【第17回】ヴェブレン『有閑階級の理論』と 大学院生たちの読書会 坂井素思

放送大学叢書通信017号(2016年4月発行)より、坂井素思先生のエッセイをご紹介します。
 わたしがこの岩波文庫本を購入したのは、大学生時代の昭和四十九年で、奥付を見ると十二刷ということになっている。この本の真髄は、「見せびらかしのレジャー(消費)」という人間本性を明らかにしたことに尽きる。人間がレジャー(消費)活動をする理由には、レジャー(消費)それ自体に加えて、「見せびらかし」による地位や名誉を表象するという理由が現れるとする。

最初読んだ時には、富裕になったわたしたちの「贅沢消費」のことか、と受け止め、シニカルな視点に惚れ込んだ。当時、日本はバブル経済だったので、批判的にこの考え方を摂取した。幼稚な理解だった。つぎに、文化人類学がはやってきて、ポトラッチなどの部族風習として、「使い尽くしたり破壊したりする消費」のあることを知った。すこしは人間理解が深まったのかなと錯覚した。その後、構造主義の影響下で読んだ時に、人間の交換コミュニケーションの潜在的な構造があって、この「見せびらかしの消費」が、人間ネットワークを生ぜさせるとする体系的な意味がわかった。私的欲求から、部族慣習へ、さらに社会ネットワークへと、一つの考え方の解釈について、これほど長きにわたって、頭の中を占め続けたアイディアは稀有なのだ。

ひとりのフランス国王が居て、身の周りの世話という労働が免除されていた。その代わりに家臣団が労働することで、両者の社会均衡は保たれていた。ある日、この国王は、暖炉の火焔の前に黙って座っていて、身体に重症の火傷を負って、死んでしまったのだ。それは、主君の座席を動かすことを職務とする家臣がたまたまいなかったからだ。単に椅子を動かせば良いのだが、国王は自分で身体を動かすことを禁忌されていて、それを忠実に守った。自分の身体を犠牲にしてまでも、もっと大事な社会秩序を守り、国王の権威を汚れることから救ったのである。

わたしの大学院生時代に、後に著書『ヴェブレン』を上梓する宇沢弘文先生が大学院生たちのアルバイトのために、ある政府系銀行のスポンサーを見つけてきて、ヴェブレン読書会を開いてくださった。この読書会メンバーにはふつうの成人の集まりには見られない、奇妙な共通点があった。先生を含めて、錚々たる大学院の先輩たちの誰も運転免許証を持っていない、車を運転できないという人びとの集まりだった。大学院生たちはいわば有閑階級的な労働免除を得て、車の運転を免れていたのだ。その代わりにゼミが終わる頃には、やはり運転はできないのだが、ヴェブレンに造詣が深い西部邁先生がどこからか現れて、みんなを連れて新宿の飲み屋へ繰り出し、電車が動き出すまで飲ませてくれたのだ。車に乗らないという「見せびらかし」がノミュニケーションを生み出すという、ヴェブレンの著作を地で行く読書会がほんの一時期成り立ったのだ。

これには後日譚がある。ある夜、宇沢先生が新宿で酔いつぶれ、仕方なくタクシーで西武線沿線の家に帰ったそうだ。車に乗らないという禁忌を破ってしまった。ところが、興味深いのは、宇沢先生が良心の呵責に耐えかねると告白したと人づてに聞いた。ここまで気にするのはむしろ滑稽であり、過剰反応でずれていると他の人には見られるかもしれない。しかし強調しておきたいのは、事に対して、いかに真摯に対応しようとしたのかということである。禁忌を守るということが、他の活動へ向かわせる習性を持っていて、いかに人間のコミュニケーション本能を発達させることになるのか。当時は、宇沢先生の個人倫理として、むしろ車に乗らないことの方に重点があって、このことが生じたのだと思い込んでいた。しかし、ヴェブレンを研究した人であれば、それはヴェブレン的世界の再現であったと解釈すべきだろうと、後に思ったのだった。

ヴェブレンの言葉には、いつの間にか、人間の中に住みついて、不思議なタイミングで、ひょっと現れるアイディアが隠されている。これからも、この『有閑階級の理論』は何度か読み返したい書物のひとつであることは間違いない。けれども、ヴェブレン流に逆説的に捉えるならば、「一度読んだ本は消尽してしまって、もう取り上げない」という、見せびらかしの禁忌を守ることのほうが、かえって思想上のコミュニケーションを発達させると、もしこの書物に口があるならば、きっと諭されてしまうかもしれないのだ。(放送大学教授)