その1 「立て過ごす」

 今回から連載「ネッセイ」(ネットによるエッセイ=筆者の造語です)のタイトルを「鯉なき池のゲンゴロウ」と改め、再スタートいたします。このような言い回しというか、表現があるわけではない。「鳥なき森(島)の蝙蝠(こうもり)」のもじり、パロディ、本歌どり、といったところで、早い話「ぱくり」だが、「改竄(ざん)」ではない。
 本来の意味は、「優れた者のいないところでは、つまらない者が幅を利かす」というたとえだ。同じ意味で、「貂(てん)なき森の鼬(いたち)」とか「貂なき山に兎(うさぎ)誇る」「鷹の無い国では雀が鷹をする」などともいう。視界を山から水の中に移しただけのことで、はたして筆者が「鯉」か「ゲンゴロウ」なのか、といった詮索はご無用に願いたい。「鳥なき里の蝙蝠」は、古くから用いられている俚諺(りげん)で、最新の『広辞苑』(第7版:これから『広辞苑7』と表記する)にも載っている。
 てなわけで、なるべく『広辞苑』に載っていないような、地口や洒落、むだ口、俚諺(りげん)に符牒(ふちょう)や隠語(いんご)といった言葉の大海に生息する水母(くらげ)だか藻屑だか暦としない「有象無象」の周辺を、遊弋(ゆうよく)、漂流するつもりだ。
 筆者を「キョージュ」と呼び、弟子を自称するシンちゃんと一緒の気ままな二人旅だ。
 シンちゃんによれば、「いったん教授を務めれば、大使と同じで、敬意を表して終世『教授』と呼んで差支えない」という理屈らしい。
「盲亀(もうき)の浮木(ふぼく)」(これは『広辞苑』に載っています)という仏の教えもある。前途多難な「二人旅」になることだろう。
 ご愛読を頂ければ、うれしい。

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 テレビの情報に詳しいシンちゃんによれば、TBSテレビの「プレバト」なる番組に出演している、夏井いつきという俳人が評判だという。「プレバト」とは、はて面妖な、という顔をしたら、「プレッシャー・バトル」を略したのだと教えてくれた。芸能人が詠んだ俳句を遠慮会釈なしにズバズバと添削するので、人気を集めているそうだ。さる婦人月刊誌で「毒舌俳人」なる「称号」を与えていた。
 そこで、ちょっとテレビを観てみたら、「ここが悩ましいところ」とか「ここが肝(きも)です」といった奇矯、怪異な日本語が聞こえてきた。いやだ、いやだ。テレビ番組にお笑い芸人と一緒に出演すると、どうしてこのような言い回しになるのだろう。
 芸能人が口にするのなら、まだしも許せるが、いやしくも日本語による文芸作品を発表している人が使う言葉ではない。もう少し、言葉に対する「美意識」を高められないものだろうか。
 他にもテレビで良く聞く耳障りな言葉は、「生きざま」「こだわり」「琴線」「安らぎ」「癒し」「真逆」「立ち位置」「寄りそう」「伸びしろ」……など挙げていけば切りがない。これらの言葉については、いずれは取り上げる機会もあるだろう。

 と、まあ、ここまでが「まくら」みたいなもので、本題に入る。今はあまり使わない言葉に「立て過ごす」がある。『広辞苑7』には載ってないので、『日本国語大辞典』(小学館:これから『国語大辞典』と表記したい)を引くと、「一方が働いて、他方を食べさせる。特に、女が働いて稼ぎ、男を食べさせてやる。女が男を養う」とある。あくまでも女が主体的に養うので、実態は「ヒモ」に近いが、ちょっとニュアンスが違う。男の側にも、「まっとうさ」が要求される。
 海のものとも山のものともわからない男性を、どこか見どころがあると女性が睨んで、金銭的な面だけでなく、裏に回って援助するのが、「立てすごし」だ。
 元は新橋の芸妓で、アメリカ人と結婚し、日本の古典芸能の紹介に尽力した、中村喜春さんの『いきな言葉 野暮な言葉』を繙くと、次のように書かれている。
<芸者に立てすごされて偉くなった政治家や実業家、画家、文士(作家)、音楽家など、たくさんあります。明治維新以来、今日まで数えきれません。あれほど女性関係を手広く持って有名だった伊藤博文さんでも、自分を立てすごしてくれた奥様は大切になされました。>(草思社文庫)
 ちょっと話が大きくなるが、こうなると「女パトロン」といったところだ。
 川口松太郎が、1970年に著した『人情馬鹿物語』は、著者の分身と思われる小説家志望の信吉を狂言回しにした連作短篇集だが、自伝的要素も秘められる。内の一篇、「七つの顔の銀次」は、実在したすりの大親分「仕立屋銀次」をヒントにした物語で、映画化もされた。横浜曲金(まがね)町のすりの親分の娘で二代目を継いだお新と、すりから仕立屋になった銀次の哀しい恋が描かれている。堅気になった銀次を忘れられないお新は銀次と夫婦になって三代目にすえるが、銀次は7年の刑を受けて塀の中にいる。
 
<「帰って来たら立て過ごしてやれよ」
「当り前ですよ。私に惚れられて一生を棒に振ったんだもの、死水はきっと取りますよ」
 と、淋しそうな目の裏にも、ほのかな望みを浮かべながら、「あと二年」と、つぶやいて、
「直ぐだねえ先生」
 と、見上げる目元の涙の滴が、小娘のようにきらきら光った。>(講談社)

 あくまでも女性の方に主体性があるのだ。
「厩(うまや)火事」という落語がある。人間国宝の柳家小三治は、「滑稽と人情味がうまく描かれて、誰でも共感できる落語の中の落語」と、惚れ込んだ噺で、江戸時代の文化年間からあった噺だ。
 髪結いのお崎は年下の亭主、大工の八五郎と夫婦喧嘩が絶えない。八五郎は、あまり働きもしないで、お崎の稼ぎで食っている。今日こそは愛想が尽きた、とお崎が仲人を頼んだこれも大工の「兄(あに)さん」のところに顔を出す。兄さんの奥さんの髪を結いにいっているうちに居候の八五郎に惚れたのだ。「あいつは酒がすきだし、働かないから、止した方がいい」という兄さんの助言にもかかわらず、お崎がどうしても一緒になりたいと説き伏せたのだ。
 仲人が「だから言わんこっちゃない、早く分かれた方がいい」と引導を渡そうとする。反発したお崎は、「酒代は私が出しているのだし、あの人には優しいところもあるのよ」とのろけはじめる。
 兄さんは、留守中に主人が大切にしていた馬を火事で焼死させてしまい青くなった家来に、「その方たちに怪我がなければ良い」と言って馬のことは一言も言わなかったという孔子の話を紹介した。また、その逆で青磁の皿を大事にしていた麹町のさる旦那は、皿を抱えて足を滑らした奥方に向かって「皿は大丈夫か、皿は大丈夫か」とばかり言って、奥方の身を案じることはなかった。翌日、「人より皿を大切にするような主人とは離縁したい」と奥方の実家から使いの者が来て、後の人生を淋しく過ごした人もいる。
 兄さんは、お崎に亭主が大切にしている茶碗を割ってしまえ、と知恵を授ける。茶碗を心配するようなら、離縁したほうが良い、というわけだ。お崎は長屋に戻ると、八五郎の前で茶碗を割ってしまう。
 サゲはさておいて、古今亭志ん生の「厩火事」を聞く。古今亭志ん生の落語の魅力は、話の流れが突然に飛躍するところにある、自由奔放に変転、変調して行き先がわからない。その途方もない意外性が楽しい。
 兄さんが、「お崎のほうから惚れて一緒になったはず」、の箇所で、志ん生は次のようにいう。
「八公はなまけものだから、止しなよ、といったのに、お前は私が一生懸命稼いで、あの人を縦(立て)すごしにするとか、横すごしにするとか言って……」
 立てすごしの「立て」を「縦」に掛けた洒落だ。江戸時代以降、女性の稼ぎが良い職業は「髪結い」だった。そこで「髪結いの亭主」なる言葉が生まれたのだが、志ん生の隆盛期でさえ、「立てすごし」と「縦すごし」の洒落が、どれだけの人に通じたのかはわからない。
 外国語に詳しいシンちゃんは、「フランス語では『ヒモ』のことを、『マクロウ(maquerau 鯖)』といいますが、『ジゴロ (gigolo)』の方が近いかな。ヒモは一人というイメージだけど、ジゴロは不特定多数の『遊び人』といった感じかな」、とひとりごちていた。
 しばらくしたら、シンちゃんが塩野七生の映画エッセイ『人びとのかたち』(新潮文庫)を持ってきた。『アメリカン・ジゴロ』(1980年・アメリカ)と『プリティ・ウーマン』(1990年・アメリカ)を紹介している「ジゴロ」の章に、こんな話が出ているという。二作ともリチャード・ギアが主演だ。
 塩野七生はイタリアへ来てすぐに、有名化粧品会社の女性オーナー社長と知り合った。社長は美男にして品格も備えたローマ大学の学生を囲っていた。彼が大学を卒業するとアメリカはハーバード大学のロー・スクールに留学させ、卒業すると自社のヨーロッパ部門のボスに抜擢した。社長の死後も辣(らつ)腕を揮い、社長の人を見ぬく目が確かだったことを証明した。
 これぞ、イタリア版「立て過ごし」に他ならない。
 男女雇用機会均等法の時代、「稼ぎ」の多い女性は、ごまんといる。「立て過ごしている」実態も増えているはずだが、言葉は消えてしまった。
(敬称略・2018・5・11)◇次回の更新は5月23日の予定です
筆者紹介
▽重金敦之(しげかねあつゆき)1939年東京生まれ。朝日新聞社、大学教授を経て、文芸ジャーナリスト。著書に『作家の食と酒と』(左右社)など多数。
▽シンちゃん 氏名、住所不詳、1947年東京生まれ。開業医。中国少数民族の詩歌を翻訳し、テニス、ワイン、バイオリンなど、実に幅広い好奇心の持ち主。