第10回 アナグラム短歌へのいざない

 最近は回文がスランプである。そのかわり、もっぱらアナグラム短歌に夢中になっている。既存の短歌をバラバラに組み換えて、全く違う一首を作り出すのである。

柔肌の熱き血潮に触れもみで寂しからずや道を説く君
与謝野晶子
→友達はビキニ見られず悔しさの極みで星や血を掴みあふ


幾山河越えさり行かば寂しさの終(は)てなむ国ぞ今日も旅ゆく
若山牧水
→今朝クビにした馬鹿者は今や家族指振りて支えゆく花婿


君かへす朝の舗石さくさくと雪よ林檎の香のごとくふれ
北原白秋
→呑みへ行く仕事不倫と誤解され浅草の寿司企画の危機よ

 こんな感じである。近代の短歌を選んでいるのは、できるだけ有名な歌の方がインパクトが強いだろうという判断と、歌の原作者に怒られるのをできるだけ避けるためである。
 もともとが定型詩なので、組み換えても全く同じ五七五七七の定型になる。その性質のおかげで、短歌のアナグラム化は決して難しいわけではない。私自身が実作者なので短歌のリズムが体に馴染んでおり、破調にもあわてることなく対応できるのも強みなのだろう。
 しかしそれでも、このアナグラム短歌を一首作り上げるのにはものすごく体力が要る。完成のためにはとにかくボキャブラリーの量が物を言うので、辞書を引き引き考えながら、常に脳をフル回転させる。一首作り上げるのに三、四時間はかかるのはザラなうえに、その間は完全に頭がアナグラムモードから切り替えられない状態になっており、他のことがまるで手につかない。完成すると爽快感とともにかなりの疲れが体に覆いかぶさってくるので、これはもはやスポーツなのではないかと思えてくるほどだ。回文を作るのでも、こんなに疲れたことはなかった。

 いずれも歴史的な名歌なので、音単位でバラバラに刻んでみることで歌人として勉強になることもある。歌の意味内容ばかりではなく、音の響きもとても高いレベルで計算されていることが肌で理解できるからだ。たとえば上の北原白秋の歌などは、鮮烈なサ行の音と、硬質なカ行の音の響きをうまく重ねて、素晴らしく音楽的な歌として成立していることがよくわかる。そのおかげでアナグラムは難航し、サ行とカ行の音が後半に固まってまるで早口言葉のようになってしまったわけだが。この白秋の歌は彼が姦通罪で告訴された事件が背景になっているのだが、歌の中に「不倫」という言葉がひそかに隠れていることに気付き、これは使わないわけにはいかないと考えてそこを軸にアナグラムを練り上げていった。まあ白秋の時代に「不倫」という言葉はなかったのでただの偶然なのだけれど、音単位で分解したときに面白い言葉が見つかってしまったら、ついついそれを動かせなくなってしまう。だって面白いんだもの。たった三十一音の文章を並べ替えてみて「荒木経惟」とか「近藤のあだ名がマッチ」なんて言葉を発掘しちゃったら、使うのが人情ってもんでしょう。

 もっとも、このように一つの面白ワードに固執してしまった結果アナグラムに失敗したことも一度や二度ではない。音を並べ替えて言葉をいくつ掘り出せるかではなく、一文の枠の中でより意味が通るように並べ替えるのがアナグラムなのだから、他の言葉を成立させるために泣く泣く面白い言葉をボツにすることがしばしばある。一つの言葉にこだわり過ぎて他の部分を意味不明にしてしまっては駄目なのだ。大事なのは一首を通して意味が成立するようにバランスをとる、マネジメントの力だ。
 アナグラムを作るうえで重要なのは、自分で見つけた発見や思い付いたアイデアに固執し過ぎないこと。「捨てる勇気」を持つことだ。一般社会で仕事をするときはそんなの言うまでもない当たり前のことなのだろうが、ろくな社会性をもたない私などはもっぱらアナグラムというゲームでそれを学んだ。考えてみればUNOや麻雀だって「捨てる勇気」が全てだ。そして「捨てる勇気」を試されるのは、そのゲームのルールが根本的に定型の中にあるからだ。社会とは、本来的に「定型」なのではないか。定型を否定した「自由」の方が、よっぽど不自然なのではないか。常々そう思うのである。89_10_1
89_10_2
89_10_3
山田航(やまだ・わたる)。
1983年生まれ。歌人集団「かばん」所属。2009年第55回角川短歌賞、第27回現代短歌評論賞を受賞。第1 歌集『さよならバグ・チルドレン』で第27回北海道新聞短歌賞、第57回現代歌人協会賞を受賞。同年、第4回早稲田大学坪内逍遙大賞奨励賞を受賞。札幌市在住。

イラスト:タナカ由美