第46回 職業病はこわい。

 金曜の昼、ランチをとっていると左下の奥歯に違和感を覚えた。噛み合わせるとチクッと痛い。症状は次第に悪くなり、夜にはチクッがズキッに変わっていた。土曜の朝、酷くなる前に歯医者に行ったほうがよかろうと、以前、酔っぱらって前歯を折った際にかかった歯医者へ電話を入れたが、あいにくその日は予約でいっぱい。家内の「ほかのお医者さんに診てもらったら?」の言葉を素直に受け入れておけばよいものを、さきの電話で月曜朝イチに予約を入れてしまったし、別の歯医者を探すのも面倒なので、そのまま週末を乗り切るつもりでいた。ところが……。
 日曜の朝目を覚まし、鏡に写った自分の顔を見てぎょっとした。左の頬がこんもりと膨れ上がり、まるでこぶとり爺さんだ。奥歯を噛み合わせると、ズキーン、ズキーンと痛みの余韻も伸びている。昼過ぎにはもう耐えらなくなり、日曜でも応診してくれる歯医者を探すことにした。
 ネットで検索するとすぐ、我が家からチャリンコで10分の距離に歯医者が見つかった。レントゲンを撮り、年若い先生に診てもらうと痛みの原因は虫歯ではなく、歯周炎だという。歯と歯茎の境目にある歯周ポケットに隙間ができ、そこに細菌が入って炎症を引き起こす。さらに今回は上の奥歯と下の奥歯の噛み合わせの悪さが重なり、ズキーンと痛みを響かせていたのだ。
 歯茎の清掃と薬の塗布をしてもらい、抗生物質の錠剤を毎食後飲んでいれば次第に腫れは引くという。それから3日を経た現在、痛みはだいぶ和らぎ、腫れも多少引いたようだが、まだ頬っぺたは口の中でアメ玉を転がしているようで痛々しい。
 じつのところ、この仕事をしていると歯痛は一種の職業病といっても過言ではない。ワインには多くの酸が含まれていて、それが歯のエナメル質を溶かす。今でこそあまり見かけなくなったが、昔は年寄りの造り手に出会うと、みんな歯がボロボロだった。毎日ワインの試飲と言いながら、ぐびぐび飲んでいたせいかもしれない。今のようにフッ素入りの歯磨き粉もなかった時代ならなおさらだろう。
 私たちの仕事でも試飲の機会は多い。多量のワインの試飲を終え、赤ワインで染まった歯を磨こうと歯ブラシを当てた瞬間、知覚過敏で激痛が走ることはしょっちゅうある。歯の痛みを覚えた前の週には、ワイン専門誌の依頼で77本のワインを3時間で試飲し、またその4日前にも50本のワインを口に入れている。だから今回も、度重なる試飲でエナメル質が溶け、それが原因の歯痛に違いあるまいと踏んでいた。それがまさか歯周炎とは……。
 それはともかく、われわれの職業病として一番心配なのが肝臓病だ。飲酒によって体内に取り込まれたアルコールは、肝臓で一度毒性の強いアセトアルデヒドに変わり、アセトアルデヒド脱水素酵素の働きにより無害な酢酸へと代謝される。酢酸は最終的に水と二酸化炭素に分解され、体外から放出されるという仕組みだ。
 問題はこの中間物質のアセトアルデヒドで、二日酔いの原因物質であると同時に、体内に長い間取り込まれていると脂肪の分解を妨げ、肝細胞内に脂肪を溜め込んで脂肪肝をつくり、終いには肝硬変に至るという。日本酒1合(約180cc)に含まれるアルコールを、肝臓が分解するのに要する時間はおよそ4時間。6合飲んだら丸一日、肝臓はアルコールを分解するために働き続けなくてはならない。毎日3合の飲酒を続けるだけで、肝臓になにかしらのトラブルが生じるという。
 我が家ではよほどのことがない限りふたりでフルボトル1本、つまりひとりあたりせいぜいハーフ(375ml)だから、アルコールの強さを差し引けば、日本酒で2合にも満たない。寝ている間に代謝される量とはいえ、それでも毎日8時間働かされれば肝臓もそのうち悲鳴を上げるだろう。今のところ、肝臓病の兆候は見当たらないが、そろそろ休肝日を設ける潮時かもしれない。
 そのような本当の“病気”とは別に、「これって職業病かも?」と思うことがある。レストランで料理を待っている間、無意識に水の入ったグラスも回しているのは、ふだんワインの香りを嗅ぐのにグラスを回す習慣が染みついてるせいだ。ワインショップで知らない銘柄が目に付くと、裏ラベルを探して輸入元を確認してしまうのも職業病のひとつに違いない。
 MBAと聞いて真っ先に頭に浮かぶのは、経営学修士でもマックブック・エアーでもなくブドウ品種のマスカット・ベーリーA。先日、オレンジジュースを飲んでいた娘に向かい、「底に沈んでる果肉をストローでバトナージュしたら?」と言ったのには、自分でもあきれてしまった。バトナージュとは白ワインの醸造中、樽の底に溜まった澱をスティックで掻き混ぜる作業のことだ。
 あっ、そういえば歯医者でも……。「はい、口をゆすいでください」と先生に言われ、紙コップの水を口に入れた後、唇の両脇から空気を吸い込み、ワインの試飲のようにズズッ、ズズッとやってしまった。頬が腫れてるせいで自然とそうせざるを得なかったのだが、見るひとが見たら、「柳さん、こんなとこでも職業病」と思ったかもしれない。(by柳忠之)
柳忠之・名越康子

柳忠之(やなぎ・ただゆき)
1965年、横浜生まれ。ワイン専門誌記者を経て、97年に独立。フリーのワインジャーナリストに。山梨から地球の裏側のチリまで、世界中のワイン産地を訪問。現地の最新ワイン事情を伝える。ワイン専門誌「ワイナート」のほか、「Madame Figaro Japon」「GOETHE」「Forbes Japan」などライフスタイル誌にも寄稿。日経ムック「Wine Style」の監修を務める。

名越康子(なごし・やすこ)
市庁舎の設計が若き丹下健三だったという、鳥取県倉吉市出身。慶應義塾大学を卒業の後、不動産会社に入社し、ビールもろくに飲めなかったにも関わらず、なぜかワインの道に迷い込む。輸入元勤務を経てワインの原稿書きを始めて、もうすぐ25年 !? 長年フリーランスを続けウエッブサイトWine Press Japanを立ち上げたが、この年になって「就職」することに。現在、Wines & Spirits専門誌「WANDS (ウォンズ)」編集記者。こちらもウエッブをオープンした(http://wandsmagazine.jp)。Facebokページはこちら→https://www.facebook.com/WANDS-1019991378019769/