第5回 言語の三要素

 前回、お笑い芸人・バカリズムの「文字を立体視して把握する持ちネタ」の話をした。文字を文字として読めず図形としてしか認識できない特性が、そのようなネタを作り出したのではないかと。それでは、私のように「会話を会話として認識できない人間」はどんな芸を生み出せばいいのか。
 ここまで書いてひとつ思い当たるものがあった。あのタモリの得意芸「インチキ外国語」。外国語のリズムや発声の特徴だけを鋭く抜き出し、いかにもそれっぽいデタラメな言語を披露する技。あれなどは意味の分からない言葉を意味が分からないままに、音楽のようなものとして享受しているからできるのだと思う。タモリはたぶん、「文字」「音声」「意味」の言語要素のトライアングルのうち、「音声」要素への偏向が強いタイプなのだろう。なにしろジャズ・ミュージシャン出身だ。
 ただ、外国語は大半の人がもともと理解できないものだ。「インチキ外国語」の芸があっけらかんとした明るさを持っているのは、もとより誰にとっても「意味」の要素を欠落させて受け取るしかない外国語という素材をモチーフとしているからだ。それに芸としての強度を与えているのは、他ならぬタモリ自身の音感の良さによるものだ。「他の人にはできることが、自分にはできない」という苦悩が、「インチキ外国語」にはない。苦悩による陰影がより強くみられるのは、バカリズムの芸の方である。タモリの「インチキ外国語」は、誰しもがその音感の良さと技術性への賞賛を込めた笑いを贈ることができる。バカリズムの「文字の立体視」の芸に対しては、「こいつなんでこんなくだらないこと考えられるんだよ」という、「文字を文字として認識できる側」からの異端視の目が混入した笑いが贈られる。前者は「持たざる者の、持つ者への賞賛」であり、後者は「持つ者の、持たざる者への賞賛」である。同じ賞賛にしても、後者には屈折がまとわりつくだろうことは想像に難くない。「局」という漢字のかたちを見て「百円玉が取りにくそう」なんて思考に至るのは、バカリズム本人にとってはくだらないどころか、むしろ人生の重要事に直結しているのだと思う。

 私もまた、「文字」「音声」「意味」の言語の三要素をバランスをとりながら受容できないタイプだ。前回も書いた通り、「文字」要素に強く偏向している。その次に来るのがどうやら「音声」らしい。「意味」はかなり低い位置を占めている。
 これは読むときにも聞くときにも起こることだが、母音と子音とを分離して受け取ってしまうという癖もある。「ことば」という語を目に(または耳に)したら、それと同じ「OOA」という母音を持った語、たとえば「お蕎麦」とか「祠(ほこら)」とか「桃屋」とかいった語までセットになって頭に浮かんでしまうことがある。これは年齢を重ねてボキャブラリーの量が増すほどに顕著になってきた現象である。「逆読み」の癖をやり過ごしてもまた、「子音組み換え」の癖が頭をもたげてくるのだから、気分はフロアごとにいちいちボスを倒さなくてはならないテレビゲームの冒険者だ。行く手を阻むナンセンスの壁を幾つも乗り越えて、やっと「意味」の要素に到達することができるのだから、疲れることこのうえない。

 そういえば以前、「ボイスパーカッションに聞こえる文」というのを作っていたことがある。機会があれば実演してみようかと検討してみたこともあるが、凄まじく場の空気を冷やしそうなのでお蔵入りとなった。とりあえず、周囲に人がいないことをしっかりと確認してから、実際に声に出して読んでいただけると幸いである。

ちくちくしちゃ嫌。
ちくちくしちゃ嫌。
筑紫哲也はちくちくしちゃ嫌。

烏龍茶食いもんじゃねーじゃん。
烏龍茶飲みもんで食いもんじゃねーじゃん。
烏龍茶9本で10ウォンじゃねーじゃん。
烏龍茶クーポンで10ウォンじゃねーじゃん。

 こんな感じのものを夢中で作っていた。あのときは何かの気まぐれで「音声」要素への偏向が異様に高まっていたのだろう(最近は作ろうと思っても作れない)。たまにそういうことがあるのだ。そして「意味」要素はもはや、掃いて捨てられるレベルにまで雑に扱われている。日常生活は「意味」にあふれ過ぎていて疲れるので、こうでもしないと精神のバランスがとれないのだ。
94_05_1
94_05_2
94_05_3
山田航(やまだ・わたる)。
1983年生まれ。歌人集団「かばん」所属。2009年第55回角川短歌賞、第27回現代短歌評論賞を受賞。第1 歌集『さよならバグ・チルドレン』で第27回北海道新聞短歌賞、第57回現代歌人協会賞を受賞。同年、第4回早稲田大学坪内逍遙大賞奨励賞を受賞。札幌市在住。

イラスト:タナカ由美