第13回 「回文なかとり」の青春

 私は回文を作るようになっても長い間、他人の作った回文を読むということはほとんどなかった。そもそも自分以外に回文を作っている人がいるということも意識していなかった。創作回文で著名なコピーライターの土屋耕一のことも、回文の絵本を出している絵本作家のながたみかこのことも、小説家の中村航が「小説すばる」で連載していた回文の投稿コーナー『終わりは始まり』のことも、村上春樹が書いた回文集『またたび浴びたタマ』のことも、すべてほんの数年前まで知らなかった。私が回文を始めた2004年頃当時のインターネットにだって、回文を集めたホームページなどはすでに生まれていたが、やはり見ていなかった。回文の掲載されたメディアで唯一見ていたのは、某巨大匿名掲示板の「しりとり板」の中にあった「回文なかとり」というスレッドだけだった。
 「しりとり板」は無数の人がよってたかって、「人名しりとり」だの「微妙に間違った言葉でしりとり」だの、色んな種類のしりとりだけをひたすらし続けているというものすごい掲示板である。某巨大匿名掲示板といえばすぐに連想される荒らしや差別発言、誹謗中傷といったものは一切なく、みんな淡々としりとりだけをし続け、しりとりだけを唯一のコミュニケーションとしている空間だった。全てを捨てて暇つぶしに全力を注いでいるような雰囲気が、誹謗中傷の荒れ狂う掲示板とはまた別種の、謎の緊張感を生んでいた。

 「回文なかとり」は、回文の中心部の一文字をとってしりとりをし、次々と回文を重ねてゆくというルールだった。「中」を「取る」からなかとりなのだ。回文が対称構造を持っているためつねに中心があることに着目した形式である。ただ単語を並べていけばいいだけの普通のしりとりよりも難易度が高いからか、しりとり板の中でもさらに隔離された離れ小島のような雰囲気があった。なにしろコテハン(完全な匿名ではなく、固定のハンドルネームを名乗っている投稿者のこと)二人だけで、延々と回し続けていたのである。そこにたまーに名無しの人がぽつんと一つ投稿していったりするが、基本的にほとんど二人だけの世界である。某巨大匿名掲示板の中にこんなスレッドは、他にないのではないか。ちなみに久しぶりにそのスレッドを覗いてみたところ、その二人はあの頃と変わらず今も「回文なかとり」のラリーを繰り返し続けていた。すごい。もう10年以上(ひょっとしたらもっと前から)も、ずっと、二人だけで……。彼らの人生を思う。卒業とか就職とか結婚とか、そういった人生の節目を一切報告せずに、ひたすら回文だけを交わし合ってきた二人。あらゆる喜びも苦悩も全く伝えずに、回文の中心の一文字だけを介してつながり続けて、もう10年以上を過ごしてきた二人。
 私にとって回文の憧れのヒーローがいただろうかと考えたら、強いてあげればこの二人ということになるかもしれない。ここまで回文に対して真剣で真摯な人は、実は他にいないのではないか。世の中の誰の目にも触れられるわけではなく、何らかの実利や称賛を得られるわけでもなく、基本的には一人だけを相手にずっと回文を作り続けてきた二人。この二人には、自分の回文をたくさんの人に届けよう、たくさんの人を面白がらせようというアーティスティックな精神はまるでない。ただコミュニケーションのためだけに回文を作っている。でも、言葉遊びはむしろそういうアマチュアリズムに満ちたものであったほうが、絶対にいいはずなのだ。不特定多数のためにあるのではない、特定少数のためだけの何の意味もない言葉。

 そして私が初めて作った回文を見てもらったのも、思い返せばこの二人だった。恐る恐る携帯電話(当時はスマートフォンなんてものはなかった)をカチャカチャといじり、パケット料を気にしながら(当時はパケ死という言葉があった)手早く「遠く響く音(とおくひびくおと)」という回文を打ち込んだ。このスレッドでは難易度を低めるためか、清音と濁音の区別はつけないルールにしていたのだった。そして名無しで投稿されたこのシンプルな回文を、二人のコテハンはあっさりと流して次の回文へとつなげていった。純粋に言葉にしか興味を示していないこの空気感。私という人間に対しては何の関心も持っていないこの空気感。居心地がいい。楽しい、と思えた。
 しかし、私がそのままそのスレッドに居座って常連となることはなかった。やっぱり清音と濁音の区別をちゃんとつけた、完全回文のルールでやりたいと感じたからだった。結局「回文なかとり」のスレッドには、名無しのお邪魔虫として数回現れただけに終わった。でも、「言葉だけの空間」があんなに楽しい場所だなんて気付けたのは、あのスレッドのおかげだったのかもしれない。それから数ヶ月ほど経った頃のこと。私は短歌と出会うのである。
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山田航(やまだ・わたる)。
1983年生まれ。歌人集団「かばん」所属。2009年第55回角川短歌賞、第27回現代短歌評論賞を受賞。第1歌集『さよならバグ・チルドレン』で第27回北海道新聞短歌賞、第57回現代歌人協会賞を受賞。同年、第4回早稲田大学坪内逍遙大賞奨励賞を受賞。札幌市在住。

イラスト:タナカ由美