#1 BOOKS REDUXにて

99_#01s 6月になってようやくアメリカでは学期が終わり、あちこちで咲き乱れる薄紫色のジャカランダの訪れとともに私の時間が手元に戻って来た頃、大学近くのヨルバリンダにある古本屋を覗くことにしている。ドアを開けると鈴がチリンチリンなるような古風な店で、古本は入り口近くのテーブルにディスプレイというより雑多に積み置かれ、本棚を所狭しと陣取っている。アメリカでは大学街でなければこうした古本屋が過去のものとなりつつある時代、貴重な空間だと思っている。
 けたたましいインコが注意をひこうとなきわめくのをものともせず、お話し好きの店主のおばさんは「客の本離れ、というより問題はリテイルスペースの値段があがったことね」とため息つきの説明をくれた。そして、「大学ったって所詮は企業ですからね、あんたも気をつけなさいよ」と私の職場についてご忠告もいただいた。とりとめもない話、と言ったらそれまでだけれど、何代もオレンジカウンティを地元にしてきた人々と触れる時、それだけで、私は人間性と言われる何かを取り戻せる気がしている。
 古本屋のおばさんは瞳こそキラキラしていたけれども、失礼ながら全体的に健康状態自体が良くなさそうであることが気になった。健康上トラブルがあったと言っていた。一般の国民の食生活の悪さも30年遅れのインフラ整備と並んで新世紀アメリカの現実だ。まず食品規制が恐ろしく緩いから、肉類とオーガニックでない野菜は気をつけないと恐ろしい量の抗生物質と農薬を摂取することになる。その上ワシントンDCでのロビー活動に強い産業が公的資金をもらうので、市民の健康より大企業の利潤追求で形づくられる市場が、大手メディア産業と手を組んで消費者をリードしている。結果提供される商品はミネラルや酵素、プロビオティック等が著しく欠如している場合が多く、ある種の栄養失調になりやすい。消費者の身の安全というものを政府が守るという当たり前の精神がアメリカの政治からなくなって久しい。もしかするとそんなものはもとからなかったのかもしれない、とすら思う時もある。
 こういった話は海の向こうのことだと思うかもしれないけれども、今、「自由貿易協定」という名目でグローバリゼーションに新しいシフトが起ころうとしている。リークされたTPP交渉文書からわかることは、ワーストケースシナリオ的に考えて近い未来その協定が妥結された時、諸産業の思惑とその裏にあるウォールストリートの夢想で形作られている現在のアメリカの一般住人が既に抱えている問題はすべて日本の未来に降りかかる問題になるということだ。たとえば救急車を呼ぶと約8万円が相場、などという現実になるまで日本ではまだ猶予があるかもしれないけれど、アメリカに住むなら、知識は自分で探さないといけない。私が今回古本屋にはいったのは一応の名目として栄養学を自分なりに勉強しようと思ったからで、今年NYで亡くなった久司道夫先生のマクロビオティックの本を探していたのだった。
 もちろん古本屋の楽しさは、自由きままに歩き回ることにある。目についた本にマーク・トウェインのサンドイッチ諸島記があった。この間東京から管啓次郎さんがいらした際にご自身の『ハワイ、蘭嶼』という本を下さって、その一冊から教わったハワイの持つ不思議な生命力の強さが頭から離れないのだった。その感覚は、19世紀半ばに三十歳過ぎの頃、記者としてハワイに渡ったトウェインの戯言と訓戒の混ざったルポ(結局買った)からも伝わってきた。でも、女神ペレの伝説やポイの説明など、トウェインの文章からだと惜しくも「他者」の世界のものにとどまるところ、『ハワイ、蘭嶼』では現地の人の視点との距離感がぐっと縮まる。管啓次郎さんのくせのない文章で書かれたハワイを一緒に「歩き回る」のが非常に気持ちのいいものだと思ったのはそこからくるのだろう。風とおしのような文章が最近必要だと思う。毎日が忙しい。呼吸がここに届いていない、と思うことはないだろうか。心のこの場所に、酸素を届けないといけない、と。
孫崎玲 20/21世紀英語米文学。チャップマン大学准教授。カリフォルニア州、オレンジカウンティ在住