第1回 ルーゴーカッサ

 回文を作ってます。と言うと、たいていハテナ顔をされる。カイブン? 怪文? という感じで、なかなか漢字変換してくれない。仕方ないので、「上から下から読んでも同じというやつです」「竹やぶ焼けた、とかそういうのです」と説明することになる。説明すればたいていは了解してもらえる。生まれてこのかた回文なんて聞いたことがないという人には今まで会ったことがない。しかし回文を「作る」となるだけで理解できなくなる人はたくさんいた。「竹やぶ焼けた」や「わたし負けましたわ」をいちばん最初に考えついた人がどこかに必ずいたはずなのだが、そういうことに思いを馳せたことのある人はまるでいないのだ。多くの人にとって回文は「作る」ものではなく、最初から「ある」ものなのだろう。実際、「作る」側から見てもその認識がまるでおかしいものだともいえないのである。回文はルールの構造上、誰が作ったとしても同じものになる。だから、「創作」しているというよりは、世界の中に隠された未知の法則を「発掘」しようとしているという感覚に近い。そう考えると、回文はちょっと自然科学に近いのかもしれない。

 私には幼少期から変な癖があった。目に入る文章を、かたっぱしから逆さまに読んでしまうのだ。いや、読んでしまうというより読めてしまう、そう見えてしまうといったほうがいい。どんな文章も、左から右へ普通に読むのと同時通訳のような感じで、右から左への読み方も一緒に引っ付いて見えてしまうのだ。いつも完璧に逆読みをできていたわけではなく、漢字混じりよりひらがなが多いほうが、長文より短文のほうが、縦書きより横書きのほうが、逆読みをしやすくなる。しかし何にせよすべての文章は、「二つの読み方」をいつだって自分の鼻先に突き付けてきていた。

 昔は右から左へ読む看板などがあったので、古い写真を見てみんなが「やぎなう」ってなーに?などとげらげら騒いでいるところに、これは「うなぎや」だよなどと指摘したりしていた。感心されるどころか場の空気が冷えたけれど。日常生活でこの癖が役に立ったことなんて別になかった。むしろ邪魔だった。だって普通の人なら一つの情報で済む文章が、私にとっては二つの情報を持った文章だったのだから。普通の人よりも読むのが二倍遅かったし、そして逆読みで得られる情報は(当たり前だけど)基本的にナンセンスなので、頭が混乱する。漢字を使わずに横書きのみじかい文章を多用するようなテキスト、たとえば絵本や算数の教科書などは、とりわけ混乱のもとだった。逆に読みやすかったのは、新聞。なぜか知らないけれど、読むとなんとなく落ち着くのである。

 この「逆に読めてしまう」癖を逆手にとって回文を作ってやろうと思うようになったのは、成長して大人になってからのことである。子どもの頃にはこの癖は単なる苦痛でしかなかった。「意味のある文章」と「意味のない文章」とが常時並行して脳へと流れ込んでいたおかげで、私の頭はいつもカオスだった。それを処理するのだけで精一杯で他のことがなかなか追いつかず、「のろまな奴」というイメージがどこにいっても付いて回る幼少期だった。サッカーをしているときにサッカーゴールを見ると、頭の中にぱっと「サッカーゴール……ルーゴーカッサ」という言葉が浮かび離れなくなる。ルーゴーカッサというナンセンスな単語に囚われ、思考のすべてを支配されてしまう。これではまともにプレーができるはずがない。

 文章から読み取れる意味情報を、普通の人よりも過剰に読み取ってしまって、頭が追い付かなくなる。そういうタイプだった。そういえば、授業時間はひたすらぼーっとしている子どもだったけれど、別に何かしらの壮大な空想を繰り広げたりはしていなかったように思う。ただ目の前にある情報の氾濫を必死に鎮めることだけで、いっぱいいっぱいだったのだ。
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山田航(やまだ・わたる)。
1983年生まれ。歌人集団「かばん」所属。2009年第55回角川短歌賞、第27回現代短歌評論賞を受賞。第1 歌集『さよならバグ・チルドレン』で第27回北海道新聞短歌賞、第57回現代歌人協会賞を受賞。同年、第4回早稲田大学坪内逍遙大賞奨励賞を受賞。札幌市在住。

イラスト:タナカ由美