第40回 テュトワイエとヴーヴォワイエ

 フランス語の二人称単数形にはふたとおりある。「君は」に相当するのが「Tu(テュ)」で、「あなたは」が「Vous(ヴー)」。それぞれ動詞の活用も異なるから、どんな人に対しても「You(ユー)」で済む英語とは比べものにならないほど煩わしい。
 その昔、フランス語を学ぶために彼の地へと渡り、地方都市のとある家庭のご厄介になっていた時は、その家のマダムから「私にもテュトワイエ(「テュで話す」という動詞)でいいのだけど、活用の勉強になるからヴーヴォワイエ(同じく「ヴーで話す」という動詞)になさい」と命じられ、マダムにはヴー、その家の娘やボーイフレンドたちにはテュで話していた。ふだんはテュで話す相手も複数いれば、ヴー(君たち)となり、これがまたややこしい。
 フランスへの出張時やフランス人の来日時、テュを使うかヴーを使うかで迷うことは少なくない。ビジネスではヴーさえ使っていれば間違いなさそうだが、親しくなった相手にいつまでもヴーを使うのはかえって失礼ではないか。そんな考えも頭をよぎる。しかも今年の10月に誕生日を迎えれば、私もいよいよ50歳。取材で顔を合わせる造り手たちは、自分よりも年下が圧倒的に多くなってきた。そんな若造らを相手に、ヴーで話すべきか、それともテュでよいものか、なかなか判断がつかずにいる。
 外国人から見ると日本人はとても若く見えるらしい。かれこれ四半世紀ほど前の話だが、シャンパーニュからテタンジェ社の副社長(当時)ピエール・エマニュエル・テタンジェが来日し、プレス向けの試飲セミナーを開いた。セミナーが終わって別れ際に名刺を差し出して挨拶すると、彼が訝しげな顔をして「Tu as quel age?(テュ・ア・ケラージュ?)」と聞いてきたのだ。日本語に訳せば、「君、年はいくつ?」である。当時、私は20代半ばだったが、ひと回り上の彼は、小僧が紛れ込んでるとでも思ったのだろう。たしかに当時の私は童顔だった。
 初対面の相手でも、「若造」と映ればテュで話すことをその時悟った私だが、明らかに自分より年上の、しかも社会的地位も高い人が私に向かってヴーで話しかけてくることもあるから、単純にそうとは割り切れない。
 相手の名前をどう呼ぶかも悩みの種だ。向こうでは年齢に関係なくたいていファーストネームで呼び合う。一方、日本では「さん」付けが当たり前だから、「ムッシュー○○」と呼ばないとどこかむずかゆい。ところが、先方にとっては敬称付きで呼ばれるほうがむずかゆいらしく、以前、オーストラリアワイン界の重鎮、ジェームズ・ハリデーに「ミスター・ハリデー」と声を掛けたら、「おいおい、ジェームズでいいよ」と苦笑いされてしまった。1938年生まれの御大は、2000年当時で62歳。私はその時35歳であった。年齢的にほぼ父と息子の開きがあるし、社会的地位も天と地ほどの差があるのに……。
 ただ最近は、日本をよく知る外国人が多くなり、日本人を相手に「○○サン」と呼びかける人も増えてきている。おそらく、日本人同士の会話の中で、自分を指す時に使われる「サン」という接尾辞が気になったのだろう。きっと「そのサンって何?」と尋ねたに違いない。それで日本では同僚の間でもごく一般的に使われる緩い敬称だと知り、「ミスター」や「ムッシュー」ではあまりによそよそしすぎると思う相手に対して、「○○サン」と使うようになったのだと思う。
 先日、1年ぶりにシャンパーニュ地方のクリュッグを訪ねた。このメゾンでは毎年、ワインのエキスパートを対象としたイベントを開いていて、ここ5年、連続して参加している。
 クリュッグ家6代目のオリヴィエ・クリュッグは、1966年生まれと私よりひとつ年下で、89年から2年ほど日本に滞在した、シャンパーニュきっての日本通だ。したがって、彼が私を呼ぶときは「ヤナギさん」、こちらからは「オリヴィエさん」。旧知の仲なので当然、テュで話したって良いはずだが、いやしくもシャンパーニュの名門クリュッグである。その6代目に向かってテュはないだろうと、日本人的な遠慮が働き、長い間ずっと、ヴーで話してきた。
 向こうも日本の習慣を知っているせいか、それともヴーで話すこちらの態度を慮ってか、最初のうちは「あなたもこのヴィンテージを味わうのは初めて?」などとヴーヴォワイエなのに、話に熱が入ってくると、「だからほら、君もそう思うだろ?」と、いつのまにかテュトワイエに変わっている。
 それで今年はもう、ヴーヴォワイエを使わずテュトワイエにすることに決めて、メゾンに向かった。動詞の活用はテュのほうが簡単だが、慣れないとすぐに出てこないのでどっちもどっちだ。
 このイベントでどれだけの数のクリュッグを味わったろうか。深く知れば知るほど、その偉大さに敬意を覚える。だからやはりオリヴィエにはヴーで話すべきなのかもしれないが、一度、テュトワイエにしてしまった相手にあらためてヴーヴォワイエを使うのは不自然だろう。
 それではたと気がついた。ワインの偉大さと、それを造る人への敬称や言葉遣いには関連性があるのか? たしかにロマネ・コンティのオベール・ド・ヴィレーヌ氏にテュで話しかける勇気はない。マダム・ルロワに対してだってそうだ。シャトー・ラフィットのシャルル・シュヴァリエ氏やペトリュスのクリスチャン・ムエックス氏にもヴーを使い続けるに違いない。
 テュトワイエにすべきか、ヴーヴォワイエにすべきかは、その人の手がけるワインが自分の手の届く領域か否かが、ひとつの目安かもしれない。(by柳忠之)
クリュッグ:1843年、ランスに創業したシャンパーニュ・メゾン。最上のブドウを確保し、入念な醸造とブレンドによって、至高のシャンパーニュを生み出す。
ロマネ・コンティ:ブルゴーニュ地方のヴォーヌ・ロマネ村にある、わずか1.8ヘクタールの特級畑であり、そこから造られる世界最高の赤ワイン。
柳忠之・名越康子

柳忠之(やなぎ・ただゆき)
1965年、横浜生まれ。ワイン専門誌記者を経て、97年に独立。フリーのワインジャーナリストに。山梨から地球の裏側のチリまで、世界中のワイン産地を訪問。現地の最新ワイン事情を伝える。ワイン専門誌「ワイナート」のほか、「Madame Figaro Japon」「GOETHE」「Forbes Japan」などライフスタイル誌にも寄稿。日経ムック「Wine Style」の監修を務める。

名越康子(なごし・やすこ)
市庁舎の設計が若き丹下健三だったという、鳥取県倉吉市出身。慶應義塾大学を卒業の後、不動産会社に入社し、ビールもろくに飲めなかったにも関わらず、なぜかワインの道に迷い込む。輸入元勤務を経てワインの原稿書きを始めて、もうすぐ25年 !? 長年フリーランスを続けウエッブサイトWine Press Japanを立ち上げたが、この年になって「就職」することに。現在、Wines & Spirits専門誌「WANDS (ウォンズ)」編集記者。こちらもウエッブをオープンした(http://wandsmagazine.jp)。Facebokページはこちら→https://www.facebook.com/WANDS-1019991378019769/