第44回 験を担ぐ

 関東甲信越が梅雨入り宣言をした日の翌日、雨は止んだものの空はまだ厚い雲に覆われていた。「帰りまで雨が降り出さなうちいいけどな」とひとりごちながら、15時に予定されていた打ち合わせのため、珍しくスーツに身を包み家を出た。我が家から駅までの距離は1.2キロ。歩けば汗だくは必至だし、革靴で1キロ以上の道のりを歩くのはちと辛い。だから、スーツ姿でも雨さえ降ってなければ、たいていママチャリである。
 月極めで借りている駐輪場に自転車を置き、駅に向かうその途中、頭のてっぺんに何かが落ちてきた。はっと上を見上げる。にび色の空に1本の電線が見えた。朝まで降っていた雨が電線に溜まり、それが今、自分の頭上に落ちてきたに違いない。そう思った。いや、そう思いたかったというべきだろう。一抹の不安を覚えつつ、頭の上に右手をやればぬめっとした感触が走り、手のひらを見てガクッと肩を落とした。「カラスのやつめ……」
 ポケットティッシュで拭っても、きれいに取れそうにない。そんな姿で打ち合わせに出るのも気が引ける。そこで今置いたばかりの自転車に取って返し、家に戻ることにした。汚れた頭をシャワーで洗い流してからふたたび出直そうと考えたのである。
 駅から自宅の途中には、片側1車線ながら信号機のついた幹線道路が1本ある。そこにさしかかると信号は赤だった。ポケットからスマホを取り出し、打ち合わせの相手に到着が遅れることを告げるべくメッセージを打つ。「すいません。トラブル発生!」と打ったところで信号の色が青に変わり、その一文のみ送信して自転車を漕ぎ出した。できるだけ早く家に戻りたかったから、思いっきりペダルに荷重をかけたその瞬間、ガシャッという音ともにペダルが空転。自転車は進まず、バランスを崩した私は交差点のど真ん中で、左サイドから地面に叩きつけられた。
 幹線道路の車は信号待ちで動かず、交差する細い道から飛び出す車もなかったのは不幸中の幸いであった。一方で一部始終を目撃したであろう、停止線で停まっている車両から声をかけてくれる人は誰ひとりとしていない。自転車を持ち上げ、ふたたび漕ごうとしても、ペダルは空転するばかり。よく見るとチェーンがギアから外れている。目の前の信号が赤に変わった。急ぎ自転車を手押しして交差点を渡り、状況を確認した。
 倒れた際、地面についた左手が痛かった。手のひらから血が出ていた。手首にも傷があり、そこから滲み出した血が白いシャツの袖口を赤く染めていた。左肩は脱臼気味でズキッと痛む。パンツの両膝がアスファルトに擦れて穴が空き、擦傷のあることもわかった。満身創痍……と言ったらオーバーだが、身も心もくじけた。
 ふたたびポケットからスマホを取り出すと、打ち合わせの相手から「大丈夫ですか?」とメッセージが入っていた。交差点で転倒したことと、打ち合わせのリスケを申し入れ、自転車を押しながら家までトボトボと引き返した。
 カラスの糞の直撃をくらった時にいやな予感がした。鳥の落とし物が命中する確率はかなり低いと思う。自分の人生でも初めての出来事だし、ましてやめったに着ないスーツ姿のその日に……。
 私はあまり験を担ぐほうではないが、さすがに今回は胸騒ぎを覚えた。カラスの糞は私が電車に乗るのを阻止しようとしたのではないか。それでも行こうとするから自転車のチェーンをはずして……。着替えて出直したらもっと酷いことが起こるような予感がし、その晩に予定されていたフランス大使館でのディナーもキャンセルして、その日は一日中、おとなしくしていることに決めたのである。
 虫の知らせ……はどんな場合にもあるものだ。抜栓の途中でコルクがポキッと折れた。グラスを洗っていたら、突然、パリッと割れた。シャンパーニュの栓が飛んできて、おでこに命中した。いや、これはカラスの糞と違い、吉兆かもしれない。
 しかしいざ、89年のペトリュスを開けるという日に、目の前を黒猫が横切ったり、靴紐がプチッと切れるようなことがあれば、今日は止めておこうと考えるだろう。このワインは娘が成人した時に開けようと、セラーで寝かし続けている1本。ブショネだったら目も当てられない。

 ところで翌日、験を担いでキャンセルした、シャンパーニュのルイナールとカトラリーのクリストフルとのコラボレーションディナーに出席した知り合いから、メッセージをもらった。
 「近年まれに見る驚き満載のディナーでした」
 のこのこ出かけて行って、命も落としかねない大事故に巻き込まれたり、ワインジャーナリスト生命を失うほどの大失態を演じるなど、あれこれ悲劇を想像すると、断念したのは最善の策と思う反面、「カラスの糞も外れたチェーンも偶然、偶然。行ってれば楽しい夜が過ごせたのに~」と心の中でつぶやく、もう1人の自分がいるのである。(by柳忠之)


「ペトリュス」:ボルドー右岸のポムロールにある小さなシャトー。ワインは原則としてメルロー100%から造られるが、そのわりに長命で、しばしば天文学的な値段がつく。
「ルイナール」:1729年に創業した最古のシャンパーニュ・メゾン。シャルドネ100%のブラン・ド・ブランで知られるが、ロゼのパイオニアということも近年判明した。
柳忠之・名越康子

柳忠之(やなぎ・ただゆき)
1965年、横浜生まれ。ワイン専門誌記者を経て、97年に独立。フリーのワインジャーナリストに。山梨から地球の裏側のチリまで、世界中のワイン産地を訪問。現地の最新ワイン事情を伝える。ワイン専門誌「ワイナート」のほか、「Madame Figaro Japon」「GOETHE」「Forbes Japan」などライフスタイル誌にも寄稿。日経ムック「Wine Style」の監修を務める。

名越康子(なごし・やすこ)
市庁舎の設計が若き丹下健三だったという、鳥取県倉吉市出身。慶應義塾大学を卒業の後、不動産会社に入社し、ビールもろくに飲めなかったにも関わらず、なぜかワインの道に迷い込む。輸入元勤務を経てワインの原稿書きを始めて、もうすぐ25年 !? 長年フリーランスを続けウエッブサイトWine Press Japanを立ち上げたが、この年になって「就職」することに。現在、Wines & Spirits専門誌「WANDS (ウォンズ)」編集記者。こちらもウエッブをオープンした(http://wandsmagazine.jp)。Facebokページはこちら→https://www.facebook.com/WANDS-1019991378019769/