第16回 山とワイン

 真っ白な雲の上にかかる虹。生まれて初めて飛行機に乗った時、窓の外に見えた風景はとても印象的だった。家族旅行で大阪万博を見に行った時のことだ。実は初の飛行機搭乗でちょっと酔っていたのだが、虹の壮麗さが勝ってとてもよい思い出になっている。
 空の上から見える絵は非日常的で面白い。ドバイ経由でヨーロッパを訪問した時には、アラビア半島の黄土色と茶色のまだら模様が延々と続いた。ずっと雲一つない。綿毛のような小さな雲のかけら一つない。そうだ、砂漠の上だから雲はないのだと合点した。
 機長からのアナウンスで「あと15分ほどすると、右手にモンブランが見えてきます」と、まるで日本の「間もなく左手に富士山が……」のような名所案内が聞こえてきたのは、フィレンツェからパリへ向けて北上している間。アルプスらしき雪を頂いた山々が姿を現し、フランス一の高さを誇るあのモンブランが眺められるのかと、はりきって窓に額を張りつけた。

 雪山、あるいは高山というと、10数年前の初夏のスイスワイン取材の苦い体験を思い浮かべる。フランスとの国境近くにあるレマン湖のほとりのワイナリーを数軒訪問した後、イタリア寄りのツェルマットへ向かい数日間スイスワインをたっぷり試飲する、という日程だった。訪問したひとつに、ヴォー州ラヴォー地区のデザレというスイスで最も評価の高い白ワインの産地があった。ラヴォー地区のブドウ畑全体が世界文化遺産に登録されているほど、景観が美しく歴史も深い。
 レマン湖に向かう急勾配の南向き斜面に、小さな段々畑が連なり、どうしてこんな場所に畑を!?と、驚かずにはいられない。それこそ猫の額、とでもいうような小さな畑が連なっていて、もちろん機械など使いようがない。ちょっとバランスを崩そうものなら、湖めがけてごろごろ転げ落ちそうな場所だ。
 夕刻にツェルマットへ到着すると、多くの観光客で賑わっている街だとすぐわかった。スキー好きや登山家の人たちなら泣いて喜ぶ場所のようだが、残念ながらどちらにもそれほど入れ込んだことがない私には縁遠い土地だった。一応、映画「私をスキーに連れてって」の世代なのだけれど。
 ただ、いかにも塵が少なそうな澄んだ空気が心地よく、街の中が整然と綺麗に保たれていて気分がよい。石畳の広場や道でもゴミひとつ見かけることがないだけでなく、焦げ茶色の大きな木材と石を組み合わせた素朴な家屋の小さなベランダには、色とりどりの花が咲き乱れて華やぎを添えている。こんな素敵な街に滞在できるなんて、何とラッキーだろう、と心が弾むのだった。

 ところが、その興奮がしぼんでいくようにツェルマット滞在初日は何だかすんなり眠りにつけなかった。眠いのに、頭の中で小さな豆電球がピカリと光っているような感覚だ。最初のうちは久しぶりの海外出張で、少々緊張気味なのかもしれないと思っていた。でも、また翌日もぐっすりとは眠れない。
 ともあれ、最終日はお楽しみのエクスカーションが待っていたので、若干の寝不足でもそれほど支障はない。スキー好きチームは、歓喜に満ちた表情で板を抱えて出て行った。その他の人にはロープウェイでクライン・マッターホルンという場所まで登り、かのマッターホルンを眺められるというコースが準備されていた。もちろん私は後者を選択、ゆるりゆるりと登って行くロープウェイに乗り込んだ。
 どのぐらいの時間をかけて登ったのかは覚えていないが、後で調べてみると、ツェルマットの街は標高1,620メートルにあり、クライン・マッターホルンは3,883メートル、そこから4,478メートルのマッターホルンを眺望する。期待は高まるばかりだが、次第に気分が悪くなっていった。頭痛がひどくなり、身体が硬直していくようなニュアンスだろうか。フラフラとするし、だんだん寡黙になるのだった。ロープウェイで途中下車するような駅はないし、よその国からのジャーナリストも一緒の団体行動なので、黙って着いて行くしかなかった。
 岩山をくり抜いてつくったという展望台へ着くと、眺望グループの他のメンバーは勇んでマッターホルン見学に行くが、私はまったく元気が出ずにトボトボと歩くのみ。初夏とはいえ回りは一面白銀の世界なので、頭痛に加えて震えもくる。と、その時、地元の女性がにっこりと温かい紙コップを私の目の前に差し出した。湯気が立ちのぼる赤い液体が入っていた。「ヴァン・ショー(ホット・ワイン)をどうぞ」という。なにか元気が湧いてくるような香りをかいで、藁をもすがる思いで噛み締めるように飲んだ。
 シナモン、クローヴ、八角などのスパイスと、砂糖やハチミツを入れて温めた赤ワイン。それまでは、混ぜ物をしたワインなんて邪道だ、と思って飲んだことなどなかった。しかし、堅固な意志も高高度と寒さには敵わなかったわけだ。ともあれ、スパイシーで甘いホット・ワインのおかげで命拾いした。
 ここまで来ておいてマッターホルンを見ないで帰るのはもったいないと、展望台へ向かった。すると、いくつもの頂の中でも一段と鋭く尖り高さもある頂上が目に飛び込んできた。いわれなくても、これだ!とわかった。太陽の光を反射して眩しく輝く白と、凍った雪の下から所々見える黒い岩肌のコントラストが美しかった。

 ところで、フィレンツェ・パリ間でのモンブラン観察なのだが、実は頭の中にはっきりとしたモンブランのイメージを持ち合わせていなかったので、一体どの尖端がモンブランなのか、疑わしい状態のままアルプスを通り過ぎてしまった。富士山やマッターホルンのような、鋭い頂を想像していたからだ。とりあえず、それらしき塊を何枚かiPhoneで撮影しておいて、帰宅後に検索して確認することにした。
 結果は、正解! いくつか撮った中にちゃんと実物に似た角度からの画像があった。ちょうどイタリアとスイスの国境にあり、どちらのテリトリーなのかと議論になるという頂は4,810メートル。マッターホルンより更に高い。高高度の地が私の身体に合わないようなので、もう一回訪れることはないだろうから、また上空から眺めるか、あるいは誕生したのは日本だというお菓子のモンブランで楽しむことにしようかと思っている。後者なら、まるで粉砂糖をたっぷり振りかけたように見える、あの雪山を思い描きながら。(by名越康子)
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「スイス デザレのワイン」:シャスラーというブドウ品種から造られる白ワインが有名で、スイスの中で、ヴォー州のデザレ地区のワインが最も評価が高く、上級品とされている。シャスラーは、通常ニュートラルで控えめな品種とされているが、この地区から生まれる白はとりわけ「ミネラリー」でキリッとした芯のある引き締まったワインに仕上がり、魚介類との相性が抜群。もちろんチーズ・フォンデュと共に飲むのもお薦め。ただし、スイスワインの輸出量は極少量のため日本で出会える機会はそれほど多くなく、ここ数年少しずつ銘柄数が増えてきたところ。
柳忠之・名越康子

柳忠之(やなぎ・ただゆき)
1965年、横浜生まれ。ワイン専門誌記者を経て、97年に独立。フリーのワインジャーナリストに。山梨から地球の裏側のチリまで、世界中のワイン産地を訪問。現地の最新ワイン事情を伝える。ワイン専門誌「ワイナート」のほか、「Madame Figaro Japon」「GOETHE」「Forbes Japan」などライフスタイル誌にも寄稿。日経ムック「Wine Style」の監修を務める。

名越康子(なごし・やすこ)
市庁舎の設計が若き丹下健三だったという、鳥取県倉吉市出身。慶應義塾大学を卒業の後、不動産会社に入社し、ビールもろくに飲めなかったにも関わらず、なぜかワインの道に迷い込む。輸入元勤務を経てワインの原稿書きを始めて、もうすぐ25年 !? 長年フリーランスを続けウエッブサイトWine Press Japanを立ち上げたが、この年になって「就職」することに。現在、Wines & Spirits専門誌「WANDS (ウォンズ)」編集記者。こちらもウエッブをオープンした(http://wandsmagazine.jp)。Facebokページはこちら→https://www.facebook.com/WANDS-1019991378019769/