第8回 おかわりのない世界

 「読む」ことは私にとって呪縛だ。強迫観念のように、目の前に突きつけられた情報から言外の意味を読み取ろうとしてしまう。子どもの頃の私は、食事の後に「おかわり」をすることがほとんどなかった。というよりも、「おかわり」という概念が自分の中になかった。ご飯がよそわれた一杯のお茶碗を渡されたら、それが自分に与えられたもののすべてであると解釈していた。少し足りないなと思っても一杯を食べ終わったらそこで我慢していた。自分なりに言外の意味を読み取り、社会のルールを判断してみた結果がそれだったのだ。「おかわりをしてもいい」と許しが出たときは例外だったが、それはあくまで特例と解釈していた。もしも「自分からおかわりを求めてもいい」ということを誰かが教えてくれていたら、もっと栄養がとれて今よりもうちょっと背が伸びていたかななどと思わなくもない。

 文学作品を過剰に読み取りすぎてしまっても別に生活に支障はないが、社会のルールや人間関係を過剰に読み取りすぎてしまうことは生活のしづらさに直結する。「おかわり」の概念を持てなかったことのように、「誤読」をしてしまっても誰も指摘してはくれない。社会のルールの「読み方」は、オープンソース化はされていないのだ。決して「おかわり」をしない子どもに対して親は、「少食な子ね」くらいの感想を持つことしかできない。自分の子どもが「おかわりの存在しない世界」に生きているだなんて、想像だにできないだろう。だから私は、誰にも何も言われずそのまま生きてきてしまった。

 「自分からおかわりを求めてもいい」ということを知ったのはたぶん中学生のときだっただろうか。ショックだった。おかわりをして来なかったことではなく、自分が今まで判断してきた社会のルールがことごとく「誤読」である可能性が浮上してきたからだ。実はあれも思い込みなのか。これも勘違いなのか。私は自分が判断することに何一つ自信を持てなくなり、いつも黙りこむ生徒になってしまった。学校という空間は、生徒が自分で判断をすることを基本的に善だと解釈する。実際そうではあるのだろう。しかし、渡されたお茶碗を見て「おまえに与えられた取り分はこれだけだ」と解釈してしまうくらいに判断のレベルが低い場合(いいかえれば、単純に常識がない場合)、そもそも自分はここにいては駄目なんだと打ちのめされてしまう。まだここにいるだけの判断力がない、その資格がないと思ってしまう。

 「お前は果たして、生きていていい人間なのか」。「読む」ことはいつだって、私にそういうテストを仕掛け続けてきた。正しく読めなければ待っているのは、社会的な死だ。ずっと「おかわり」を知らないまま栄養不足の成長期を過ごすなんて、まさに死以外の何ものでもない。非言語のコミュニケーションを解読するゲームに、私はひたすら負け続けてきた。それに比べれば明文化された言語を解読することなんてまだずっと難易度が低い。「誤読」をしてもコンティニューができる。

 私は今でも「読まなければいけない」と思うシチュエーションが訪れると、背筋に緊張が走る。特に、解読のヒントとしてテキストが与えられていないときのそれは、もはや恐怖だ。本当は、肩の力を抜いておもちゃのように「読む」ことと接したい。何の意味もなく、何の価値も生まない、そんな気楽なゲームとして言葉と触れ合いたい。「誤読」すれば社会的生命を奪われるような、殺伐としたコミュニケーション言語の世界はもうまっぴらなのだ。だから私は、誰も不幸にしないけれど幸福にもしない言葉遊びにばかり熱中するようになった。回文もその一つだ。「おかわりのない世界」に迷い込む恐怖から、少しでも遠ざかるために。
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山田航(やまだ・わたる)。
1983年生まれ。歌人集団「かばん」所属。2009年第55回角川短歌賞、第27回現代短歌評論賞を受賞。第1 歌集『さよならバグ・チルドレン』で第27回北海道新聞短歌賞、第57回現代歌人協会賞を受賞。同年、第4回早稲田大学坪内逍遙大賞奨励賞を受賞。札幌市在住。

イラスト:タナカ由美