#2 Root-ology

 アメリカの大学は8月の末に始まる。そろそろ学期モードに切り替えないといけない、と思ったその日は、南カリフォルニアではめずらしいヒートウエーブの真っ最中だった。我が家に住む三毛猫は、日陰でびよーんとのびていた。来年出版予定である本の原稿の修正を、その次の日から3日間、計26時間で仕上げた。こまかくて骨の折れる作業で、えらく体力を消耗した気がした。それから、シラバス作成を始めた。表の並木道では百日紅が、裏庭ではブーゲンヴィリアが、白く、或いは紅く、鮮やかに咲き誇っていた。
 「仕事の時期」がやってきた。今年はどう乗り切ろうか。根付く、ということについて考えている。百日紅にしてもブーゲンヴィリアにしても、木は地に深く水と養分を求めて根を地におろしていく。地上では葉の先や花が光を求めて、伸びていく。根は、違うところへ向かう。深く深く、闇の先へ、重力と友達になったりして、伸びていく。障害となるものには絡みつくことなく阻まれることなくまわりこんでいく。ゆっくり時間をかけて、しっかりとした基盤を作った木は、ハリケーンでも直撃しない限り、簡単に倒れたりしない。そういうイメージでいくのはどうだろう。
 父の仕事の都合上、私は子供時代をいろいろと海外で過ごした。国境ごと、言語ごと、それこそ根こそぎ環境が変わっていくことに慣れて育った。大事な仕事がまずある。住む場所はその仕事で決まる。そういう図式が一番納得できるように思ったので、自分でも文学研究を追ってアメリカ国内を大学院、就職、執筆活動で土地を移転してきたのはある意味自然な流れだった。いつの間にか、根付くことを必要としない、エアプラントかタンブルウィードのような存在になったことを、強くなったことのように思っていた。
 親は私が4歳の頃からバイオリンを持たせてくれた。個人レッスンの先生も探してくれた。どこに行くにも移動時はバイオリンを抱えて飛行機に乗ることになっていた。帰国したあとも先生について練習をさせてくれていたので、高校3年生になる頃には、曲でいうならラロのSymphonie Espagnoleの技巧も表現力もクリアできるぐらいになっていた。けれども、私は高校卒業を機にバイオリンをしまいこんでしまった。ただただすべてから自由になりたくて、大切なものをたくさん手放した時期だった。
 数ヶ月前、楽器を手に取った。院生時代にアメリカに持って帰って来てはいたのだった。親のくれた弓はとっくに大掛かりな修理が必要になっていたので、とりあえず安い弓を購入した。見た目がずいぶん不恰好な弓だけれど、そのせいにできないぐらい下手になっていた。小学3年生で「卒業」したはずのザイツやヴィヴァルディの簡単な曲ですら左指が追いつかない。弓を持つ右手の動作がありえないほどごつごつしている。随分と時間がたったのだな、と思った。
 根付くことのベクトルは、未来ではなくて過去に向かっているのかもしれない。今、少しずつ、楽器を弾く時間を作っている。幸い音の出し方も音符の読み方も習う必要がなく、フラジオレットが飛び出してきてもやり方は知っている。記憶にない優しい音色を楽器が出してくれるようになった。それに、新しい発見もある。たとえば、バイオリンには正しい場所であれば隣りの弦に共鳴させることのできる特別な音符が6つあるのだけれど、ザイツやビバルディはそれを聞かせどころのどこに配置するか、その辺の感性が違う。少しずつ、弾く能力を回復させることで、自分という人間の過去を肯定することで、根付こうとしてみるのはどうだろう。
 英語で日常生活を送り、読書をし、授業をし、物書きをする私が、こうして日本語を使ってあなたという誰かに文章を書き始める。それもまた、錆びついた言葉の演奏であり、それは日本語を理解しない人の視点からは闇と沈黙にあたる土壌で根を下ろす作業の一環なのかもしれない。だとすれば、あなたは私の生存と成長に欠かせない存在である。
孫崎玲 20/21世紀英語米文学。チャップマン大学准教授。カリフォルニア州、オレンジカウンティ在住