第33回 距離感の違い

 冬になるとマスクができるから嬉しい〜!と、思うことがある。だいたい電車に乗っている時のことだ。都内在住の人なら、きっと経験があるのではないかと思うけれど、都内を縦横に走る電車はたいて混み合っている。ラッシュアワーはその最たるものだ。そうすると、見ず知らずの他人様との距離が異常に近くなる。
 特に問題を感じない時も、もちろんある。しかし冬場は時々マスクが重宝する。人は、自分の臭いには気がつかないという。慣れてしまっているのだろう。ところが他人はそうはいかない。
 すぐ側に立つ人、隣に座る人の臭いに耐えきれず、電車を降りるフリをして別の車両に移ったことが過去に何度かある。嫌みに聞こえるかもしれないが、鼻は商売道具のひとつでもあり敏感なのだからしかたがない。同業の先輩で、「だから電車には乗らない」という女性を一人知っている。
 ただ、海外ではマスクをつけたことがない。冬のインフルエンザや春先の花粉症の時期に日本人が一斉にマスクをしている姿を見ると、海外の人は「日本は緊急事態なのか?」と驚くらしい。だから、マスクをするのは渡航中の機内までと決めている。

 このマスクに対する大きな感覚の違いがあるのは、どうしてだろう? きっと湿度と菌類の繁殖とか、そういうこととも関係があるのだろう。日本人がウイルスや細菌に神経質なのかもしれない。それに反して、欧米人はある意味無防備だ。
 国によって習慣が微妙に異なると思うのだが、ともあれ欧米では挨拶をする時にお互いの肌に触れ合う。初対面同士の場合、一般的には握手をする。でも、少し親しくなると、ハグとかビズーとかもっと緊密な挨拶も結構ふつうに見かける。軽く抱きしめ合うのがハグで、左・右とほっぺた同士をくっつけ合うのがビズーだ。慣れない日本人にとっては、気恥ずかしく感じるほど互いに接近することになる。
 国内でも海外でも、ワイン関係の取材をしていると、その相手はほぼ欧米の人々だから、取材の始まりとおしまいに最低限でも握手をする。取材に向かう電車の中で、爪が伸びすぎていないか、とか、指がささくれだっていないか、などと、何となく自分の手を確認することがあるのは、そのせいだ。
 初めてインタビューする人の場合、話が盛り上がった後などは、握手で始まっても、さよならの時にはハグやビズーになることがある。何度も会っている人との場合は、たいていどちらもハグかビズーで再会を喜びあい、別れを惜しむ。
 こうやって、握手、ハグ、ビズーをしていると、いろんな手、肩、頬があることに気がつく。体格がガッチリして手が大きいにも関わらず、意外にふっくらした肌でソフトな握手をする造り手さんがいるかと思うと、小柄なのにエネルギッシュで、毎日畑仕事に精を出していますといわんばかりに、ゴツゴツとして堅い手で、しっかりギュッと握ってくる人もいる。中には多汗症の系統のようで、いつでも手に汗握っている温かい手の人もいる。
 ビズーの場合は頬をくっつけ合うので、たまにヒゲの濃い男性の場合には、ジョリッと音がして、思わず笑いそうになる。今でも忘れられないビズーは、10数年前にイタリアのトスカーナを取材で訪れた時のことだ。カルミニャーノの造り手さんで、訪問インタビューをした後、ランチに当主が薪でビステッカ・アッラ・フィオレンティーナ(フィレンツェ風牛ステーキ)を焼いてご馳走してくれた。66_#33_ビステッカ4
 結構がっちりとした体格で、天然パーマの黒い髪、もみあげも長かった。いわゆる「熊さん」タイプで、エネルギーに溢れた人だった。美人のご夫人と、やはり美形でスタイルも抜群の娘さんも一緒に、皆でお昼をいただいた。20センチ四方以上で厚さは5センチをくだらない、立派な赤身牛肉を、広い庭で豪快に焼き上げる。外側はこんがり香ばしく、中はジューシーで、噛みごたえ200%ぐらいだろうか。日本の霜降り肉の対極にある感じ。
 あちらの人は、パスタ用のお腹、肉用のお腹、デザート用のお腹と、別腹がたくさんあるにちがいない。コンパクトなお腹しかない私は、彼らの食べっぷりには太刀打ちできず、ただ感服するだけだった。
 そろそろお暇する時間がきた。すると、ご当主が満面の笑みで両手を広げて近づいてきたので、ハグかビズーをするのだとわかった。どうやらビズーらしいなあ、と頬を準備した。たいてい、左頬、そして右頬だ。ところが、左頬にきたのは当主殿の左頬だけではなく、唇もきた。あれっ? これって、あり? と思っているうちに、もう右頬のタイミングで、こちらにも彼の右頬とキッスがきた。きわめて珍しいケースでありました。
 うっとりするようなビズーもある。別に超イケメンさんとのビズーで、目からハートマークが飛んだわけではない(あ、でもハンサムな男性ですよ)。東京で行われたあるシャンパーニュの夕食会の後、主催者として来日したメゾンの代表に、お礼の挨拶をしにいった時のことだ。普通の会話の距離ではまったく気がつかないのに、ビズーの近距離になると、ほんのりと芳しい香りがした。
 ご存知のように、ワイン関係の席では強い香水は御法度なのだが、こういうそこはかとない香りの演出というのは素敵だなあ。周りの人の鼻への気遣いに感激した。実は、同じようなことに昨年2回出くわした。別々の男性で、香りも違っていたけれど、偶然にもどちらもシャンパーニュの人だった。

 そういうわけだから?、欧米の人たちは、あらかじめ人と人との距離感がごく近いのが日常だ。おそらく、自分の臭いや香りについてのエチケットに、私たち日本人の何倍も気を配る習慣がついているのではないかと思う。日本人がマスクを愛用する理由も、このあたりの感覚の違いあるというのは、考えすぎだろうか。日本の挨拶の習慣が変われば、欧米並みにマスク姿が消えるかもしれない。(by名越康子)
「カルミニャーノ」:イタリア中部トスカーナ地方のワイン産地。フィレンツェ近郊にある丘陵地帯で、キャンティなどと同じようにサンジョヴェーゼ種を主体にして造られる赤ワインが、イタリアのワイン法のトップカテゴリーDOCGに認められている。他のトスカーナの赤に比べて地味な存在ながら、伝統あり由緒ある産地。
柳忠之・名越康子

柳忠之(やなぎ・ただゆき)
1965年、横浜生まれ。ワイン専門誌記者を経て、97年に独立。フリーのワインジャーナリストに。山梨から地球の裏側のチリまで、世界中のワイン産地を訪問。現地の最新ワイン事情を伝える。ワイン専門誌「ワイナート」のほか、「Madame Figaro Japon」「GOETHE」「Forbes Japan」などライフスタイル誌にも寄稿。日経ムック「Wine Style」の監修を務める。

名越康子(なごし・やすこ)
市庁舎の設計が若き丹下健三だったという、鳥取県倉吉市出身。慶應義塾大学を卒業の後、不動産会社に入社し、ビールもろくに飲めなかったにも関わらず、なぜかワインの道に迷い込む。輸入元勤務を経てワインの原稿書きを始めて、もうすぐ25年 !? 長年フリーランスを続けウエッブサイトWine Press Japanを立ち上げたが、この年になって「就職」することに。現在、Wines & Spirits専門誌「WANDS (ウォンズ)」編集記者。こちらもウエッブをオープンした(http://wandsmagazine.jp)。Facebokページはこちら→https://www.facebook.com/WANDS-1019991378019769/