その14 フラ

 八代目桂文楽の『あばらかべっそん』に並ぶ本といえば、結城昌治が書いた『志ん生一代』(朝日新聞社刊、後に朝日文庫、中公文庫)だ。不肖、私が担当し、「週刊朝日」に1976年8月から約一年間連載された。入社して、最初に担当した小説が結城昌治の『白昼堂々』だった。直木賞の候補にも挙げられたが、惜しくも賞を逸した。
 五代目古今亭志ん生の本名は、美濃部孝蔵。1890(明治23)年、神田で生まれた。父親は巡査だった。名前には、大きくなって蔵の一つも建ててくれれば、という願いが込められていた。小学校も出ずに15歳で家を出ると、蔵どころか生涯借家暮らしで両親の死に目にも会わず、83歳でこの世を去った。40まではほとんど無名といっていい。酒、女性、博打におぼれ、『貧乏自慢』という本まで書いている。生まれた日付から両親の名前まで誤って記憶していた。
 落語家仲間での孝蔵の評判は芳しいものではなかった。祝儀、不祝儀のつき合いはしない。金があれば、すぐ博打(モートルという。モーターから来たと思われるが理由は判然としない)か、女遊びに使ってしまう。師匠から預かった着物(トバという)を質屋へ入れてしまったこともある。トバとは、窃盗仲間の隠語と、『かくし言葉の字引』(宮本光玄、誠文堂、1929年)にあり、「身装または衣類のこと。役者語にも用う」と記されている。『警察隠語類集』(警視庁刑事部、1965年)には「狩猟の際に身を隠すための囲いで、転じて衣類や服装をいう」と語源が述べられている。
 孝蔵の博打は強いかというと、そうでもない。小心者なのに、妙に度胸が据わることがある。気が小さくて勝運(ツキ)を逃がし、度胸が良すぎて大敗した。
 小学校を中退同然で家を飛び出した。働く気はあったが、仕事は長続きしなかった。唯一好きだったのが、落語だ。町内に住む芸事好きが集まる天狗連で、落語を演じている時だけが張合いだった。東京だけで百二、三十軒の寄席があった時代だ。浅草で鼻緒の職人をやっていたころ、本職の落語家から褒められたことがある。
<「あんたははなし家になれるね。フラがあるよ」
 客演できた三遊亭円盛に言われた。端席でなら真打格という二つ目で、あまり落語は上手くないが、とにかく本職の落語家である。その円盛に言われたのだ。
 孝蔵は嬉しかった。
 フラというのは楽語界の用語で、どこともいえないおかしさをいう。天分のようなものだから、稽古で得られるものではない。うまさとも別で、フラがあるから名人になれるともいえないが、芸人の素質にかかわる褒め言葉である。>(『志ん生一代』朝日新聞社)
 円盛は孝蔵が最初に知った本職の落語家で、初の師匠でもあった。円盛の紹介で、三遊亭小円朝の弟子になり、三遊亭朝太の名前をもらった。
 1916(大正5)年、三遊亭円菊と改名して二つ目に昇進する。といっても相変わらずの貧乏暮らしで、羽織一枚買えなかった。
 翌17年には六代目金原亭馬生の門下となり、金原亭馬太郎と改名、さらに吉原朝馬、全亭武生(ぜんてい・ぶしょう)と名前を変える。
 初代の武生は、師匠から「お前は全体(ぜんてい)無精(ぶしょう)でいけねえ」と怒られたため、その小言をそのまま芸名にしたといわれる。名前を頻繁に変えるのは、思うように人気が出ないので縁起を担ぐためもあるが、仲間の女性関係のとばっちりで土地のやくざに追い回されたり、借金取りから逃げる方策でもあった。
 1921(大正10)年に金原亭馬きんと改名して真打に昇進した。羽二重の着物に羽織、袴、配りものにする名前を入れた手ぬぐいや扇子などに楽屋うちの祝儀も加えれば、少なく見積もっても当時の金で100円くらいはかかる。大学卒の初任給が60円から70円の時代だった。鈴本の席亭が用立ててくれたが、本人に渡すのが早かった。真打披露の経費はすぐに使い果たし、着物は質屋に消えた。
 二月以上も前にもらったものだから、何も残っていない。披露当日の格好と言えば、楽屋で借りた友達の羽織の下は、寝間着同然だった。
「トバ(着物)を見せるんじゃない、噺を聞かせるんだ」と自分に言い聞かせ、度胸が決まった。金を用立てた席亭は呆れ返った顔で、不機嫌そうに楽屋から出ていった。
 馬きんは、「淀五郎」を演(や)ることにした。仮名手本忠臣蔵の四段目、「判官腹切り」の話しだ。判官役にまだ大部屋の役者で無名の沢村淀五郎が抜擢された。異例のことだ。由良之助役の座頭、五代目市川団蔵は、芝居は上手いが性格はあまり良くない。初日に判官が腹を切っても、近くへ駆け寄らない。次の日もおなじことが繰り返された。
「判官が腹を切るから寄っていくのに、淀五郎が腹を切ってちゃ、寄りたくても寄れない」
 と突き放した。淀五郎が、「どうすればよろしいので……」と教えを乞うても、「本当に切ればよい。下手な役者は死んだ方がましだ」と、今でいうパワハラの仕打ちにあう。
 死を覚悟した淀五郎は、団蔵を殺して自分も死のうと、中村座の座頭、中村仲蔵の許にいとまごいにいく。そこで、仲蔵から「よく見せよう」という意識が強すぎる、と諭され、細かい仕草の教えを受けた。
 三日目、これが最後の舞台になるかもしれない、と思いながら懸命に演じると、その変わりように気づいた団蔵が、ようやくそばに寄ってきた。「おお、由良之助かぁ、うーむ待ちかねた」でサゲになる。
 馬きんも二つ目時代に似た様な仕打ちを受けたこともあり、また数々の不義理で、今夜が最後の高座になるかもしれなかったのだ。
 中入り(休憩)前は、講釈師の小金井蘆州が出てくれた。中入り前は「中トリ」とも呼ばれるくらいで、前半を締めくくる大切な出番だ。「中トリ」という言葉はあるが「大トリ」という言葉はない。NHKが大晦日の「紅白歌合戦」で、用いるようになっただけだ。
 中入り後に金原亭馬生師匠と小金井蘆州が口上を述べた。その後の出番は、「くいつき」という。休憩で、ざわざした雰囲気を少し締めなくてはいけない。普通は、二つ目くらいの落語家の役目だが、師匠の馬生が努めてくれた。トリ(主任)の前は「ひざ代わり」で、奇術や音曲の色物の芸人が入る。お目当てのトリを引き立てる役目だから、あまり目立っては行けないし、だれさせても困る。関西では、「モタレ」という。「くいつき」から「ひざ代わり」の間に、一席入ることがある。「ひざ前」という。「ひざ代わり」の前が「ひざ前」だ。トリの二つ前になる勘定だから、「くいつき」と重なることもある。
 時代はずっと後になるが、立川談志は、自分がトリを務める時の「ひざ代わり」は、奇術のアダチ龍光が好みだった。
<龍光先生が、私のヒザ替りを努めてくれただけで、私は落語家になった価値があった。(略)
 だから、私は高座でよく言いました。
「アダチ龍光にヒザ替りをつとめてもらうことが、私の名誉であり、真打の格だ」なんてネ。>(『談志楽屋噺』文春文庫)
 真打に昇進して二年後、古今亭志ん馬と改名した。そのころの話だ。正月の初席の「ひざ前」に出て、「芝浜」をみっちりやった。自分の役分はわかっていたが、数人の客の注文に応えたのだ。話しているうちに、お客の反応がひたひたと伝わってきた。自分でも乗ってきて、途中で止めることができなかった。「ひざ前」は人情噺でも差支えないのだが、軽く済ませるのがトリに対する礼儀でもあった。
 たまたまトリが悪かった。トリの春風亭華柳を怒らせてしまった。牛込の師匠といわれ、人望もあるのだが、落語はあまり客に受けなかった。古くからの仲間、金原亭延生らが「華柳さんに謝った方がいい」といっても、志ん馬は頑なに応じなかった。「俺は真打といってもまだまだヒヨッコだ。文句があるなら、芸で勝負したらいいんだ」といいはる。
 正論だが、それでは世の中渡っていけない。愛想がよくないから、楽屋に入っても、師匠たちに挨拶したのかしないのかわからない。
「たとえば文楽さんを見てごらんよ。芸人は客にも師匠にも席亭にも可愛がられるようでないと、育つ芸も育ちそこなうっていうぜ」
 周りが必死にいさめたが、志ん馬は聞く耳を持たなかった。
 1922(大正11)年、32歳で結婚した。真打といっても、名ばかりで芸は売れなかった。貧乏暮らしは相変わらずで、妻のりんは内職に精を出していた。
 大正13年には長女美津子が生まれた。この年、講談で人気の小金井蘆州に弟子入りし、小金井蘆風という名で講釈師になって旅(巡業)に出たこともある。不義理が重なって、寄席に出られなくなったのだ。自分では、それほど悪い出来とは思っていなかったが、友人たちからは「セコ(下手)すぎる」と散々だった。
 昭和元年に古今亭馬生と改名して落語界に復帰し、古今亭ぎん馬と改名。柳家三語楼の門下に移り、柳家東三楼と改名。柳家甚語楼と改名。
 昭和3年長男の清(八代目金言亭馬生)が生まれ、墨田区業平橋に引っ越した、今では、スカイツリーが建っている辺りだ。10センチを超すようなナメクジがうようよいる。油虫や鼠が昼間から走り回っていた。雨が降れば、どぶ板が浮かび、床板すれすれまで水位が上がった。
 この頃噺家仲間で川柳の会ができた。噺家の会だから、「鹿連会」という。そこで、甚五郎の読んだ句が、

   なめくじは煮ても焼いても食えぬやつ

 甚五郎は、真剣にナメクジを食べてみようと思ったが、なまこも嫌いだったから、どうしても食べる気が起きなかった。
 2018年の11月、オーストラリアのシドニーで、ふざけてナメクジを食べた二十代後半の男性が、寄生虫の「広東住血線虫」が原因で10年近い闘病の末、死亡したというニュースがあった。食べなくて良かったのだ。もっとも、カタツムリより旨い、という食虫食の専門家もいるにはいるけれども。
 昭和7年には、隅田川馬石と改名してすぐ甚語楼に戻る。翌年には古今亭志ん馬(二度目)と改名し、翌8年には金言亭馬生(七代目)を継いだ。
 1938年に次男の強次(古今亭志ん朝)が誕生。翌年、念願だった五代目古今亭志ん生を襲名する。数えでちょうど五十歳になる。ここにたどり着く迄に、十六ほど名前を変えている。「これで打ち止めにする」と言い張ったが、「志ん生」の名跡は、あまり長く生きた人はいなかった。しかし、「俺は本当に志ん生になりたかったんだ」と、いう。志ん生を継ぐとなれば、襲名披露をしなくてはならない。ここでも、金が無かった。
 祝儀を目当てにして、上野の精養軒で襲名披露が行われた。仕切ったのは、実力者の一龍斎貞山で、襲名も貞山が押してくれた。会場費が払えるか、落ち着かない志ん生は、ひたすら頭を下げ続けていた。妻のりんも同じ気分だった。会場費は貞山が払ったうえに、祝儀は志ん生の手に触れさせず、そっくり妻のりんに手渡してくれた。すべてご明察なのだった。
 志ん生の芸が認められ、昭和16年には神田の花月で毎月独演会を開いた。演目の幅は人情噺から廓噺まで実に広かった。しかし、「気分屋」なのは相変わらずで、気が乗れば実に素晴らしい出来になるが、少しでも気に障るようなことがあれば、五分で高座を下りた。マクラと噺が食い違い、噺の途中でいつのまにか別の噺になってしまうこともあった。よく言えば、当意即妙、機に応じ変に臨んでも慌てるようなことはなかった。
 1943(昭和18)年長男の清が、父志ん生の弟子になった。少年飛行兵を志望したが、虚弱だったため身体検査で落ちてしまった。当時はぶらぶらしていると、国民徴用令があり、強制的に軍需工場などで働かされる。落語家になれば、工場の慰問にまわる仕事があって、徴用に掛からないと、志ん生は考えたのだ。芸名はむかし家今松、父が好きだった先代志ん生の二つ目の名前だ。「たぬき」「道灌」「子ほめ」の三つを父から教わっただけで高座に上がった。
 1945(昭和20)年5月、志ん生は円生と満州へ慰問興行に出かける。日増しに東京上空に現れる米軍機の数が増え、体験したことのない空襲の激しさに堪えられなかったからだ。興行先の大連で敗戦を迎えた。帰国したのは、昭和22年の1月だった。
 われらのシンちゃんの生まれた年である。(敬称略 2018・11・21)

次回の更新は「火焔太鼓」で、筆者の都合により12月12日を予定しております。
筆者紹介
▽重金敦之(しげかねあつゆき)1939年東京生まれ。朝日新聞社、大学教授を経て、文芸ジャーナリスト。著書に『作家の食と酒と』(左右社)、『食彩の文学事典』(講談社)など多数。

登場人物紹介
▽シンちゃん 氏名、住所不詳。1947年東京生まれ。横浜市内の開業医(老年精神医学、音楽療法)。学生時代には、伝説の若者週刊誌の臨時特派記者として、アメリカやシベリア鉄道経由でヨーロッパなどを放浪した。中国少数民族の詩歌を翻訳し、テニス、ワイン、バイオリンなど、幅広い好奇心の持ち主。筆者を「キョージュ」と呼ぶのは、敬愛と揶揄の意が込められている。