#5 完全菜食主義者であること

I

 人間には行方不明の時間が必要です、というのは茨木のり子さんの詩の一行。
 そもそも研究者だから、授業とミーティング以外行方不明みたいな生活をおくっていると言われるかもしれない。それでも、後期資本主義経済のめまぐるしい時間の流れから自由になり、個人としての一切の過去の憂いと未来への恐れに付随する想いから意識的に離れ、また現在の葛藤も悲しみも怒りと相撲をとるのをやめて、そのかわりに、長くて安定した呼吸をする、ただの生き物にもどる時間が必要だ。そうしないと、自分という存在が放つ光が鈍くなってしまうように思う。
 ヨガをする。良質の呼吸と重力で血液やリンパ液の循環と栄養素の分配を促進することだけに集中する。あと、植物を見にいく。良質な酸素と草花の美しさをただただ取り込む時間があれば、それ以上の贅沢は私にはいらない気がする時がある。
 人間の神経や血管のようにはりめぐらされる根というものから生命力を吸い上げ、幹や枝・茎や葉がその表現となり、朝日や夕焼けの空が持つ神々しさに染められた色を封じこめる。先へ先へと伸びて行くその様子は過去に追われ、未来を追いかける姿ではなく、ただ、光を求め、光を宿しているだけだ。そのへんにあるムラサキツユクサの葉の表面でも、よく見ると種類によっては蘭の花びらのようにちいさなキラキラの粒子をちりばめたみたいに輝いているのに気づいたこと、ありますか。(『行方不明の時間』茨木のり子集、言の葉3)


II

 暮れに、東京に10日程帰っていた。ある木曜日に学期最後の授業をして、次の日のフライトでロスを発った。
 成田空港に父も母も来てくれていて、おろしなめこ蕎麦を食べた。機内食はきちんとしたものが出たのだけれど、私は数年前から完全菜食主義(ビーガン・マクロビ)生活なので食べられるものがほとんどなくて、正直お腹が空いていた。これは人生の皮肉というか、小さい頃の自分はお肉さえあればハッピーな子供で野菜は嫌いだった。ベジタリアンという人種もまわりに気を遣わせるので偽善的で自己中心的な気がしていた。そんな私が動物性の食べ物を摂らなくなるなんて今でもたまに信じられないし、まわりに面倒なのはわかっていて、とても悪いなと思っている。完璧に植物性の食べ物に変えてから数年で腸内フローラが変わってしまって、鰹だしぐらいは大丈夫なのだけれども、お肉、バター、卵や牛乳をとると気分が悪くなる。腸内でブレークダウンするのに時間がかかる密度の高いものにお手上げなのだ。
 南カリフォルニアには完全菜食主義者がわりと多いので、マーケットがすでに出来上がっている。ビタミン・ミネラルなどのサプリメントもかなりきちんとした供給がある。このあいだ私のジムのカフェテリアできいたところ、クライアントの半数が完全菜食者といっていた。東京でも、表参道にはいいビーガンカフェやレストランがあるし、今回は親友が調べておいてくれて六本木の完全薬膳に連れて行ってもらった。でも、日本でビーガンでいるのは基本的に難しいので、栄養価も高くミネラルも豊かな食事を作ってくれる母を本当にありがたく思った。
 少し不思議でもある。故・久司道夫さんのマクロビオティック本から始まって、日本の完全菜食の料理本はとても優秀なのに。完全菜食者には厳しいフロリダに赴いて本を書いていた一年間、カノウユミコさんや中島デコさんら植物性食材にこだわる料理研究家たちの料理本がなかったら、完全菜食を続けるのは無理だったかもしれないのに。
 もともと倫理的な理由から菜食主義になったわけではなかった。そもそも院生時代は高いオーガニック野菜を買う経済的余裕すらなかった。けれど、南カリフォルニアに越してきてから完全菜食生活を送りはじめて、少しずつ、意識上で連鎖的なシフトが起こりはじめた。「おいしい」と思ってきたものから、食べたあとに「身体の調子がいい」と感じるものへ、健康管理上効率的な栄養補給の追求したくなっている。基本的に身体はこれまでになく軽い気がするし、比較的に気分も明るい。菜食主義でいることで、結果的に良心から解放されている状態もわりと好きでいる。動物性の食べ物を自分という人間のマテリアルな存続に必要ないものとして手放すと、必然的に自分の存在が動物の苦しみとは関係ないのだと意識できるようになる。もともと消そうと思っていなかったのだけれども、意外と大きかった認知的不協和音が消え、ある心の平静を感じるようになる。良心が自由になれる空間を確保するというのはとても気持ちがいい。気持ちがいいことは続けたくなる。
 ヨガをする者としては、完全菜食主義が特殊な意味を持つ。アシュタンガヨガを志す者の教典のような、I・S・アイエンガーのLight on Yogaという本によると、ヨガにはどう生きるべきかという、探求的・哲学的な面があって、ヤマ(Yama)とよばれる5つの節制がある。その一番最初がアヒムサ(Ahimsa)という観念で、「他を傷つけない」ことである。その点での葛藤もないのが嬉しい。もちろん、完全菜食主義者だからといって罪深さから完璧に切り離れるわけではない。良質の植物性プロテイン源にキヌアという穀物があって、これが先進国の菜食主義者からの需要が高いので値段があがり、もともと主食にしていたアンデス山脈の農民が困っているらしい。これについては何の解決策もなく、ただ、なんとなくキヌアを買うことを避けるようになった。
 グローバル経済は今、また動こうとしている。要点をできるだけ簡単に書く。TPPがISDS条項を今の状態で盛り込んだまま通るとしよう。アメリカではオバマ大統領が去年6月にTPPのファストトラック権限を勝ち取った。これが通れば、多国籍企業は国民を守るために既存の環境や食品などの規制を「利潤妨害」として国際裁判所に訴えることができるようになる。多国籍企業サイドがその訴訟に勝ったら、今のカナダや韓国と同じく、賠償金は日本国民の税金から払われることになる。やむをえず法律を変えることになる。環境含め、一部既得層以外の人間の健康を守るための既存の法律はひとつひとつなくなっていくことになる。高額医療で、そのうち国民保険は破綻するという見方も強い。
 そんなことがあったら困るよ、TPPに反対しよう、と言う時期はもはや過去のことだ。だから、最悪のケースを考えよう。規制が緩んだ上に健康保険も危うくなって一般人の健康が保証されなくなる、今のアメリカの現状に似た事態が日本の現実になり、多くの人が払えない高額医療にお世話にならないといけない病気になったらどうするのか。払えないなら、死ぬしかないのか。親を、パートナーを、子を、孫を、死なせるしかないのか。そういうケースもあるかもしれない。
 ここで言いたいのは、信憑性のある科学的・論理的実証を参考にして、一番健康的と思われる生活習慣に徹することで防げる病気も沢山あることだ。栄養、睡眠、水分、運動、どれひとつとってもモニターするのが面倒だし我慢もあるかもしれない。国民の基本的人権を国が守れなくなる日が来ても、生活習慣を見直すことで高額医療にお世話になることを避けられるなら、そう絶望することもないかもしれないように思う。経済的余裕があっても完全菜食主義でいることでリスクを最低限に抑える生活習慣を選ぶ人もいる。2004年に心臓のクアドルプル・バイパス手術をのりきったクリントン元大統領は、大事をとってその後完全菜食主義に転じた。「私は自分がハイリスクの人間であるということを事実として受け入れ、自分を騙すことをやめました。孫が生まれるまで生きていたいと思った。長期的なサバイバルのチャンスを最大限に引き出すと思われる食事習慣を選ぶことに決めたのです」(USハフィントンポスト紙07/31/2013)。
 完全菜食主義が極端であるのは間違いない。でも、1977年にアメリカ政府が発表したランドマーク的なスタディである“Dietary Goals for the United States”はアメリカ人に肉・乳製品・卵を減らして果物・野菜・穀物など植物性の食べ物を増やすよう提言したものだった。また、信頼されているところで、ハーバード大学メディカルスクールのウォルター・ウィレットの「健康な食事のピラミッド」やコーネル大学のT・コリン・キャンベルが行った「チャイナスタディ」なども早いところ、動物性より植物性メインの食生活を、という見解だ。フロリダにあるヒポクラテス・インスティチュートのように、植物性食事療法のみでステージ4の癌患者を含めた沢山の患者達の健康を回復させているので有名な施設もある。
 もちろん長く生きれば必然的にいいわけではないし、絶対的に死を避ける方法はない。でも、世の中、弱肉強食とは限らない。勝負は、変わっていく世界にいかに素早く柔軟に対応できるかどうかに尽きる。


III

 記憶の引き出しみたいなものがあって、この文章を書いている最中にずっと、ある昔の出来事について考えていた。私がまだ小さい頃実家に遊びに来た人がこんなことを言った。実家に遊びに来た人、と書いたけれども、それは優しい親戚だったかもしれないしタクシーの運転手さんだった気もする。「おじさんはもっと若い頃に勉強しとけばよかったなあって、馬鹿だったなあって本当に思う」と、その人は言った。
 その悔しそうでありながらも照れと人懐こさが混ざった笑顔を、私が忘れずに生きてきたことは確かだ。20代と30代を通して、これ以上勉強することは不可能だったと私は言い切れる。優秀でない部分は、仕方ない。できる限り頑張ったというところにある心の安定があり、そして、生きる指針がある。私を通して呼吸し続ける、誰かの果たしえなかった夢がある。
孫崎玲 20/21世紀英語米文学。チャップマン大学准教授。カリフォルニア州、オレンジカウンティ在住。
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