その11 「あほ」と「ぼけ」

 前回、シンちゃんは、「どあほ」というのに、なぜ「どぼけ」といわないのか、と鋭く突っ込んできた。
 大阪生まれで劇団を主宰する女優のわかぎゑふによると、大阪弁の罵倒語の中で最も軽いのは「あほ」で、次に「バカ」がくる。このあたりまでは、ケンカというよりは日常会話の範囲なのだそうだ。
<ボケはかなり本気でケンカする気になっている人が使う言葉だ。「このボケ、なにしてくれるねん!」と誰かが言い出したら、なだめるのに時間がかかると思わなければならない。>(『大阪弁の秘密』集英社文庫)
 なるほど、「あほ」よりも「ぼけ」の方が格段に「罵倒度」が上位にくるということなのだ。この微妙なニュアンスは、東京人になかなかわからない。
 現代の大阪弁のことならこの人をおいてない、と尊敬している田辺聖子(その割に呼び捨てにしてすみません)は、「あほ」を抜いて、大阪弁は語れないという。次のような子どもの頃の悪たれ口を、紹介している。
<「あほ・ばか・まぬけ・ひょっとこ・なんきん・かぼちゃ・土びん茶びん・禿げ茶びん」
 あはは、一応、意味するところとしては、馬鹿、間抜け、魯鈍(ろどん)、痴愚、ウッカリ、脳足りん、ボケ、ぼんくら、とんま……などを包括したるものである。(略)
 大坂のアホは、これは私の長年の持論であるが「マイ ディア……」という感じで、親愛をこめた、ぼんやりした雰囲気(ふんいき)の言葉である。>(『大阪弁ちゃらんぽらん』中公文庫)
 なるほど、なるほど。よくわかりました。東京の人間は、「あほ」を馬鹿と直訳するから、さまざまな齟齬(そご)が生まれると、「カモカのおっちゃん」の嫁はんはいうのである。
「ぼんやりした雰囲気」とは、確か司馬遼太郎が、「文化」の概念の説明にあったと記憶している。そうか。「あほ」は大阪の立派な「文化」になっているのだ。

 ところで、文部科学省の全国学力テストの結果が公表されたが、罪作りといえば、罪作りだ。政令指定都市では、大阪市が2年連続で最下位だった。
 吉村洋文大阪市長は、「東京新聞」によると「『べった』を続けている状況。抜本的な学校大改革をしないと抜け出せない」(2018年9月5日朝刊)と発言した。テストの結果を校長や教員のボーナスや学校予算に反映させたいらしい。「べった」とは、大阪弁で最下位を意味すると記事中にあるからいいものの、東京人にとっては初めて聞く言葉だ。
『広辞苑⑦』にも『大辞林』にもない。『大阪ことば事典』で「べった」を引くと、「メンコ」のことある。これは私も聞いたことがある。「ベッタクソ」で、「一番しまい。最終」とあった。あまり品が良い言葉ではなさそうだ。市長の品格が問われかねない。
『日本国語辞典』に「べった」の項目はないが、「べた」には「最下位、最後、びり」と載っている。「べたくそ」(大阪市)、「べたこ」(京都府南桑田郡)、「べった」(京都府乙訓郡)、「べったこ」(京都市)などの例が挙げられている。 
「べべ」の項には、「序列の最後」とあり、「べべた」は京都市や大阪市で使い、用例に「あの人べべたでやっとのこと卒業しはったのや」とある。
 大坂で生まれ育った友人のヤタケソムリエに聞いてみると、「べった」は最下位のことで、「べべ」「ど(ん)べ」ともいうとのこと。日常ごく当たり前に使われ、品が良いとか悪いとか、そういう色を持たない、ごく一般的な言葉だという。
「運動会の徒競争べった(べべ)やった」
「昨日のゴルフのコンペやけど、あんた成績べったか」
などと使うらしい。別の人に聞いたところによると、「べった2(ツー)」は、最下位の一つ上で、世にいう「ブービー」を指すとのこと。この和洋混交、融通無碍な使い方が大阪ことばの真骨頂だ。「べべ」とも「どべ」、「どんべ」ともいう。ヤタケソムリエによると、「べったこ」という言い方は聞いたこともないし、使ったこともなく、またメンコは「ベッタン」だという。
 おそらく、「べった」の語源は果物などの「へた」から来たものと思われる。前にも述べた「桃尻」の尻の意味ではないか。 
「べ」がつく言葉から、どうも下ネタ関連の言葉を連想してしまうのは我が身の至らなさかもしれないが、「べべ」には、限りなく下ネタに近い意味があるのも事実だ。吉村大阪市長の発言とは、まったく関係が無く、もちろん市長の品位とも無縁の話だ。

 桂文枝の新作落語に「大・大阪辞典」という噺がある。大阪生まれの夫と東京銀座生まれの妻が、大阪へ転勤になり、妻が懸命に大阪弁の話法を学習するという噺だ。以下は、噺の中にある文枝の「大阪語辞典」だ。
▽東京では、「蚊に刺される」というが、大阪では、「蚊に咬まれる」となる。大阪の方が少し大げさだ。咬む動作は、口と顎の力が必要だが、蚊は針というか一種の口ばしによる吸引だから、「刺される」か「吸われる」がふさわしい。関東では、犬や猫に「咬まれる」はあっても、昆虫にはなかなか使わないものだ。カミキリムシなら、その名の通り咬まれるでも構わない。オニヤンマに咬まれるのも痛い。
▽東京では、電信柱、電柱というが、大阪では、「電信棒(ぼう)」という。何か田舎の木製の柱のような気がする。「でくのぼう」とつながりがあるのだろうか。私の幼少時代は、ほとんどが木製だったが、電信柱と言っていた。棒といった記憶はない。
▽駐車場は、モータープールという。かなり昔から、梅田などの繁華街だけでなく、地方駅の畑の隣にもモータープールの看板が見受けられた。「モータープール」というと、ビルに納まった近代的な「大駐車場」というイメージが湧くような気がする。これも、東京人とは一味違う大阪人の「見栄っ張り」なのかもしれない。
▽関東では「画鋲」というけど、大阪では、「押しピン」だ。
▽両面テープを大阪では「リャンメンテープ」と呼ぶのだとか。知りませんでした。大阪人はよほど、麻雀が好きなのだろうか。
▽東京でいう「ワイシャツ」は大阪では「カッターシャツ」となる。ワイシャツはホワイトシャツからきたのだが、カッターシャツは開襟の半そでシャツのイメージが浮かぶ。カッターシャツはスポーツ用品メーカー、ミズノが商標登録している。競争用ボートのカッターから生まれたと思っていたのは、とんだ間違いだった。
▽新品をサラという。真っさらのさらだ。「新しい皿」は「サラのサラ」となる。
▽眼病の「ものもらい」を、大阪では「メバチコ」。初めて、これを聞いた時は、なかなかなじめなかった。
 大坂弁と関係はないが、昔茨城の大学にいた頃、学生から「先生、『青なじみ』ってわかりますか?」と聞かれた。これを知らないと、茨城の人でないことがすぐわかりますよ、という。別に生粋茨城人のふりをするつもりもないから、知らなくても構わないのだが、「青あざ」のことだ。茨城から東京に出てきた女性が、机の角に肘をぶつけて内出血したので、「あら、『青なじみ』になった」と言ったら、好奇の目で見られたという。本人は標準語と思っていたのだ。「めばちこ」も大阪人にしてみれば、標準語なのだろう。
▽「鳥肌が立つ」というけど、大阪へ行くと「サブイボが出る」となる。「寒いいぼ」ということだろう。「立つ」が「出る」と変わるのも面白い。『大阪ことば事典』には、「ぞっとした時などに皮膚に鳥肌を生じるをいう」とある。
野球のヒーローインタビューで、「ホームランを打った瞬間は、サブイボが出ました」などというのかしらん。一度、聞いてみたいものだ。
▽東京では、「パーマをかける」だが、大阪では「パーマを当てる」となる。
▽「くすぐったい」は「こちょばい」。
▽「直す」は「片づける」。
▽東京の「短気」は大阪では「いらち」という。
 すぐにシンちゃんが反応した。
「語源はイライラすると、同じですね、確か動詞の「苛つ」から来たのでしょう。苛立ちとか、苛つく、も同じはず」
 さすが精神科の医師だから、人間の心理や行動を表現する言葉については詳しい。いってみれば、「商売用語」だから当たり前か。
 これも、『大阪ことば事典』を見る。
「いらつく人。せかせかする人。一つことにおちついていられず、なにかせかせかとつぎの新しいことをやってみたい大阪人の一つの性格である。動詞のイラツを転じて名詞としたもの」とあり、次の例文を挙げる。
「ちょっと待ちいうのに、えらいイラチやなァ(大変せかせかするんだね)」
 シンちゃんの性格は、イラチとは正反対でどちらかといえば「おっとり」だが、何にでも首を突っ込むところは、「イラチ」的でもある。
 大阪で生まれた落語に「イラチ俥」がある。慶応3年生まれの桂文屋の作と伝えられる。東京にわたり、「反対俥」と呼ばれる。俥とは、右側の車を人が引く意味で、人力車のことだ。時代は明治の末期から大正にかけてだから、今でいうタクシーと考えればよい。
 両者ともだいたい噺の筋は同じだ。イラチの方は、ミナミから梅田、東京の方は神田から上野まで、最終列車に間に合うようにと、人力俥に乗る。最初に乗った俥はいずれも病み上がりの年寄りで、俥もいたるところに修繕の跡があり、半分は壊れかけている。ノロノロ走るので、仲間の俥にどんどん抜かれていく。業を煮やして二人目の俥に乗り換えると、これが飛ばすこと、飛ばすこと。すごい勢いで列車を追い抜いたとか、土管を飛び越えたとか、曲がることを知らない猪突猛進というスタイル。
 気が付くと、大阪では梅田を通り越して箕面、東京では上野を過ぎて川口まで行ってしまう。どうしても、最終列車に乗るから駅に戻ってくれと頼むと、最終には間に合わないが、一番列車には間に合うでしょう、というのがオチ。駅を通り越して着く場所は、噺家によっていろいろと異なる。大阪では金沢、関東では、牛久とか郡山といった例がある。
 三遊亭円丈の弟子で、劇団「四季」にも在籍していた異色の噺家、三遊亭究斗(きゅうと)は、日本でただ一人ミュージカル落語を標榜している。2014年真打に昇進した。英語でも演じるが、その持ちネタに「反対俥」がある。もちろん究斗だけでなく、柳家喬太郎など、他の噺家もやる。俥のスピードと揺れを表現するのに、座布団の上で飛び上がったり、回転したりするところが湧かせどころの熱演爆笑派の噺だから、若くないとやれない。喬太郎も、そろそろ無理かもしれない。かといって前座では客と俥屋のやり取りに味がでない。
 リアリティをまったく無視した荒唐無稽な噺で、アニメの「ドラえもん」に近い。噺が生まれた時代から考えると、当時流行した立川文庫の猿飛佐助が使う忍術の非科学的フィクションに通じるところがある。まあ、大阪弁の大袈裟な誇張と虚構の言語世界の一端が理解できる。それこそ「どぎつい」噺だ。
 シンちゃんはすっかり大阪弁の「魅力」に取りつかれたらしい。
「『ぼけ』は最上級の言葉なので、わざわざ『ど』を冠して、強調する必要がないわけですね」
 と理解を示しながらも、
「人力俥で、箕面や牛久まで行けるわけがないじゃありませんか」
と憮然たる面持だ。大阪弁の持つ誇大にして直截、かつ非科学的な比喩には、なかなか同意しない。
(敬称略、2018・10・10)

次回の更新は「本寸法」で、10月24日の予定です
筆者紹介
▽重金敦之(しげかねあつゆき)1939年東京生まれ。朝日新聞社、大学教授を経て、文芸ジャーナリスト。著書に『作家の食と酒と』(左右社)、『食彩の文学事典』(講談社)など多数。

登場人物紹介
▽シンちゃん 氏名、住所不詳。1947年東京生まれ。横浜市内の開業医(老年精神医学、音楽療法)。学生時代には、伝説の若者週刊誌の臨時特派記者として、アメリカやシベリア鉄道経由でヨーロッパなどを放浪した。中国少数民族の詩歌を翻訳し、テニス、ワイン、バイオリンなど、幅広い好奇心の持ち主。筆者を「キョージュ」と呼ぶのは、敬愛と揶揄の意が込められている。