いかに生きるべきかという大問題に対して真摯に思索を重ねつつ、その思索そのものを積年の思考の神髄を凝縮させ、なおかつ平易な言葉で表現することを貫いたからであろうとご指摘されたうえ、次のように述べられました。

『自己を見つめる』は先生の七十歳のときの著作です。このことを先生は「諦念の歳」と表現していました。それは諦めではなく、人生をありのままに受けいれる境地に達したときという意味でした。いかに生きるべきかを考え、より良く生きたいと願う。それは程度の差こそあれ誰しもが考えることです。しかし私たちは自然的、歴史的といったさまざまな制約を受け、いわば構造づけられた存在です。疲れ、傷つき、自己として生きることの至難さを思い知らされることは常にあります。本当に主体的に自己のあり方を考えること、自分の人生を受け入れることは容易なことではありません。

言い換えるならば、私たちの人生は、時間の流れのなかで立ち現れる経験そのものなのです。そして、死という宿命的な定めを与えられています。人間は時間・空間のなかのちっぽけな存在に過ぎません。しかし、いまここという中心点を為しているのもまた、私が生きているということなのです。

カント以来、フィヒテ、ヘーゲル、ニーチェ、ハイデガーらのドイツ哲学の系譜を自家薬籠中のものとし、現代の英米哲学と対決しつつ、いかに生きるべきか自己のあり方を見つめつづけた渡邊先生の哲学的な姿勢をわかりやすくご紹介くださいました。本書に記された「私たちは、経験において初めて、自己自身と宿命的に向き合うことになる。経験の中にこそ、自己自身がある」ということばは、そのような渡邊先生の考え方を示していたのです。

つづけて髙山守先生(東京大学名誉教授)は「ある世界を求めて カント・ヘーゲルの哲学」と題して、渡邊哲学の独自性を、人間とは切り離された超越的世界と、理性によって把握できる世界とを、カント以来の西洋哲学のように二分されたものとせずに、連続したものだと考えたことにある、と解説なさいました。

カントは、ヒュームが徹底的に批判した因果関係の客観性を復興することを企てました。そして世界を構築するのは私たち=主観である、とコペルニクス的な転回を主張し、私たちの「自由」を確保したのです。このとき、客観的で「超越的」な世界と、そこから切り離された主観的な世界というふたつの世界が表れることになりました。西洋の哲学は基本的にこの見方を踏襲します。

渡邊先生はそこに独自の、異端的ともいうべき見方を提示しています。ふたつの世界は実は連続しており、カントのいう「反省的判断力」、すなわち創造的芸術的認識がテクノロジーの世界に優っているというのです。ヘーゲル哲学の核心に「無」に対する認識があるとした渡邊先生の見方は独創的なものです。そして「絶対的な無を認識すること」において、世界と自己とを真に生きうる可能性が開かれるのです。

テクノロジーと物質的な豊かさが強調され、生き生きとした生命を奪われているかに見えるいまこの世界に、再び息吹を吹き込む大切なヒントがここにあるのではないか、とご紹介いただきました。

二〇〇二年に放送教材として刊行され、二〇〇九年に叢書化された『自己を見つめる』は、放送授業の終了後も各地で自主的な読書会がつづけられ、哲学研究科にとどまらず看護専門学校など全国で教科書や参考書として読まれ続けています。この講演会は、本書のなお一層の深い読みへのきっかけのひとつとなることと思います。