第11回 「うわぎに」と「うわにぎ」

 「下から読んで下さい。」という名前の回文のフリーペーパーを不定期で発行している。「おりんごりんご」さんという札幌で漫画のフリーペーパーを描いている人と一緒に、バーのカウンターで30分くらいで書き上げる。書く回文はiPhoneで自分のウェブサイトの回文コーナーを見てフィーリングで決めているし、おりんごさんはカニ缶の出てくる回文にサバ缶の絵を添えるし、とにかく適当さを突き詰めたフリーペーパーである。なおイラストのギャラはビール1杯分のおごり。
 最初はちゃんとページをめくることのできる折り本形式にするつもりであったが、空間認識能力がきわめて弱い私は何回作り方を読んでも理解できなかったので、適当さが味なのだと言い訳してA4のただのコピー用紙を8つ折りにしている。おりんごさんのフリーペーパーも同じ形式なので、「中身が面白けりゃいいんだ中身が」というノリである。
 そうして回文ペーパーを名刺代わりに配るようにしてからは初対面の人相手でも少なくとも5分は会話がもつようになってとても便利である。すぐに飽きられてしまうのか、二回目以降の人には通用しないのだが。

 そんな風にして、実際に回文を書いてある紙を渡して「下から読んで下さい」とお願いするようになってから、いろいろと見えてくるものがあった。回文ペーパーでは、基本的に回文のひらがな表記は併記していない。漢字かな交じりの文だけで表記している。すると、一度頭の中で全部ひらがなに変換してから逆さまに読むということがなかなかできない人がいることを思い知らされる。私は回文にひらがなを併記するのはむしろ邪魔だとすら思っていたので、にわかに信じがたかった。
 たとえば回文ペーパーには、こんな回文を載せたことがある。

上着に鉢巻きでハチミツが食いたい九月。道はでき、町は賑わう。

人格否定あると悟る相手引く感じ

 「賑わう」という言葉を逆に読もうとしたとき、「うわぎに」ではなく「うわにぎ」と読んでしまう人がいる。「人格否定」という言葉を逆に読もうとすると、もはや言葉を解釈しようとする意欲を失ってしまうくらいに思考停止に陥る。たぶん本人に言わせれば、「賑」は「にぎ」という一字であってわざわざひらがな一音ごとに分解したりする必要はないだろ?「人格否定」は一つの熟語なのだからもうその時点ですでに完結しているだろ?という意識なのだと思う。
 漢字を即座にひらがなへとひらくことができない人たちは、別に教養レベルや文字のリテラシーが低いわけではない。むしろ高い人たちだといっていい。なぜなら、そもそも漢字かな交じり文を読むうえで「漢字をひらがなに変換する」という行為をいちいちする必要がないことが、日本語文章と日々接し続けている鍛えられた日本語ネイティブである証なのだ。いちいちふりがなを必要とするのは、漢字を読めない子供だけである。

 私はあらゆる漢字かな交じり文をすべて、見たそばからひらがなに変換してゆくことができる。漢字にルビを振らせる仕事を任されたら、自動かな振りマシーンと化してものすごいスピードで業務をこなすことだろう。しかしそんなことができるのも、漢字にすべて振り仮名が振られている漫画ばかり読んでいた子供の日本語感覚から、まるで抜け切れいないからだ。まともな大人は、漢字をいちいちひらがなにするための脳の容量を何か他のことに使うのだろう。もっとたくさん漢字を覚えるとか。
 どうも私は、今もまだ日本語という言語に慣れていないような気がしてならない。ネイティブなのに。文字の表記が複数あるということへの驚きと興味に、いつまでもとらわれ続けている。普通は自明のこととして通り過ぎるべきところで、立ち止まって足元を観察し続けている。そんな感覚がある。自分の中で、日本語という言語をいまだに社会化できていないのである。
 「賑わう」を逆に読もうとして「うわにぎ」と言ってしまう人は、「私は頭が悪くて」と言ったりする。しかし全くそんなことはない。社会化した日本語を獲得できている証拠なのだ。そんなふうに言われてしまうと、回文なんて作って言葉を社会化させることから逃げ回っている私の方が悲しくなるのである。88_11_188_11_288_11_3
山田航(やまだ・わたる)。
1983年生まれ。歌人集団「かばん」所属。2009年第55回角川短歌賞、第27回現代短歌評論賞を受賞。第1 歌集『さよならバグ・チルドレン』で第27回北海道新聞短歌賞、第57回現代歌人協会賞を受賞。同年、第4回早稲田大学坪内逍遙大賞奨励賞を受賞。札幌市在住。

イラスト:タナカ由美