はじめに ぼくと郷土玩具とその歴史

僕と郷土玩具の出会いは忘れもしない2008年秋のことです。そのころ、型染めや民藝の器のおおらかな美しさに魅了されていた僕は、新宿に備後屋という日本の民藝品を多く取りそろえる老舗があることを知り、訪れました。

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店内をひととおりじっくり見物し、湯町窯のスリップウェア(陶器の技法の一つ)や染色家柚木沙弥郎さんの暖簾や壁掛けのあたたかな存在感にうっとりしていると、地下に何やらにぎやかで楽しそうな物があやしく整列しているのが目に飛び込んできました。とたんに、びびび‼っと電気のような、予感めいたものを感じ、ふら…ふら…と吸い込まれるように地下に足を踏み入れました。

「こ…これは」

人間や動物をデフォルメした独創的な形に、絵の具のチューブそのままのような元気な青、赤、黄色がぶちまけられた人形。ぬぼーっとして不機嫌そうな裸の子ども、異様な素朴さを携えたこけし、馬なのか犬なのかなんなのかわからない木彫りの動物…数えきれないほどの人形たちが愛嬌たっぷりにこちらを見つめています。「ねえ、ねえ、僕たち、私たち、面白いでしょ?」と。
はい、面白いです。しかも変。すっごく変です。
でもなぜだかどうしようもなく惹かれてしまう。醜くて綺麗で、暴力的で優しくて、自由で、どこか懐かしく、生気が満ち溢れていて……まるで人間そのもののよう。

「これが郷土玩具? すごい……」

僕はほとんどことばを失ってしまいました。それまで郷土玩具には渋く寂しく古いという漠然とした印象を持っていましたが、まったく正反対だったのです。圧倒的な力強さと愛嬌をたたえて彼らは僕にせまってきました。
とんでもないものに出会ってしまった。彼らに出会う前の自分と今の自分はちがう。きっともう郷土玩具なしでは生きていけない。一生追い求めることになるんだろう。「カチッ」自分の中で何かが音を立てて変わるのがはっきり聞こえました。こうして、僕のはてしない郷土玩具蒐集は始まります。

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2008年はちょうど自分の絵に迷いがあったころで、郷土玩具との出会いは、彼らからの叱咤激励だったのかもしれません。たとえば各地の鳩笛からは「鳩に見えれば赤でも水色でも何色でも良い!むしろ鳥に見えればなんでもいいんだよ!自由に‼‼」と。こけしからは「そんな難しい顔して描かないで。目なんてちょいちょいっと描けば良いの。鼻は筆を置くだけ。考えちゃだめよ。」と。郷土玩具をながめていると少しずつ自分の絵への迷いが解け、向かう先が見えてきたのでした。
いやあ、郷土玩具ってよくわからないけどすごいなあと思い、古い書籍などで調べてみると、そこにはさらなる未知の世界が広がっていました。ますますその得体の知れない奥深さにのめりこみ、いてもたってもいられず作り手に会いに産地に出かけ、販売会に行き古いものを求め、玩具絵を描き、仕事でも郷土玩具を描くようになり……四六時中郷土玩具のことばかり考えていました。新婚旅行さえも山陰山陽の郷土玩具の産地を巡るほどになり、気がつくと僕の部屋は郷土玩具にうもれ、生活スペースは日に日に狭くなっていくのでした。

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ではそんな郷土玩具にはどのような歴史があるのでしょうか。ざっくりと追ってみましょう。
「郷土玩具」とは郷土や風土に根ざし、日本各地で農業などの仕事の傍らで作られてきた玩具のことです。多くのものが子宝祈願、商売繁盛、無病息災など、庶民の願いや祈りが込められています。そのため、同じような願いから作られていた土偶や埴輪などが大元の起源ではないかと言われています。
「郷土玩具」という言葉は大正時代に使われはじめたようですが、郷土玩具そのものは江戸時代初期にすでに誕生しています。安永2年、北尾重政により描かれた「江都二色」には当時の代表的な江戸の玩具が88種も紹介され、庶民の生活の一部として定着しはじめていたことがわかります。元禄時代には祭礼や縁日などが徐々に普及し、各地で行楽が盛んになったということもあり、土、木、紙などを素材とした人形や玩具が、奥さんや子供たちへのお土産として買い求められました。
明治時代に入ると、文明開化で流入してきた外国製のブリキやセルロイドなどでできたおもちゃが子供たちの手に握られるようになり、郷土玩具は活躍の場を奪われ、徐々に衰退していきます。
しかしそこに現れたのが俳人清水晴風(のちに玩具博士と呼ばれる)です。淡島寒月や内田魯庵もいた趣味家の集い「竹馬会」に持ち寄られた郷土玩具を見た晴風は、そこに日本古来の郷愁や深い美が宿っているのを感じ、明治24年から郷土玩具画集「うなゐの友」を定期的に発行します。大正13年の10編まで23年を費やした大作は(7編から10編までは画家西沢笛畝による)、徐々に全国に広まり、郷土玩具は大人の鑑賞用の趣味の人形として注目されるようになりました。この頃にはまだ「郷土玩具」という言葉はなく、子どもが持つおもちゃが大人のものに変わったということで「大供玩具」と呼ばれたり、「土俗玩具」「地方玩具」などとも呼ばれていたようです。
そして大正12年。関東を襲った大震災は、東京を中心とするその一帯の郷土玩具のいのちを奪い、街の復興が進んでも、ふたたび姿をみせる玩具は多くありませんでした。しかし、だからこそ、蒐集家の玩具への郷愁や希少なものを求める欲は強くなり、郷土玩具はまた注目されることになります。
昭和5年に出版された童画家武井武雄による『日本の郷土玩具 東の部、西の部』によって、玩具を蒐集、研究する人が、一部の趣味家だけでなく、一般家庭や若い学生達にも広まったこともその要因と言えるでしょう。
その後は第二次世界大戦などでたくさんの玩具や産地が姿を消し(武井武雄のコレクションもこの時にほとんど消失しました)、完全廃絶の危機を幾度も迎えましたが、その度になんとか持ちこたえ、作り繋げられてきました。

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そして今また、作り手の高齢化、後継者や材料不足のため、廃絶し、各地で次々と伝承が途切れはじめています。自分が今までに訪ねた産地でも亡くなられたり、廃業してしまった方が何人もいらっしゃいます。悲しく、寂しいことですが、それが実情です。
いっぽうで、ここ数年は「廃絶したものを復活させよう、伝統を守ろう」と郷土玩具を残そうとする動きがよく見られます。手仕事の魅力が再発見され、民藝がちょっとした流行になっていることから起こる現象だとは思うのですが、そこで作られる玩具には郷土性も精神もない人が関わり作ったものが混ざっているような気がします。それらはただのイミテーションでしかなく、郷土玩具の美の核のようなものがごっそりと抜け落ちた、空っぽの玩具でしかないのではと僕は感じています。
しかし、7年前のあの日僕が衝撃を受けたような、こころ踊る玩具を作り続けている人たちはたしかに各地に存在しています。どんな場所で、どんな玩具を、どんな人が、どんなことを想い、いのちを吹き込んでいるのだろう。想像すると、どうしようもなく胸が高鳴り、こうして文章を書いている今も、木や土やニカワの匂いのする工房に、出かけたくてうずうずしてくるのです。
ああ、玩具たちにはやく会いたい!

今回の連載では僕の育った関東周辺で作られる郷土玩具と、それを作る人たちに焦点をあてて、書いていきたいと思います。これからしばらくの間「関東周辺の郷土玩具を作る人たち」お付き合いいただけたら嬉しいです。どうぞよろしくお願いいたします。
自分佐々木一澄 イラストレーター。1982年東京生まれ。多摩美術大学グラフィックデザイン学科卒業。第146回、168回ザ・チョイス入選。雑誌、書籍、絵本などの仕事を中心に活動中。趣味は郷土玩具蒐集。東京こけし友の会、日本郷土玩具の会会員。著書に「きってはってぬってぶっく」(コスミック出版)「こどものとも012 2014年11月号 おいでおいで」(福音館書店)など。ウェブkazutosasaki.com