その8 雨風食堂

 織田作之助の小説『夫婦善哉』(1940)が、上司(かみつかさ)小剣の小説『鱧の皮』(1914)から影響を受けていることは、よく知られている。二作とも上方の風土から生まれた「旨いもん」を小道具にして、大正から昭和初期の男と女の光景と情話が読者の心を捕える。大阪の言葉が巧みに用いられていることもあり、東京の作家の及ぶところではない。
 豊田四郎監督の映画、『夫婦善哉』(1955年。主演=森繁久弥、淡島千景)は、戦後のまだ娯楽が少なかった時代のヒット作だった。1963年に公開された『新・夫婦善哉』(監督、主演などはほぼ同じ)は、評判の良かった前作の「二匹目の泥鰌(どじょう)」ともいわれたが、『鱧の皮』も原作に加えている。
 上司は奈良市生まれ。父親が神主をしていた兵庫県多田村(現川西市)で育つ。生母とは幼少時に死別した。父が「後妻含み」として迎えた若い女中と再婚する情景を描いた『父の婚礼』(1915)は、生母への追慕と父への愛憎が交差した小品だ。父親は、再婚話をまとめた平七の家で、金米糖(金平糖)を前にして玉露を嗜んでいる。
<「あんたは、雨風やなア、どっちもいけるんやさかいえらい。……わたいはその甘いもんは、見ただけで胸がむかつきますわい。」>(岩波文庫『鱧の皮』所収)
 平七は、そう言いながら酒席の準備を始める。
 この部分が、『国語大辞典』の「雨風」の項に、用例として載っている。
 2015年に亡くなった阿川弘之が、2001年に刊行した『食味風々録』の「甘味談義」の項を読むと、次のように記されている。
<私は若い頃、大阪者の母親から、此の文例(筆者注=『父の婚礼』)そっくりの口調で、よく、
「あんた、雨風嵐やなあ。少し控えなはれ」
 とたしなめられた。「嵐」一文字多いのは、普通の「雨風」よりひどいと、老母が思っていたのであろう。>(新潮文庫)
 阿川の師、志賀直哉は酒をほとんど飲まず、米の飯は鮨以外、あまり関心がなかった。弟子は食事となれば、カクテルとビールに始まって、料理に合わせた酒を飲んでから、必ずご飯を食べる。そしてすぐに「何か甘い物くれ」となる。
「江戸時代、天保の頃から使われたことば」と『国語大辞典』にあり、牧村史陽編の『大阪ことば事典』で「雨風」を引くと、次のように説明されている。
「甘い物もアルコール類も好きな両刀使いをいう。さらに強めてアメカゼアラシとも。子供の菓子も酒類も売っている店を雨風食堂。」(講談社学芸文庫)
 阿川弘之の母堂が、息子のため特別に「嵐」を加えたのかと思ったが、昔からその用法はあったようだ。
 丸谷才一は、『食味風々録』を毎日新聞の書評で取り上げ、「雨風」について、「わたしは初耳だった」と書き、次のように文章は続く。
<普通、うまいものを食べた話は、何となく反感をいだきがちなものだが、この本の場合はそういうことはなかった。文章の力か。まさか人格のせいではあるまい。>(毎日新聞朝刊2001年2月1日)
 書評で著者の人品をおちょくるのは、趣味が悪い。逆説のジョークというには、品が無さすぎる。それこそ評者の人格が問われるというものだ。

 上方落語の「蛇含草(じゃがんそう)」に「雨風」は出てくる。大蛇が人を飲み込んで、苦しんでいる時に蛇含草を口に入れると、すぐにすっきりして元気になるという話が伝わっている。人を飲み込むような大蛇は日本に存在しないが、そこは落語だ。夏の暑いさなか、旦那の家に甚平姿で来た若い衆(し)、下は褌一本だけで透けて見える。干してある蛇含草に目を付けて、少し分けてもらったはいいが、入れるところが無いので、甚平の紐にくくりつけた。
 旦那は、到来物の餅を焼き始めるが、甚平先生は大の餅好きで餅食い競争にも出たことがある、と自慢する。酒も飲むし餅も好きとは雨風やな、という旦那に、どっちが雨ですかと聞くと、酒は米の水というから酒が雨やろ、という答え。膨らんだ餅を箸で突くと、プスウッと空気が抜けた。「やはり、餅が風でんな」というや、甚平先生は旦那が勧めるより先に口に入れてしまった。
 むくれた旦那が、「無礼なやっちゃな。ほなら、ここにある餅、全部食ってみい」というと、「食わいでか…」と甚平先生、次から次へと食べ始める。天井めがけてほうり上げ、おでこでいったん受けてから口に入れる「箕面の滝食い」。二つ一緒に口で受ける「お染め久松比翼の餅食い」など、「曲食い」の面相をリアルに演じるのは二代目桂枝雀の得意芸だった。当初は順調な滑り出しだったが、最後の二つがどうしても食べられない。詫びを入れて、ほうほうの態(てい)で家に帰り、「そや、蛇含草がある」と、甚平に結んだ草を口に含んで部屋に引きこもってしまった。心配になって後を追ってきた旦那が、部屋の襖を開けるとたくさんの餅が甚平を着て坐っていた。
「なるほど。蛇含草には人間だけを溶かす効能があるので、餅だけが残ったんだ。さすがの丸谷才一さんも、落語の世界には疎かったということですね」
 シンちゃんは、ようやく噺のオチがわかったようだ。
 蛇含草は、『広辞苑』には載っていないが、『国語大辞典』には「オヘビイチゴ」とあり、蛇眼草として「イワガネソウ」の記載がある。常識的には、「ヘビイチゴ」の仲間と考えられる。イチゴに似た赤い実を付けるが、「オヘビイチゴ」はつけない。食べても美味しくないところから、蛇しか食べないというのが語源だろう。「うわばみ草」は『広辞苑⑦』に載っている。イラクサ科の多年草で、若い茎葉は美味とある。なんのことはない。山菜として珍重される「ミズ」のことだ。「ミズ」なら、私も食べたことがあるが、まだ体は溶けてはいない。
 上方の「蛇含草」と同工異曲の江戸落語が、「そば清」(「そばの羽織」)だ。旅商人の清兵衛さんは、大のそば好き。10枚、20枚と食べて、掛け金を取るという、今で言う大食いタレントみたいな人だ。信州の山中で、蛇が人を飲み込んだ後、傍らの赤い葉の草を食べたところ、腹がたちまち小さくなったのを目撃した。よし、この草を用いれば、そばはいくらでも食べられるはず、と清兵衛さんは江戸に持ち帰り、そばを一束(100枚)食べる大勝負に出る。もちろん演者によって、枚数は微妙に異なる。50枚食べたところで、一息入れたいと別室に入って、蛇含草をなめる。
 いつまで待っても清兵衛さんが出てこないので、「さては逃げたか」と障子を開けるとそばが羽織を着て坐っていた。三代目の桂三木助や古今亭志ん生、先代の三遊亭馬生などが得意とした。
 上方の餅と江戸のそばに甚平と羽織の対照が面白く、大食漢が野草の効能におぼれるというシュールな噺だ。
「そうは言いますけど、餅やそばだけを残して人間だけを消化するような薬品は考えられませんよ」
 シンちゃんは医師の見地から、如何にも腑に落ちない、という顔をしている。やはり、この人に落語の可笑しさを説明するのは至難な技だ。シンちゃんの最も苦手とする分野かも知れない。自認しているから、いいのだけれども。

 ところで、そばの大食いは別に珍しい話しではなく、江戸も化政時代になると、大食いや大酒のみの催しがあった。現在でも、岩手のわんこそばのように食べた数を競う地方もある。一日二食が普通だった江戸時代には、そばでお腹を一杯にするようなことはなかった。小腹を軽く満たす「おやつ」の感覚だったのだろう。
 ところで、そば屋の中には、「大盛り」を出さない店がある。量が多いと、食べているうちにそばが伸びる「経時劣化」を嫌うのだ。一枚で足らない客は、「お代わりそば」を用意し、一枚目を食べ終わったころに持ってきてくれる。量は、店によって異なるが、だいたい定量の半分か三分の一程度で、大盛り分と同じという店もある。なぜ、このような面倒なシステムが生まれたのか。そばは調理時間がかなり短い一種の「瞬間芸」みたいなものだ。つなぎの少ないそばなら、茹で時間は、1分に満たない秒単位だ。時間が経てば、すぐに伸びる。このごろ酒を飲みながら、そばを手繰っている人が増えたが、あれでは、途中でそばが伸びてしまう。伸びきらないうちに、食べ終わってもらいというのがそば屋の願いだ。
 名店では、生の打ちたての状態で80~90g。茹であがると120~130gになる。かなり少なめだ。サラリーマンの昼めしでは、少ないから、軽めの丼とセットにした定食メニューが生まれた。
 そば屋には、帳場から釜場に注文を通す独特の「通し言葉」(隠語)がある。そば屋に一人で入るようになってから60年以上になるが、昔は多くの店で通し言葉を使っていた。
「天つき三杯のかけ」(天ぷらそばが一杯、かけが二杯)
「天まじり五杯のかけ」(天ぷらそばが二杯、かけが三杯)
 つまり、「つき」は一で、「まじり」は二を意味する。数字の杯は総数だ。小さい頃、この言葉が面白くて、覚えるためにそば屋へ通ったようなものだ。
 そのうち、
「天ぷら勝ち七杯のかけ」(天ぷらが四杯、かけが三杯)
 あたりから、わからなくなった。
 軽く盛るのを、「サクラ」あるいは「キレイ」という。逆に量を多めにするのは、「キン」だ。実際にこの言葉をお客が使うのに出くわしたのは、数年前に一度あるだけだ。
 恵比寿駅の近くに昭和8年開店の巴屋というそば屋がある。近所への出前も受け付ける、町場のざっかけないごく普通のそば屋だ。昔からこの種のそば屋を「駄そば屋」と呼ぶが、ちょっとかわいそうな表現だ。そば好きは、駄そばでも高級な趣味そばでも、その店なりの味をたのしめるものだ。
 巴屋のそばは、「盛り」がいい。普通の店の2割は多いだろう。中年の女性が、「冷やしきつねをサクラで……」と頼んでいた。女性の店員はすぐにわかったが、他の店でも通じたか、どうか。店員といっても、経営者の一族で、おそらく客は元従業員だったとしか考えられない。それにしても、ごく最近まで、残っていたものだ。すし屋の隠語と同じで、客が使う必要はまったくない。しかし、この通し言葉が、ほぼ消滅したのは、寂しい気がする。外国から来た従業員人には、まったくのちんぷんかんぷんだろう。
 出来立てのそばを短時間に食べきる、という考え方は、イタリアのパスタの考え方と共通している。パスタは前菜とメイン料理の通関に位置するスープのような存在だから、もともと量は多くはない。しかし、短時間に食べきらないと、冷めてしまうし、パスタも伸びてしまう。イタリア料理の店で、二人以上で訪ねた場合、「パスタは、同じものにして欲しい」という店がある。別に店が手を抜きたいわけではなく、テーブルを囲むお客に同じタイミングで、料理を出したいというおもてなしの気持ちが込められている。南イタリアの家庭で、山盛りのトマトソースのスパゲッティを大勢の家族が食べる光景は、また別の話だ。
「伸びるのを嫌って、そばやスパゲッティを短時間に食べ終える文化は、マルコ・ポーロが日本からイタリアに持ち帰ったのかもしれませんね」
 シンちゃんは、うれしそうに鼻を小さく動かしている。いかにも「大発見」といいたいらしい。残念でした。マルコ・ポーロが、パスタを中国から持ち帰ったという説は、イタリアにも古くからある。しかし、パスタの発祥はマルコ・ポーロ以前、紀元前にさかのぼる。現在私たちが食べている細いそばが普及したのは、江戸中期で、以前は「そばがき」みたいなものを、蒸篭(せいろ)で蒸していた。今でも、もりそばを「せいろ」と呼ぶ店があるのは、江戸時代の名残なのだ。(敬称略、2018・8・29)


次回の更新は「六日知らず」で、9月12日の予定です。
筆者紹介
▽重金敦之(しげかねあつゆき)1939年東京生まれ。朝日新聞社、大学教授を経て、文芸ジャーナリスト。著書に『作家の食と酒と』(左右社)、『食彩の文学事典』(講談社)など多数。

登場人物紹介
▽シンちゃん 氏名、住所不詳。1947年東京生まれ。横浜市内の開業医(老年精神医学、音楽療法)。学生時代には、伝説の若者週刊誌の臨時特派記者として、アメリカやシベリア鉄道経由でヨーロッパなどを放浪した。中国少数民族の詩歌を翻訳し、テニス、ワイン、バイオリンなど、幅広い好奇心の持ち主。筆者を「キョージュ」と呼ぶのは、敬愛と揶揄の意が込められている。