その2 「なやみ」と「もがき」

 私の弟子を自称しているシンちゃんが、近ごろ「ホントに」という言葉が、氾濫していると思いませんか、と真面目な顔をして聞いてきた。まったくその通り。さすがにシンちゃんいいところに気が付いた。
 国会の各委員会の質疑応答からスポーツの勝利者インタビュー、ワイドショーのコメンテーター、グルメリポーターなどなど、「ホント」が本当に大流行(はやり)だ。
 その昔、「ホントニイッ」と語尾を上げる口調が若い人のあいだで盛んに用いられた。気になったが、そのうち消えてしまった。今度は、一種の「合いの手」みたいなもので、なんでもかんでも「ホントに」だ。この種の用法は、いったん気になると、うるさくてしょうがない。

 ところで、アニメ映画「火垂るの墓」(原作・野坂昭如)の監督として名を成した高畑勲が亡くなった。野坂が「火垂るの墓」と「アメリカひじき」で直木賞を受賞したのは1968年の1月22日だが、当日は伊豆の修善寺にいた。「小説現代」の「黒メガネ道中記」の取材で、編集部の大村彦次郎と一緒だった。
 予想では本命視されてはいたものの、待っている間は落ち着かない。受賞の電話を受けると、二人は夜の温泉街へストリッパー嬢の取材に繰り出した。気がついたら、二人とも宿のサンダルに素足のままで、足の先が凍ったシシャモのようだったという。いかにうれしかったかがわかる。
 翌朝、文藝春秋へ挨拶に出かけた。行きは普通車なのに、帰りはグリーン車だった。野坂は車中で「文藝手帖」を取出すと、歴代の受賞者の中で、活躍している作家には◯、まあまあの人は▽、パッとしないのは×の印を付け始めた。この◯が「もがき」で、×は「なやみ」だ。
 大村の大学時代の一年後輩に熊谷幸吉(故人)がいた。学生時代に父親を亡くし中退する羽目になったが、交誼は続いていた。「野坂さんに会いたい」と言うので、紹介したら、意気投合して、野坂家の居候になった。
<中退したあと、絨毯のセールスや屋台のおでん売り、卸市場の仲買店の手伝い、ボイラーマンなど幾つもの職種を転々と渡り歩いた。
 もともと文科の学生だから、小説を読むのが好きで、読めばそれなりに、辛辣な一家言があった。やっちゃ場の専門用語で、あの新人はいまがモガキだとか、ナヤミだとかいった。モガキは上昇中で、ナヤミはその逆だ。>(大村彦次郎『文壇うたかた物語』筑摩書房)
 古くからある青果市場(やっちゃば)の言葉で、入荷商品がだぶつき、安い値段でも売れないのが「なやみ」で、停滞気味の市況をいう。逆に入荷が少なく、値が上がって活況を呈するのが「もがき」だ。生鮮食品の野菜や果実だから、値が上がれば良いというものでもない。いずれも「苦しむ」ことに変わりはない。
 ある時期の大村彦次郎は、「野坂昭如の天分に惚れ込み、編集者としての自分を賭けるつもりだった」と『文壇うたかた物語』に書いている。星新一から、酒場で「あなたは、野坂昭如を構いすぎる」といわれたこともあった。作家の嫉妬だった。編集者も作家や他社の編集者に対して、嫉妬の炎を上げることもあろう。
 野坂昭如は、作家になるまでの混沌とした時代を自伝『新宿海溝』にまとめている。
<熊谷(幸吉)の勤めていた青果市場の符牒に「もがき」と「なやみ」があり、前者は値を飛ばすこと、後者は低迷の意味、つまり、佐木は「もがき」のさなかで、庄助あたりは孤影悄然(しょうぜん)「なやみ」の人>(『新宿海溝』文春文庫)
 佐木とあるのは、『復讐するは我にあり』を書き下ろした佐木隆三で、庄助とあるのは、保坂庄助で野坂自身だ。
 婦人雑誌の編集者から、築地市場の仲卸店に勤めることになり、市場の文化団体「銀鱗会」の事務局長を務めている福地享子に聞いてみた。一説によると、「なやみ」の語源は、「お納屋」にあるという。お納屋とは、江戸幕府が市場に設けた「調達機関」のこと。今でいう資材部か調達部。役人が「買ってやる」という立場で、入荷の状況に目もくれず買いたたいていく。弱い業者はどれだけ苦しんだことか。「お納屋苦しみ」から転じて「なやみ」となったとか。福地の著書『あいうえ築地の河岸ことば』(世界文化社)にある。
 熊谷幸吉は、浅草に飲み屋「かいば屋」を開いた。やはり早稲田の先輩で、吉原に住み、浅草の軽演劇の作家から風俗ライターとして活躍していた吉村平吉が応援した。平(へい)さんと親しまれた吉村は、高見順、吉行淳之介などとも親交があり、後に台東区議選に立候補するが落選した。
 この二人を囲んで、野坂、佐木の他に、田中小実昌、長部日出雄、殿山泰司、金井美恵子、安達曈子(とうこ)などが参加して「酔狂連」なるグループが生まれる。面倒見の良い大村彦次郎が裏方として、一枚噛んでいたのはいうまでもない。
 編集者にとって、作家とは何か。大村彦次郎は次のようにいう。
「話をしているうちに、なんとなく原稿を書かせたい気分になる相手、いや黙っていても原稿を注文したくなるような相手、それが作家の愛嬌であり、魅力である。」(前述書)
 これほど、作家と編集者の関係を明快、的確に喝破した言葉はない。大村も幸せなら、野坂も幸せだったに違いない。しかし、野坂が歌手活動や政治活動に熱を入れるにつれ、大村は一歩、二歩と野坂から距離を置くようになった。
 私は、野坂が直木賞を受賞した1968(昭和43)年に日本ダービーの観戦記を依頼したことがある。野坂の初めての小説『エロ事師たち』(三島由紀夫が激賞した)に因んで、「カケ事師たち」という見出しを使いたかったのが理由だ。当時の「週刊朝日」は月曜日が締め切りだった。
 この年の日本ダービーは、7月7日の日曜日に行われた。優勝は9番人気のタニノハローモアで、単勝が3,960円、二着に有力馬のタケシバオーが入り、枠連で5,730円(20番人気)という中穴だった。府中の東京競馬場で一緒に観戦し、翌日の月曜日朝、400字詰原稿用紙で7枚の原稿を練馬の自宅に取りに行く約束だった。ところがその翌日、朝早く練馬の自宅に着いたら、すでに出かけた後。さあ、困った。当時は携帯電話なんてものは無かったから、四方八方伝手(つて)を頼りに探しまくって、ようやく受け取ったのは夜になってからだった。
「41億円を投じた“カケ事師”たち――白蟻の如く競馬ファンのあふれ出た理由は?」と見出しが付いた雑誌は火曜日の昼には、鉄道の駅の売店や書店に並んだ。
 作家の村松友視が、中央公論社の編集者時代に、高井戸の野坂の自宅へ原稿を取りに行ったら、門に取り付けられているインターホンの器具が取り外され、電線が2本むき出しになっていた、と書いている。
 原稿が遅いのは、本人の性癖だから、なかなか簡単には治らない。井上ひさしのように、自ら「遅筆堂」と名乗る人もいるが、野坂昭如も決してひけを取らなかった。1986年、「小説新潮」創刊500号記念の原稿が書けずに、詫び状をそのまま写真版にして7ページ分掲載したという前代未聞の顛末は、『〆切本2』(左右社)に詳しい。当時の「小説新潮」編集長、川野黎子は、「目次も刷り始めているのに、逃げた。30年近く経った今でも、思い出すと、冗談じゃないわよ、って腹が立つ」と、「創刊70年」のインタビューで答えている。
<野坂さんは、私は性に合わなかったですね。小説は好きで認めているけれど、人間は、好かない。怒りにまかせて、私が編集部のソファをナイフで切り裂いた、というのが有名な話になりましたが、パンナイフだからたいしたことないのよ(笑)>(「小説新潮」2017年9月号)
 そのソファの傷は、修繕されることなく、長いあいだ編集部の同じ位置にあったという。
 野坂、井上のご両所は締め切りのない世界で、今頃は何に興じているのだろう。
 中国の少数民族の詩歌の翻訳も手がける多能多才なシンちゃんは、締め切りに関する限りホントに律儀だ、といっておこう。
 今回は「なやみ」と「もがき」だった。「なやみ」は青果市場に限らず、相場用語として用いられていた。『国語辞典』で、「悩む」を引くと、「相場が変動しそうな状況でありながら、あまりあがりもさがりもしない状態になる(市場用語字彙・1923)」、「市場で、入荷が多く、売行きが悪くて滞貨する。『売れなやむ』の意から(市場用語辞典・1935)」の2例が載っている。
 1929年に刊行された『かくし言葉の字引』(誠文堂)の「悩む」の項には、「相場が上がりそうで、上がりもせず、下がりそうに見えて下がりもしないのをいう」とあり、「もがる」は載っていない。1956年に警視庁刑事部が資料(非売品)として作成した『警察隠語類集』で「もがり」を引くと、「荷が少なく値がしり上がりになったため、買い取りに苦心すること」とある。盗品などの売りさばきに使われ、犯罪者のあいだでは、「追いはぎ」や「介抱泥棒」を指した。盗品はかつて「贓物(ぞうぶつ)」という言葉があった。『広辞苑7』には「1995年刑法改正前の呼称」と載っている。明治期には、すでに「なやみ」が使われ、「もがき」は対応語ではなかったようだ。となると、福地説は的を射ているともいえる。
「遠慮しなくても良い時に遠慮して、遠慮しなければいけない時に、しゃしゃり出る」といわれるシンちゃんは、「なやみ」と「もがき」の流れに無頓着だから、飄々と相場を張れるかもしれない。(敬称略・2018・5・23)♢次回は「アニイとヤマ」で6月6日更新の予定です。

筆者紹介
▽重金敦之(しげかねあつゆき)1939年東京生まれ。朝日新聞社、大学教授を経て、文芸ジャーナリスト。著書に『作家の食と酒と』(左右社)、『食彩の文学事典』(講談社)など多数。
▽シンちゃん 氏名、住所不詳。1947年東京生まれ。横浜市内の開業医(老年精神医学、音楽療法)。学生時代には、伝説の若者週刊誌の臨時特派記者として、アメリカやシベリア鉄道経由でヨーロッパなどを放浪した。中国少数民族の詩歌を翻訳し、テニス、ワイン、バイオリンなど、幅広い好奇心の持ち主。