その19 鰻と河豚

 江戸時代の代表的な「外食」といえば、そばに、すし、鰻、天ぷらの四つだが、落語に登場するのは、そばと鰻が圧倒的に多い。世界遺産の登録とかで和食のなかでも、すしは世界的に知れ渡ったが、今やラーメン、タコヤキ、お好み焼きがヨーロッパでも人気らしい。BENTO(弁当)もかなり広まっている。彼の地で「エホウマキ(恵方巻き)」を食べた人もいるそうだ。いったい誰が作ったのだろう。
 落語に登場するすしは円朝作の「真景累ヶ淵(しんけいかさねがふち)」に少し顔を出す。天ぷらも少なく、明治時代に上方で作られた「阿弥陀池(あみだがいけ)」が昭和初期に「新聞記事」として東京で改変された噺に天ぷら屋の竹さんが出てくるくらい。
 万が一富くじが当たったら、「吉原(なか)のなじみの妓(おんな)を身請けして所帯を持つでしょ。夜のお膳にはお銚子に天ぷら、鰻が付く」という夢物語を語って、湯島天神で抽選を待つ若い衆が出てくる噺は「宿屋の富」だ。
〈お膳見たって違いますよ、まずお膳の上をヒョイと見るってえとね、お銚子が一本載ってますよ。ね、刺身があって天ぷらがあって鰻があって、こう、お椀がある。〉(『志ん朝の落語5』「宿屋の富」ちくま文庫)
 その当時、鰻や天ぷらがいかにご馳走だったがわかる。
 富を突く神社は志ん生が湯島天神だが、小さんは日本橋の椙森(すぎのもり)神社、上方では、浪速の高津神社(大阪市中央区)となっている。穴の開いた桐の箱に番号札を入れ、錐(きり)で突き刺した。
 ご家人が、武士の商法で鰻屋を開くのが、「鰻屋」。おちの「どこへ行くかって、前へ廻って鰻に聞いてくれ」は、誰でも一回は聞いたことがある噺だろう。明治維新で士族となった元武士が、鰻屋「神田川」の鰻職人、金(きん)を雇って開いたのが鰻屋。当初は汁粉屋を開くつもりだったが、口銭が少ないと方針を変えた。この金なる職人さん、酒が入ると人間が変わってしまい、失敗ばかり繰り返している。最初のうちは酒を断って、働くと殊勝なことをいっていたが二、三日経つと、やはり「へべのれけ」になって始末に負えなくなった。ちょっと強い小言を言ったら、プイと出て帰ってこない。
 主人が見よう見まねで、裂いてみようとするが、そう簡単にはいかない。まず鰻を掴められないから、まな板の上に乗せられない。ぬめりを取ればいいだろうと、糠をまぶしてみたものの、そうは問屋が卸さない。鰻の糠漬け作るのか、とからかわれる始末。
 鰻職人は「串打ち三年、裂き八年、焼き一生」といわれるくらい特殊技術を要する。すしの職人もかなりの技術が必要だが、鰻に比べれば、習得に要する時間は少ないのではないか。職人の技術の難易度を比較しても、あまり意味はないのだけれども。鰻職人の口入屋(派遣会社)は江戸末期から始まり、明治元年創業という野田屋東庖会は現在も営業している。

 調子の良い幇間(たいこ)の一八が鰻を驕らせようと策略を巡らせるが、逆に鰻の代金を払う羽目になり、下駄まで履いて逃げられるという、実に哀しい噺が「鰻の幇間」だ。だいたい幇間は、調子が良いことになっている。根暗な幇間は、まず出てこない。名前はなぜか一八が多い。
 幇間の一八は「腹が北山」なので、なにか食べたいが、自分の金(手銭)で食べるのは、幇間の沽券に関わるという了見の持ち主。立派な「幇間魂」が溢れている。「腹が北山」と言うのは、「腹が空いて来た」の来たと北を洒落た言葉遊び。「腹が北時雨」「腹が北山の金閣寺」「腹も北山さくら」などのバリエーションがある。
 一八が目を付けたのは、以前どこかで見たことがある男。声を掛けて、首尾よく鰻屋の二階の座敷にまで上がったのはいいが、おむつが干してある。件の男は勘定を払わない上に、蒲焼きを土産の折にして逃げてしまった。一八は頭に血が上って仲居に八つ当たり。まず床の間の掛軸の絵が気に入らない。二宮金次郎が薪を背負って本を読んでいる。
〈鰻屋の二階と言うものはね、ご婦人と二人連れで来て、盃をやり取りして手でも握ろうと言うときに、二宮金次郎の絵を見ると、手が引っ込んじゃうでしょう。〉(前掲書「鰻の幇間」)
 二つの盃が揃っていないとか、徳利は無地が常道なのに、狐がじゃんけんしている絵柄が良くない上に口が欠けている、などと愚痴が止まらない。
〈お前さんのところの鰻はひどいね。さっきは客の前だから舌の上へ載っけてとろっ…冗談言っちゃいけねェ、三年載っけといたってとろっときませんよ。〉(前掲書)
 鰻が硬いから始まって、新香にまで文句をつける。「奈良漬が薄く切ってあるから、大根にもたれかからないと倒れちゃうでしょう」と、一八の鬱憤と怒りは、とどまるところをしらない。桂文楽(七代目)は、新香の中の紅ショウガに鉾先を向ける。もちろん八代目も踏襲している。
「紅ショウガの色は、何で染めるか知っていますか。梅酢でしょう。鰻と梅ぼしは『テキヤク』ですよ」
 このテキヤクを耳から聞いて、すぐに漢字が浮かんでこない。「敵役(かたきやく)」を「てきやく」と間違えたのでは、と考える人がいるかもしれない。『日国』の「敵役(てきやく)」は、「①演劇などで、悪人として登場する役。②人からにくまれるようなことをあえてする役。また、その人。」とあり、意味が通らない。
 辞書で「てきやく」を引くと、「適薬」「適訳」「摘訳」「適役」に「敵役」などがあるが、ここは「敵薬」だろう。『大辞林』には「①食べ合わせると毒になる食べ物。食い合わせ。②処方によっては毒になる薬。」とあり、『広辞苑⑦』には「①配合のぐあいによって毒となる薬。②食い合わせて毒になるもの。食合せ。」とある。『日国』では、「②食い合わせて毒となるもの」と記されている。
 昔から、鰻と梅干は食い合わせと言って、一緒には食べることを禁じてきた。油の強いものと酸の強い物を一緒に食べない方がいいと思われ続けてきたからだろう。天ぷらと西瓜、蕎麦とタニシ、蟹と柿などもよく指摘される「食べ合わせ」だが、その多くは民間信仰か迷信の類で合理的な根拠は薄い。
 医師であるシンちゃんは、薬剤と食べ物との禁忌について精通しているが、食べ物同士の相性にはあまり関心がない。
 確かに鰻屋の二階というのは、手軽な個室だった。だいたい古い鰻屋は皆、座敷で食べたもので、椅子とテーブルはなかった。現在でも南千住の「尾花」や柴又の「川甚」に往時の雰囲気がみてとれる。大広間の入れ込みが主流だった。
 鰻屋の二階といえば、思い出す落語は「子別れ」だ。腕のいい大工の熊五郎は、弔いの帰りに吉原に寄ったまま三日ほど帰ってこない。女房は息子の亀吉を連れて家を出て行った。熊五郎は吉原の女と一緒に暮らし始めたが、間もなくいなくなった。気を入れ直して仕事にうちこみ、今では一流の大工となったが一人暮らし。お得意の仕事で、深川の木場へ材木を検分に行く途中、ばったり亀吉と会い、昔の女房がまだ独りでいることを知る。明日鰻をご馳走してやると、亀吉に小遣を与える。持ち慣れない息子の金を見付けた女房は、誰から貰った、と金槌を振り上げる。父さんと会ったと白状して翌日鰻屋へ行くと、心配な母親が階下でうろうろ。亀吉のおかげで縒(よ)りを戻す人情噺。「やはり子は鎹(かすがい)」と言うのを聞いた亀吉が「鎹? 道理で金槌でぶたれるところだった」とおちになる。
 また「後生鰻」はちょっとシュールな噺。信心に凝った大家(たいけ)の隠居は、殺生が何よりも嫌いで、蚊に刺されてもそのままにしておくという徹底ぶり。浅草の観音様にお詣りした後、鳥越川の天王橋近くの鰻屋の前を通ると、鰻を裂こうとしているところだ。「これ、何をしている」といって、銭を出して買い求めると、店前の鳥越川にドボンと放してやる。
 これが毎日続くものだから、鰻屋はすっかり味をしめ、やれ泥鰌だ、鼈(すっぽん)だのと調子に乗ってあこぎに稼いでいる。ある日、鰻が切れたところに隠居がやって来た。
 あるじは「何か生きものはないか」と探したが、その日に限ってなにもない。ええい、ままよと赤ん坊をまな板の上に置いた。「何をする」と隠居さんは、高額で買い取ると、前の川に「どぶん」とほうり投げた。
 教条的な信仰心を笑った噺だが、後味は決して良いものではない。よい金づるとばかりに欲にくらんでいく鰻屋が人間臭い。鳥越川は今はなく、天王橋は現在の台東区蔵前一丁目あたりになる。
 この噺の元は上方の「淀川」で、明治になって東京にもたらされた。古今亭志ん生や三代目三遊亭金馬、三代目三遊亭小圓朝が演じた。過激なブラックユーモアが嫌われてか、最近はあまり耳にしないが、それでも桂歌丸や桂文珍などが手がけた。
 
 鰻といえば鼈(すっぽん)も併せて扱う店が多い。「提灯屋」という噺には鼈が出てくる。新規開店した提灯屋が、「どんな家紋でも書きます。もし書けなかったら無料で提灯をさしあげます」というビラを町内に配った。「なにを猪口才なやつ」というわけで、暇な連中が次々に店を覗きに行く。
「大蛇を鍾馗様が寸胴切りにした紋を書け」
「そんな紋は見たこともないので、書けません」
「大蛇はうわばみというだろう。それを二つに切ったから『うわ』と『ばみ』で、片方が『ばみ』だ。鍾馗様は持っている剣で切ったから『剣かたばみ(酢漿)』の紋だ」
「そんな、判じ物では……」
「貰って行くぞ……」
 こんな調子で、若い者が提灯を持ち帰ってくるものだから、米屋の隠居がお詫びがてらに提灯を買いにいく。
「丸に柏の紋を頼む」
 柏の葉(普通は三枚)を丸く囲ったごく当たり前のどこにでもある紋だから、提灯屋が知らないはずがない。難題を吹っかけられ、頭の中が真っ白になっている提灯屋さんは、どうしても思い浮かばない。
「鼈(すっぽん)と鶏でも書きましょうか」がおち。
 鼈はその形状から「丸」という呼び名がある。鼈鍋は丸鍋だ。中国でも、円魚とか甲魚という。鶏肉の別名は「かしわ」で、関西では日常的に用いられている。

 鼈といえば河豚(ふぐ)だが、二つとも江戸時代は高級な食べ物ではなかった。まず「らくだ」だ。長屋中の嫌われ者、らくだの馬さんは河豚を自分で調理して、自宅で死ぬ。兄貴分とくず屋の久六の始末記は、古典落語の代表的な噺だ。「冷や酒」の項で詳しく説明した。
 もう一つ、「河豚鍋」という噺がある。旦那の家で、幇間みたいな男と二人で河豚鍋を食べようとするが、二人とも河豚が初めてだから、怖くて箸をつけない。お互いに遠慮して、食べる勇気がなかなか出てこない。
 折よくおこもさんが、「何か食べるものをめぐんでください」と来たので、食べさせて様子をみることにした。後をつけていき、器が空になっているのを確認して、食べ始める。旨い旨いと食べ終わったところに、くだんのおこもさんが現れて、「先ほどの物はすべてお召しあがりになったでしょうか」と尋ねる。
「味をしめたな。残念だが、すべて食べ終わって何も残っていない」
「そうですか。それなら私はこれからゆっくり頂戴いたします」
 
「毒見させようと思っていたのに、自分達が毒見役になったというわけですね。やはり、人体実験は慎むべきです」
 例によってシンちゃんは、いかにも医者らしく理詰めで攻めてくる。

 ところで落語に出てくる食べ物には今を流行りの「グルメ情報」の要素はほとんど無いといってもいい。江戸時代はまだまだ食糧が不足していたから、「おまんまに有りつけるだけでも、幸せ」と思わなければならなかった。「アマーイ、ゼッピン、ジューシー」なんてことは言っていられない。「武士は喰わねど高楊枝」の教えがまだ根強く残っている時代、と考えるべきだろう。
「味噌蔵」にあるように、大店に勤める従業員がケチな主人の留守に乗じて、近くの豆腐屋から味噌田楽を出前させるくらいが、豪勢な食事だった。「青菜」では、植木屋が旦那場のお屋敷の主人から初めて「鯉の洗い」をご馳走になる。純朴な植木屋は鯉の身は黒いものと思いこんでいた。
 普段は贅沢な料理を食べられない庶民が、山海の珍味に驚愕する場合と、「目黒の秋刀魚」や「ねぎまの殿様」のように、地位の高い殿様が下賤な食べ物に瞠目する逆のケースも「笑い」を誘う。
 子どもたちは「初天神」「真田小僧」に見られるように、縁日や近所の店で駄菓子を買い食いするのが楽しみだった。
「唐茄子屋政談」は、道楽が過ぎて感動された若旦那が、八百屋の叔父さんの計らいで、唐茄子を天秤に乗せて売り歩く噺だ。唐茄子(カボチャ)を「安倍川」にして食べる、とある。つきたての餅を砂糖の入ったきな粉にまぶしたのが、「安倍川餅」だ。旧東海道にかかる安倍川橋のたもとにあったお茶屋の名物で、広く知れ渡った。餅だから腹持ちがする。旅人には格好のお茶菓子だった。現在でも、1804(文化元)年創業と伝えられる石部屋(せきべや)が営業を続けている。江戸時代のカボチャは、現在の品種とは異なり、甘味も薄かったと思われる。一種の調味料として、きな粉にまぶして食べたのだろう。今ではすっかり消えてしまったが、まさに庶民のおやつだった。
 江戸も末期になれば高級料亭が出現するが、実在した料亭に遊ぶ河岸の連中をテーマにした「百川」には、慈姑(クワイ)のキントンが出てくる。口入屋からの紹介で働くことになった百兵衛は可哀そうに、この慈姑を飲み込む羽目になる。
 食べ物の薀蓄といえば、「時そば」には、箸や丼の好みを取り上げ、「食い物は器で食わせるっていうじゃねえか」とか、「出汁は、鰹節(かつぶし)をおごったね」などと「そばっ喰い」のうるさいこと、うるさいこと。竹輪の厚さからそばの太さなど、器や設えの趣味から手仕事の巧拙まで、微細に渡って「通人好み」の食に対する執着ぶりがうかがえる。もっとも「そばっ喰い」といっても、自称するだけで、「個人の感想」に過ぎないことはいうまでもない。
 止せばよいのにこのやりとりを近くで目撃していた与太郎風の男が真似をすると、すべてが逆の結果になるのはご存じの通りだ。
 火の用心の番屋で秘かに楽しむ猪鍋(「二番煎じ」)や、女房におでんを買いにやる「代り目」など、食べ物に関する噺はいずれも魅力的だ。貧乏であれ金持ちであれ、食べることは人間を幸せにする。
 そういう意味で、私は「茶の湯」の噺を好きになれない。蒸した芋を灯油で固めたお菓子に、椋(むく)の皮と青きな粉で「お茶」を立てるという設定がおかしい。決して旨くもない人の嫌がる食べ物を食べさせるのは、拷問に近い。想像しただけで、食欲が減退する。食べ物を遊びの道具に用いてはいけない。天の恵みと作物に携わる人への冒涜ではあるまいか。
 食べ物に関しては、あまりうるさく執着しないシンちゃんも「茶の湯」に対する私の評価には賛同してくれた。(敬称略、2019・5・15)

◎次回は更新は5月29日の予定です。
筆者紹介
▽重金敦之(しげかねあつゆき)1939年東京生まれ。朝日新聞社、大学教授を経て、文芸ジャーナリスト。著書に『作家の食と酒と』(左右社)、『食彩の文学事典』(講談社)など多数。最新刊『淳ちゃん先生のこと』が
左右社から好評発売中。

登場人物紹介
▽シンちゃん 氏名、住所不詳。1947年東京生まれ。横浜市内の開業医(老年精神医学、音楽療法)。中国ウイグル族の詩歌を翻訳し、テニス、ワイン、バイオリンなど、幅広い好奇心の持ち主。筆者を「キョージュ」と呼ぶのには、敬愛と揶揄の意が込められている。敬虔なキリスト教徒で、最近リスボンからスペインの聖地、サンチャゴ・デ・コンポステーラへ巡礼した。