【第14回】本の買い方 吉田光男

放送大学叢書通信014号(2015年4月発行)より、吉田光男先生のエッセイをご紹介します。
 学生時代、碩学と言われる先生方の教えを受けた。と言っても、私の学んだ大学の教員の定年が六十歳の頃だから、それらの先生方も五十歳代であったことは間違いない。七十年ちかい馬齢を重ねた今になってみると、五十歳代などはなたれ小僧(先生に対して失礼な言葉を使ってしまいました。申し訳ありません)のようなものだが、そのころはまさに碩学そのもので、仰ぎ見る存在であった。

何しろ、日本のみならず世界のアジア史研究を牽引してきた方たちである。前近代東アジア史の新しい枠組みを提示して学界に多大の影響を与えた某碩学は、風貌を含めたすばらしい雰囲気をお持ちの方であった。ゼミの時、博士課程に長年在学していて、助教授よりも偉そうな態度をしていた先輩院生に進行を任され、ご自分は悠々とパイプを磨きながら、時に箴言を発せられるだけである。とまあそれだけで、私としては圧倒される思いがしたものである。アジア某国を代表する大学で、その某国の歴史を現地語で教えていたという碩学、西アジアと欧州の多くの言語に通じていた碩学など、周囲は碩学だらけであった。しかも西アジアを専門とする碩学は、基礎教養だからと言って漢文なんぞはスラスラと読みこなしておられた。東西多数の言語に通じておられた碩学など、授業の際にはさまざまな言語文字を駆使されるので、ノートをとることさえ至難の業であるという、無学な学生には迷惑な存在でもあった。とにかく皆様方、古今東西に通じたうえで、斬新な研究によって学界をリードされていた。しかもこれらの先生方は謙虚で人格的にも申し分がなかった。そのころの先生方の年齢をはるかにこえる今日になっても、いっこうに碩学になれないどころか、相変わらずの無学状態にとどまっている自分を振り返り慄然とすることがある。しかし、まあ時代が変わったということで自己弁護をしておこう。

その碩学のお一人から講義の時、「君たち、歴史学を学ぼうとする時、本を買う順番はどうすれば良いのかな」というご下問があった。鶴のように痩せた長身で、見るからに碩学な方である。この碩学は学生をもご自分と同じような紳士である(べきである)という、誤解としか言いようのない信念をお持ちで、我々しょうもない学生に対しても敬語で接してくれるし、それもかたちだけではなく、心からそうして下さるのである。この私に対してだって、大学の廊下で出会うと、先に頭をお下げになられる。碩学に頭を下げられたこちらとしては、大慌てで頭を下げて答礼するのが精一杯で、申し訳なさに身が縮んでしまうほかにない。この碩学より先に頭を下げなければならないと純情な当時の私は大いに悩んでいた。ところが、この碩学は私より目がよろしくて、薄暗い廊下のはるか遠くの、顔が認識できるかどうかというところから私を見つけて頭を下げられてしまう。何とか、こちらから先に頭を下げようと、学校の廊下を歩くときには緊張しまくっていた、というほどではないが、何でこんなに気を遣わなければならないのか、と碩学にほんの少しだけ恨みをもったものである。後にこれが旧制高校時代に身につけられた人間観だとわかって、エリート養成の旧制高校的教養教育のあり方に複雑な気持ちをもったものである。

その碩学からのご下問である。これはうっかりした答えはできないぞ、きっと学問と人生に裏打ちされた深遠な哲学があるはずだ、いやあるに決まっていると、私を含めて受講生一同、と言っても十人程度であったが、みんな「うーん」と深遠そうな答えを探そうとして四苦八苦を始めた。いつまでも答えが出てこないので、碩学はいちばん軽薄そうに見える私に「吉田君はどうかね」と矛先を向けてきた。勘弁して下さいよ、という本音は隠して、いちおう「必要性の高いものから買います」とわかったようなわからないような優等生的回答でごまかそうとした。すると、すかさず「必要性とは何ですか」という追い打ちが来た。「自分の研究テーマを追求するために役に立つことです」などと思いつきを述べたところで、おもむろに碩学は、さらっと一言、「値段ですよ」とおっしゃって澄ました顔をしておられる。何じゃこりゃ、と虚を突かれていると、「高いものから買うのです」と付け加えられた。これでは蒟蒻問答である。種明かしがあって、「高価な本は、それなりの内容があるし、一度逃したらなかなか買うことができません。安価な本はいつでも買えるし、それだけの内容なのです」だとのことであった。そうかな、安い本でも良いものはあるのになと、軽い疑問は持ちつつも、碩学のお言葉である。いちおう肝に銘じておいた。

後に大学の教師になってから、学生に対して何度かこの話の受け売りをしてみた。偉そうな顔をするには格好の話題である。学生は、「こんな深遠なことを言っているこの先生はもしかしたら碩学かも知れない」と考えてくれるかなという下心が透けて見えたのか、「訳のわからんことを言うやつだ」という反応が大部分であった。本当の碩学でないからしようがない。

で、現在の私はどうかと言えば、収納力抜群というふれこみの三段スライド式書棚を備えながら、自分の部屋だけでなく、廊下から玄関にまで本を溢れさせて「一体どうするのよ」と、いたく配偶者の不興を買いまくっているが、安いものが多いからたくさん買うことができるのである。たまにやむを得ず高価な本を買わなければならない羽目になると、(財布と心に対する)痛手から回復するのに時間がかかってしまう。

有り難い教えに背いてしまいました。人格陶冶は簡単なものではないようです。碩学先生すみません。深くお詫び申し上げます。(放送大学教授)