第31回 ワインのセンス

 1本のワインのテイスティングに、どのぐらい時間をかけているのか。ある時、自問自答してみた。計算してみると、当たり前のことだが、長い時間を要する時もあれば、ごく短時間で終わることもある。ひと口にワインのテイスティングといっても、さまざまなシチュエーションがあるからだ。
 例えば、1日100本コースとする。丸一日かけるのではなく、朝9時前後から午後2時頃までノン・ストップ(ランチはこの後)。5時間=300分だから、1本あたり2、3分ほどになる。
 これはある意味で拷問に近い。経験したことはないのだけれどフルマラソンを走る感覚なのかもしれない。だって「大変だあ〜!」ということをわかっていながら、あえて挑むのだから。途中で感覚が鈍ってくるのが当たり前なのだが、気持ちを奮い立たせて、神経の敏感さを取り戻し、冷静沈着に分析試飲して印象を綴る、という仕事になる。
 逆のパターンは、じっくり1本ずつに真っ正面から向き合って、ワインが発する語りを聞きながら言葉を紡ぎ出していく。饒舌なワインのコメントをするのは楽チンだけど、無口なタイプは苦労する。どちらにしてもこの手のテイスティングには1本あたり15分以上かかるだろうか。これは1アイテム1回で終わることもあるけれど、経時変化をみるために、数日おいてさらに様子伺いをすることもある。
 ともあれ、目的によってテイスティングにかける時間は随分ちがう。
 つい最近、後者のご対面試飲をしたアイテムの中に、フランスのあまり知られていない産地のワインがあり、現地を訪問したことを思い出した。

 あまり知られていない産地というのは、ロワール地方のメネトゥー・サロンだ。有名なサンセールやプイィ・フュメの陰に隠れるように、そこから南西にあたる地にひっそりと佇んでいる。
 フィリップ・ジルベールさんは、メネトゥー・サロンの中ではすでに名声を得ている小さな造り手だ。日本にも少量輸入されているけれど、私はそれまで彼のワインを飲んだことがなかった。訪ねたのは、ワイナリーではなく、彼が数年前にオープンした小さなビストロだった。朝晩が0度前後まで冷え込む、12月初旬のある日、ランチをとりながら会うことになっていた。
 8畳一間ほどのホールは、レストランというよりは家のダイニングルームのような温かな雰囲気で、寒さで力の入っていた肩がほっと緩む。壁一面にしつらえられた棚には、たくさんのワインが整然と寝かされていた。分厚い木製の丸テーブルや、石づくりの小さな四角いテーブルに、色違いのランチョンマットが敷かれて、かしこまらずに楽しんでほしい、という気持ちがいたるところから感じられた。
 シンプルでセンスのよいラベルのボトルが2本置かれた小さな四角いテーブルで、フィリップさんが待っていた。赤白共に造っているのだ。挨拶をすると、早速ワインを注いでくれた。はじめに飲んだ白ワインはもちろんおいしかったのだけれど、1年経った今、明確な記憶はない。その後の赤ワインの印象が強くて、白のイメージをかき消してしまったようだ。
 特に凝ったものではなく、国際規格のテイスティング用のグラスに似た形状の、シンプルこの上ないグラスに注がれた赤ワインを、いつも通りに香りから……。
 時間はかからなかった。香りを言葉に変換する以前に、感覚が反応したのだ。鼻腔の細胞を通じて脳神経に作用するのと同時に、ハートに響く、という感じだったと思う。科学的な根拠はないけれど、ビビッとくる、というニュアンスに近い。
 香りから得た嬉しい驚きを確かめたくて、一口味わう。やっぱり! 香りだけでなく、味わいだけでもなく、どちらもが素晴らしくバランスよく、しかも微細で特別なセンスをそなえたワインだった。
 たぶん、この間で15秒もかかっていないと思う。そして目の前に座っていた彼に目を移すと、微笑みながら「おいしい?」と私に言った。
「おいしかったでしょうか?」という相手をうかがう疑問形ではない。「おいしいでしょ!」と強要するのでもない。きっと私の表情を見ていたのだ。「このワインのおいしさがわかったのね」、という共感をにじませた一言だった。
 無精髭を少しはやしていたが、黒ぶちながらオシャレなデザインの眼鏡をかけて、シンプルで趣味のよいジャケットがワインのセンスに通じていた。身体も細いが、神経もとぎすまされていて、とても感受性の豊かな人だと思った。それは、話し方や立ち居振る舞いだけではなく、彼のワインがセンシティブだったからだ。
 どこか茶道でいう「一期一会」という言葉を思い出していた。単純に「おいしい」というだけではなく、飲む人のハートに訴えかける微妙な何かを秘めたワインに出会うことがある。こういう感動的な一瞬があるから、ワインはやめられないのだろうなぁ。68_第31回_photo

 1日100本コースのテイスティングの間に、こういう感情を呼び起こさせるワインとの出会いがあるのかと考えると、ちょっと難しいように思う。今までに、ゼロではなかったけれど、少ない。こういう状況下では頭の中が最初から客観的な思考になっていて、感動できる気持ちの余白が少ないからかもしれない。
 それよりも途中からは、マラソン・ランナーや登山家が登頂の時に感じるという、ランナーズ・ハイに近い状態なのではないかと想像する。だから、同じように長時間にわたって多くの銘柄を試飲したメンバーの間で、何となく仲間意識が湧く。
 試飲がすべて終了して、「じゃあちょっと、一杯行きますか?」という時は、だいたい皆が飲みたいと思うのはワインでもコーヒーでもなく、なぜかビールだ。どこの国でおこなっても、国籍や人種が違っても、ビールが選ばれるのは世界共通で、私にはその理由はまだ謎のままだ。(by名越康子)
「メネトゥー・サロン」:フランス、ロワール地方の有名産地、サンセールから南西方向にある小さな村。白はソーヴィニヨン・ブラン、赤はピノ・ノワールから造られる。
「ドメーヌ・フィリップ・ジルベール」:フィリップ・ジルベールはジルベール家の5代目当主で、父の代から特にピノ・ノワールに力を入れている。フィリップの代になってから栽培をビオディナミに切り替え、さらに品質を追求し続けている。
柳忠之・名越康子

柳忠之(やなぎ・ただゆき)
1965年、横浜生まれ。ワイン専門誌記者を経て、97年に独立。フリーのワインジャーナリストに。山梨から地球の裏側のチリまで、世界中のワイン産地を訪問。現地の最新ワイン事情を伝える。ワイン専門誌「ワイナート」のほか、「Madame Figaro Japon」「GOETHE」「Forbes Japan」などライフスタイル誌にも寄稿。日経ムック「Wine Style」の監修を務める。

名越康子(なごし・やすこ)
市庁舎の設計が若き丹下健三だったという、鳥取県倉吉市出身。慶應義塾大学を卒業の後、不動産会社に入社し、ビールもろくに飲めなかったにも関わらず、なぜかワインの道に迷い込む。輸入元勤務を経てワインの原稿書きを始めて、もうすぐ25年 !? 長年フリーランスを続けウエッブサイトWine Press Japanを立ち上げたが、この年になって「就職」することに。現在、Wines & Spirits専門誌「WANDS (ウォンズ)」編集記者。こちらもウエッブをオープンした(http://wandsmagazine.jp)。Facebokページはこちら→https://www.facebook.com/WANDS-1019991378019769/