第4回 母国語間同時通訳

 そもそも私は、言語の獲得の仕方からしてすでにおかしかったような気がする。たいていの人間は、耳から言葉を入れて自然に母語を身につけていったのだろう。読み書きをまず頭に叩き込んでからリスニングやスピーキングを覚えてゆくのは、後天的に覚える外国語のやり方。そう認識している人が多いのではないか。私も母語である日本語に関しては、文字を覚える前からいつのまにか使えるようになっていたと、そう信じ込んでいた。しかし思い返してみると、実はそうではなく、かなりねじれたかたちで言葉を会得してきたんだと気付かされる。
 というのも私は、耳から情報を得ることが大の苦手なのだ。聞いた言葉を音声言語としてそのまま理解するのではなく、頭の中でいったん文章化して整理しないと理解できない。外国語の話ではない。母語である日本語の話だ。同じ日本語だろうが、私にとって音声言語と文章言語は別の言語なのだ。耳から情報を得ることは、音と文字のあいだで同時通訳を絶え間なく続けているような状態になる。だから延々と話を続けられると脳内処理が追いつかなくなって、パンクを起こす。顔の表情や声の調子などが補助的な情報として加わるときはまだいい。最も厄介なのは音声だけのコミュニケーションのときだ。つまり電話。電話番を命じられたときは丁重にお断りさせてもらう。相手が怒ってもかまわない。できないものはできないとはっきり言うのが一番お互いのためになるのだ。

 リズムも抑揚もなくぼそぼそ話されてもその意味を理解できない。どうせならメロディでもつけてくれたほうがよっぽど耳に入ってきやすくなる。みんな歌いながら会話するミュージカルの世界に生まれていたなら、ずっと楽だったのかもしれない。なんでブロードウェイが世界を支配してくれていなかったんだ。私は小学校入学前に、すでに九九を暗唱できていた。九九にメロディを付けて歌っている教育用テープを親が買い与えてくれていたおかげだった。やたらとポップでキャッチーなメロディだったので覚えやすく、実は今でも歌える。いんいちがーいちいんにがにー。そんなわけで、数学的な構造を理解して覚えていたわけではない。まったくの丸暗記である。その後はいたって平穏無事に、数学で赤点ギリギリをとり続ける生徒として育つことになった。あれ、やっぱりメロディがあってもダメなものはダメなのか。

 お笑い芸人のバカリズムは、文字を文字として読めずただの図形としてしか認識できないらしい。いわゆる「ゲシュタルト崩壊」が日常化しているということなのだろう。「投げたら戻ってきそうなひらがな」など、文字を立体として把握する視点を披露する持ちネタは、文字を読めないことの副産物なのだろう。それと似たようなかたちで、私は会話を会話として認識するのが難しい。聞き慣れた日本語が突如外国語のように意味不明な音声に聞こえるという体験をしたことのある方は多いかと思うが、私の場合一対一で人と話しているときにすらそれが起こる。そして「いんいちがーいちいんにがにー」と歌っていた頃などは、外から聞こえてくるすべての言葉は、音楽か呪文としてしか受け取ることができていなかったのだ。音声言語と文章言語が、切り離された世界の中に生きていたのである。
 私は整列されたひらがなやカタカナを見ると、頭の中で瞬く間に順番を組み替えたり、逆さまにしたりしてしまう。漢字を見ると、即座に字の構成を分解したくなってしまう。バカリズムが「く」や「へ」にブーメランの形状を見出してしまうのと似ているのだろう。ちなみに最近はモナ・リザの絵を見て以来、「飾り」「名も」「モナ・リザか」で回文を作れないかで頭がいっぱいになっている。レオナルド・ダ・ヴィンチに殴られても仕方がないくらい、全く絵に集中していない。言葉とは実にいろいろな要素で出来ている。「文字」「音声」「意味」などなど。私はその中の「文字」要素に、極端なまでに特化してしまった言語理解をしているようだ。
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山田航(やまだ・わたる)。
1983年生まれ。歌人集団「かばん」所属。2009年第55回角川短歌賞、第27回現代短歌評論賞を受賞。第1 歌集『さよならバグ・チルドレン』で第27回北海道新聞短歌賞、第57回現代歌人協会賞を受賞。同年、第4回早稲田大学坪内逍遙大賞奨励賞を受賞。札幌市在住。

イラスト:タナカ由美