第58回 老いては子に従え?

 「ネコにネズミがかみついた。アベコベだ、ネコたたき」
 懐かしい「トムとジェリー」のアニメの主題歌で、こういうくだりがある。でも今までにネコがネズミにかみついたり、捕まえたりする現場に一度も出くわしたことがなかった。ところが、イタリアのトスカーナ地方にある赤ワインで知られるモンタルチーノに滞在している最中に、絵に描いたような情景を見ることができた。
 森に囲まれた広い敷地を開墾したサン・ポリーノ醸造所を訪問した時のことだった。手入れの行き届いた端正な庭は、どこか英国のおもむきがあった。当主のカティア夫人がイギリス出身だと聞いて合点した。私にとって英国風の庭は、憧れのひとつでもある。
 見学と試飲とインタビューを終えて「ありがとう」を言ってその家を出ると、玄関の扉を開けたとたん扉のすぐ外でネコが何か小さなもので遊んでいた。
 「よくやったわ! だからネコは飼っておくべきよね」と、マダムがうれしそうに声を上げた。
 ネコがじゃれていたのは、小さなネズミではありませんか!?
 「お〜、これが!」思わず叫んでしまった。
 まさに、ネコが本能のままに生きている姿を見たような気がした。ここでは葡萄は有機栽培で取り組んでいるし、ニワトリもイヌもネコも、皆放し飼いで自由奔放に生活していた。ごく自然な空間だから、ネコが野生のままに生きていられるのかもしれない。

 昨年から、私は東京フィルハーモニー交響楽団の定期演奏会に娘と通うようになった。その1年の最後を締めくくる公演が3月初旬にあった。指揮者は有名な佐渡裕さんということもあり、私たちはその日が来るのをまだかまだかと楽しみに待っていた。
 ところが、ちょっと都合があって予約していた日時と公演会場の変更をしてもらった。いつも通っているホールではないけれど都心まで電車で行くのだから、まあ1時間くらいみておけば充分だろうなぁ、と軽く考えていた。仕事が立て込んでいたので、電車の乗り継ぎや所要時間をあまり細かく調べないまま当日が来た。
 いざ電車に乗って、会場の最寄り駅への到着時間をスマートフォンの電車アプリで調べてみると、ターイヘン。開演15分前にようやく駅に着くことがわかった。駅から会場までの所要時間も検索した。徒歩で13分はかかる。これって、もしかすると1曲目が聞けないのかもしれないってことだろうか?
 恥ずかしながら娘に事情を伝えると、すべてを私に任せていた娘は、ちょっぴり冷ややかな視線を送ってくるではないか。でも、ことすでに遅し。何とかするほかない。会場に最も近い駅の出口から、走るのだ。
 私以上に3月公演を楽しみにしていた彼女は、真顔になっていた。今さら、母を責めても事が好転するわけではない、とわかったような顔つきをみて「あぁ、大人になったんだなぁ」と私は密かに思った。
 さあ、電車が到着した。すぐさま2人とも走り始めた。エスカレーターも、階段も、地上に出てからも。でも、途中で予想外のことが起こった。娘が私の前を走るのだ。
 私は高校まで陸上部だった。脚には自信があった。ただ、最近はほとんど運動していないから、どのぐらい走れるのかもわからなかった。でも昔取った杵柄(きねづか)で、そこそこ走れる「つもり」でいた。
 かたや娘は、生まれてこのかたインドア派で、運動は苦手なほうだ。学校の運動会というのは、私にとって存分に走り回れる楽しい行事だったのだが、彼女にとっては真逆で、見に来てもほしくないらしい。それなのに、私の前を行き、しかも途中で立ち止まって「大丈夫?」と心配そうに振り返っているではないか。
 正直なところショックだった。まるで私は町住まいの老いたネコのようだ。ただ、娘も本気になれば運動会でももうちょっと活躍できるのかもしれない、と思えば嬉しいばかり。ふたつの気持ちが錯綜して、何だかおかしくなって笑いがこみ上げてきた。
 ともあれ、上り坂を進む若者と下り坂を降りる年代の交点がすでに過ぎてしまったということだろう。もう少し日々鍛えれば、同じぐらいのスピードで走れるようになるかもしれない、という望みはゼロではないけれど。

 ところで、サン・ポリーノの家には何匹もネコが居て、ネズミを捕らえたネコから少し離れた場所にトカゲで遊ぶ子ネコも見た。身体の大きさに合わせて狙う獲物が違うのか。でも、どちらも捕まえた獲物で楽しそうに遊んでいる。食べるためなのではなくて、遊ぶため? あるいは、ご主人様に「ちゃんと仕事してるよ」とアピールするためなのだろうか。
 子供にもそういう時期がある。見て、見て〜、と、何かできたことを誉めてほしい時があるのだ。でも、いつの間にか子供が大人になり、親は年寄りになるんですね。まあ、順繰りに、ということで、ちょうどよいのかもしれません。
 汗も冷や汗もかいたけれど、娘の快走のおかげでなんとか1曲目に間に合いましたとさ。めでたしめでたし。(by名越康子)

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モンタルチーノ:イタリアのトスカーナ地方の中世の都市、シエナより少し南に位置する丘陵がモンタルチーノ。サンジョヴェーゼ種だけを使った赤ワイン、ブルネッロ・ディ・モンタルチーノの産地として知られている。ブルネッロには、厚切りの牛肉料理ビステッカ・アッラ・フィオレンティーナ(フィレンツェ風ビーフステーキ)がお薦め!
サン・ポリーノ:2001年が初ヴィンテージの若い生産者ながら、長期熟成型のブルネッロを造り高い評価を得ている。畑は2.5haと小さく、徹底した有機栽培を行っている。
柳忠之・名越康子

柳忠之(やなぎ・ただゆき)
1965年、横浜生まれ。ワイン専門誌記者を経て、97年に独立。フリーのワインジャーナリストに。山梨から地球の裏側のチリまで、世界中のワイン産地を訪問。現地の最新ワイン事情を伝える。ワイン専門誌「ワイナート」のほか、「Madame Figaro Japon」「GOETHE」「Forbes Japan」などライフスタイル誌にも寄稿。日経ムック「Wine Style」の監修を務める。

名越康子(なごし・やすこ)
市庁舎の設計が若き丹下健三だったという、鳥取県倉吉市出身。慶應義塾大学を卒業の後、不動産会社に入社し、ビールもろくに飲めなかったにも関わらず、なぜかワインの道に迷い込む。輸入元勤務を経てワインの原稿書きを始めて、もうすぐ25年 !? 長年フリーランスを続けウエッブサイトWine Press Japanを立ち上げたが、この年になって「就職」することに。現在、Wines & Spirits専門誌「WANDS (ウォンズ)」編集記者。こちらもウエッブをオープンした(http://wandsmagazine.jp)。Facebokページはこちら→https://www.facebook.com/WANDS-1019991378019769/