第45回 わが虫の園と隣の芝生

「隣の芝生は青い」という言葉がある。
「他人の物はなんでもよく見えて、うらやましく思われる」という意味だ。それにしても、わが家の隣の隣のそのまた隣の家の庭の芝生は実に青くて、いつも綺麗に刈りそろえられている。本当に見事な庭なのだ。
 ときどき、お休みの日にご主人が手入れしているのを見かける。芝生に這いつくばるようにして、肘をついて愛する芝生に向かっている。真剣そのものなので、この時ばかりは挨拶も遠慮してしまう。じっくり覗いて見たことはないけれど、片手にはピンセットのようなものを握っているのではないかと想像している。これから伸びようとしている小さな草の芽も見逃すことなく、丁寧に抜き取っている様子を見るたびに、あぁ、私はここまではできないなあ〜と、いつも感心している。
 うらやましいと思う以前に、両手を挙げて降参なのだ。
 今の家に引っ越してきて、小さな庭の主になったばかりの頃なら、青い芝生に触発されて、自分もせっせと庭仕事に精を出したに違いない。ところが、ここ数年は、いわば放ったらかしの状態だ。年に数回だけエイヤッと重い腰を上げ、丸一日、いや丸二日近くの時間をかけて、なんとか近所迷惑にならないように励んでいる。だから、わが家の庭はバッタやカマキリにとって楽園なのではないだろうか。

 この怠惰の末の庭について、オーストリアのぶどう畑でちょっと考えた。それは、ニコライホフという有名な造り手さんを訪ねて、ご当主のサース夫人に案内してもらった時のことだった。
 このワイナリーでは、ぶどう栽培にビオディナミ(Biodynamics 英語の読みではバイオダイナミクス)農法を取り入れている。オーストリアの哲学者、ルドルフ・シュタイナーが提唱する天体の動きなどに基づいた「農業暦」にしたがって施肥や耕作などを行う「自然と調和した農業」とでもいうのだろうか。なかでもこのサース夫人は厳格なビオディナミ実践者として知られている。
 ウィーンから電車に乗り、クレムスの駅に降り立った。夫人自ら迎えに来てくれると聞いていたので辺りを見回すと、オーストリアの民族衣装を着た女性が目に入った。小柄でショートカットの活発なお母さん、という風情で、白いワンピースにピンクのエプロンがとてもチャーミングに映った。
 車へ乗り込む前から「さあ、まず畑に行きましょうか?」という言葉に、「もちろんです!」と答えた。ご自慢のニコライホフの畑を、是非歩いてみたいと思っていたからだ。私は車には詳しくないけれど、おそらく四輪駆動だったのだろう。細くて急な舗装もしてない山道を、勢いよく登っていった。ハンドルさばきも格好がいい。身体は小さいけれど、心持ちはタフな人ではないかと、以前東京で受けたテイスティング・セミナーの時から思っていた通りの人だった。
 見晴らしのよい急斜面の小さな畑に到着すると、土壌や栽培について語り始めた。
「化学的なものは何も使ってないのよ。ね、こうやって何種類も生えている草だって、土の栄養分になるんだから。これ、食べてもいいのよ」と、おもむろに生えている草をちぎって口に入れた。「本当に?」と、私も真似して食べてみた。自然に生えている草をそのまま口にほおり込んだのは、小学校の遠足の時以来ではなかったかと思う。「ね、ちょっと苦みがあるでしょう? サラダやつけあわせにいいのよ」と、サース夫人は平然としていた。確かにほんのりとした苦みがあって、日本でいえば刺身のツマに使われる植物のような存在だろうか。
 一通り畑の見学が終わった頃に、そういえば虫除けフェロモン・カプセルがぶどうに付いていなかったことに気がついて、尋ねてみた。するとサース夫人はこういうのだ。
「うちはね、本当に虫や動物の問題で困ったことは一度もないの」
 殺虫剤を使ったこともなければ、虫の繁殖を防ぐフェロモン・カプセルを使ったことも、動物にぶどうの根や幹や実を食べられたりしたこともない、というではないか。それは、畑とその周りの環境の中ですべてが共存しているからだった。
 草が生えているから、それを好む虫が来る。その虫を食べる虫や鳥が来る。その鳥を食べる動物が来る。すべて好循環で回っているから、特にトラブルが発生したことがないというのだ。殺虫剤や除草剤を使うと、その循環がどこかで切れてしまう。だから、余計なこと=化学的なものの投入をしなければいけなくなる。仏教でいう「輪廻転生(りんねてんしょう)」だろう。今まで他のワイナリーで何度も「共存」とか「生態系」という言葉を聞いたことがあり、理解したつもりでいた。けれど、今回のように腑に落ちたのは初めてだった。

 そういえば、わが家の小さな庭では、椿にチャドクガの毛虫がついた時は別にして、殺虫剤を使ったことがない。チャドクガ事件の原因はわかっている。狭い間隔で植えているから葉っぱが混み合っているにもかかわらず、梅雨前に剪定をしなかったからだ。ものすごく反省した。その罰として、暑い日中にマスクをして、帽子をかぶり、ウインドブレーカーに軍手をはめて、長ズボンに長靴と、完全防備をして大量のチャドクガの幼虫に立ち向かった。あ〜、二度とあんな思いはしたくない……。
 栄養分も、たま〜に油粕を置いておくぐらいで、まさに放任状態だ。けれど、土いじりをすると、りっぱなミミズにご対面するし、モグラがどこかに住んでいることも知っている。テントウムシにバッタ、カマキリは何世代目なのだろう。のら猫やカラスだけでなく、可愛いい鳥だってときどき来る。
 最低限のことを忘れなければ、案外ここの小さな世界もうまく循環しているのかもしれないと、後ろめたさを少し忘れるのによい言い訳を見つけてしまったのでした。でも、明らかに手入れ不行き届きな庭なので、サース夫人からは「うちの畑と同じにしないでくれる?!」と怒られてしまうだろう。
 とはいっても、綺麗に刈りそろえられた「青い芝生」は、目に鮮やかで素晴らしく、羨望(せんぼう)の念もなかなか消えないのであります。(by名越康子)

ドナウ川を見下ろす、ニコライホフのぶどう畑のひとつ
ドナウ川を見下ろす、ニコライホフのぶどう畑のひとつ
「ニコライホフ」:オーストリアを代表するワイナリー。ウィーンからドナウ川沿いに北西へ電車で1時間ほど向かった場所がヴァッハウ地方で、その渓谷は世界遺産にも登録されている。ヴァッハウに古くからある造り手で、19世紀末からサース家がオーナーとなった。クリスティーネ・サース夫人の代から、ビオディナミに取り組み始めた。リースリングやグリューナー・ヴェルトリーナーといった品種から造られる白ワインで有名。
柳忠之・名越康子

柳忠之(やなぎ・ただゆき)
1965年、横浜生まれ。ワイン専門誌記者を経て、97年に独立。フリーのワインジャーナリストに。山梨から地球の裏側のチリまで、世界中のワイン産地を訪問。現地の最新ワイン事情を伝える。ワイン専門誌「ワイナート」のほか、「Madame Figaro Japon」「GOETHE」「Forbes Japan」などライフスタイル誌にも寄稿。日経ムック「Wine Style」の監修を務める。

名越康子(なごし・やすこ)
市庁舎の設計が若き丹下健三だったという、鳥取県倉吉市出身。慶應義塾大学を卒業の後、不動産会社に入社し、ビールもろくに飲めなかったにも関わらず、なぜかワインの道に迷い込む。輸入元勤務を経てワインの原稿書きを始めて、もうすぐ25年 !? 長年フリーランスを続けウエッブサイトWine Press Japanを立ち上げたが、この年になって「就職」することに。現在、Wines & Spirits専門誌「WANDS (ウォンズ)」編集記者。こちらもウエッブをオープンした(http://wandsmagazine.jp)。Facebokページはこちら→https://www.facebook.com/WANDS-1019991378019769/