第24回 そっぽがいい

 近頃ではあまり耳にしなくなったが、昔はよそ見をしたり、あらぬ方向を見ていると、「そっぽを向いてるんじゃない」と怒られたものだ。もともとは「そっぽう」で、歳月とともに「そっぽ」に転化したと考えられる。『日国』によると、そっぽうの語源と歴史的仮名づかいは不詳とある。「そっ」を接頭語する説や「其方」あるいは「外方」から転じたなど、諸説があるようだ。
『日国』では最初に「頬(ほお)のこと」を挙げられている。「乱暴に、あるいは、ののしる気持でいう語。横っつら」と説明がある。「喧嘩といえばそっぽうをなぐるもの」というように用いる。となると、思い起こすのが「妾馬(めかうま)」だ。
 ここは古今亭志ん朝の噺を聴く。長屋に住む孝行娘の鶴が赤井御門守(あかいごもんのかみ)に見初められ、お屋敷へ奉公にあがった。やがて殿様の手がついて、世継ぎの男子を出生したので、鶴からお鶴の方に「出世」した。老母と暮らす職人の兄に会いたいというお鶴のひとことで、がさつ者の八五郎が屋敷に招かれた。
 大家から羽織袴を借りて参上したものの、言葉使いから所作、礼法などまったくわからないから失敗に失敗を重ねる。こういう状況での案内役は、だいたい重役の田中三太夫に決まっている。いわば殿様の秘書役で、三太夫の名前は現代でも使われている。『広辞苑⑦』には「華族や富貴の家の家事・会計などをつかさどるひとの異称。家令・家扶・執事の類」とある。英国風にいうならば、バトラーになろうか。「社長の海外出張で『三太夫役』を務めた」などと用いる。
 何もわからない無骨な庶民が殿様の屋敷に参上して、戸惑う滑稽ぶりは古今亭志ん生の十八番、「火焔太鼓」で古道具屋の主人が太鼓を持って、参上する情景にも少し共通している。
 三太夫から「頭(つむり)を下げろ」といわれて頭をこづかれても、「つむりなんて符丁を使うからわかんねい。頭(あたま)といってくれればわかるのに」と八五郎は息巻いている。殿さまから「面(おもて)をあげい」といわれても、どうしていいかわからない。
 殿様から「そのほうの妹、鶴が安産をいたし、世襲(よと)りじゃによって、予は満足に思うぞ。どうじゃ、そのほうは? 返答をいたせ。どうじゃ?」と声を掛けられても、話しの意味がわからないから、答えが出てこない。
 殿様は、不審げに「三太夫、その者はいかがいたした?」と尋ねる。
「なにをしておる。早く速答を打(ぶ)たんか」
 八五郎に顔を近づけて、催促するものだから、「そんなことしてかまわねェのかい?」といぶかしげに三太夫の顔を見つめている。「かまわんから早く打てェ」のひと言で、思いっきり三太夫の頬を引っぱたいた。
「無礼なっ! なぜ身共の面体(めんてい)を打つ」
 三太夫が怒ること、怒ること。
「面(つら)ァそばィ持ってきて、そっぽ打て、そっぽ打て、っていうものだから、張り倒したんだよ。ええ? なあにィ? なんかいうところか? ならそう言ってくれればいいのに」
 三太夫の「速答を打て」を「そっぽを打て」と聞き間違えたようだ。「早く速答打たんか」というのは、重ねことばだが、落語だから許されるだろう。
 大家に入れ知恵されているから、何でも頭に「お」を付け、最後に「様とたてまつる」で丁寧に返事をしているつもりだが、「お私は、お八五郎様と申したてまつりましてェ……」とやったものだから、殿様も本人も何を言っているのかわからない。
 八五郎のすぐそばに控える三太夫は気が気ではないが、殿様は「珍獣」でも見るかのように、ご機嫌で「捨ておけ、捨ておけ、苦しゅうない」と好き勝手にさせている。
 やがて酒肴の膳が用意され、ほろ酔い気分になった八五郎は都々逸(どどいつ)まで披露する。殿様もうれしかったのだろうが、八五郎もすっかりできあがってしまう。おそらく「殿様は俺の舎弟じゃないか」という気分だったのだろう。「おーいっ、殿公、どこか行こう」とすっかり友達気分。殿様も八五郎を気に入り、家来に取り立てる「出世物語」で、終わるのが普通。
 実は後段に噺の続きがある。侍に取り立てられた八五郎は、もちろん馬術の心得など無いから、後ろ向きに乗ったまま市中の見回りに出るが、どこへ行ったものだかわからない。馬は鞍上の人品と技巧を見透かしたのか、急に走り出した。折よく途中で馬術指南に出合い、「どちらへ」と聞かれたのに「前へまわって馬に聞いてくれ」というのがおち。「鰻屋(素人鰻)」と同じような結末だ。そこで初めて題名の「妾馬」につながるわけだ。
 五街道雲助の「長講 妾馬」と称する後談までを聴いたことがある。しかし残念ながらあまり興がわかなかった。何も弁えない職人が殿様にお目通りする際の行き違いと混乱、老母が初孫に恵まれた喜びの一方で、抱き上げることも叶えられない悲しみといった人情味の聞かせどころを聴いたばかりだ。満足感に浸った後なので、いくら「幕外(まくそと)」の演出とはいえ、いったん切れた緊張感はそう簡単には戻らない。

 漢字で「そっぽ」を書くと「外方」を挙げる辞書が多い。「外方滅法(そっぽうめっぽう)」は滅法を強めた言葉で「めったやたらに。めちゃくちゃに」の意味だ。ほかに外貌、容貌、卒方、顔面などを当てる文献もある。つまり、顔の様子だ。不思議なことに男性に用いる場合がほとんどで、「そっぽが良い」とは今でいうイケメンというわけだが、「そっぽが良くない」とはあまりいわない。
「紙入れ」という噺がある。「間男は亭主の方が先に惚れ」と古川柳にもあるが、ある夫婦は揃って、背が高く、そっぽがよく、気風(きっぷ)もいい、出入りの貸本屋の新吉を可愛がっている。亭主は「新吉はそっぽが良いから、もてるだろう」といって、紙入れをプレゼントした。おかみさんも初心な新吉に色目を使い、いい仲になる。
 このおかみさんが旦那の留守を幸いと新吉に手紙をやって、自宅に招き入れた。
「新さんはそっぽが良いから、若い娘でもできたんだね。わたしなんぞはおばあちゃんだから、もう嫌になったんじゃないのかい?」と、亭主を気にしておどおどする新吉を可愛がる。
 鰻や玉子を誂えて、いざ布団に入ろうとすると、表の戸をたたいて旦那がご帰還。あわてて履物を裏に回してもらい、新吉は一目散隋徳寺を決め込んだ。
 家に帰って「やはり、止しとけばよかった」と後悔しても遅い。その上紙入れを忘れてきたのに気が付いたから、もう寝られない。今では紙入れという言葉も死語に近い。財布のことだ。『広辞苑⑦』には「鼻紙・薬品・小楊子など外出の時に入用な物を入れて携帯する用具」とある。今の人なら、ウォレットとかポーチとかいうのだろう。まずいことに新吉の紙入れには、おかみさんからきた「誘いの手紙」が入っている。
 まんじりともせずに翌朝早くから、旦那の家に駆け付けた。もしばれていたら、すぐに地方へ逃げ出す覚悟だ。亭主の留守に若い男を呼び出すような強者のおかみさんだから、万事にぬかりはなかった。
「ちゃんと隠してあるに決まっているじゃないか」と新吉を安心させ、亭主にも同意を求める。
「そうとも。留守の間にかみさんを寝取られるような間抜けな亭主だもの、よしんば紙入れを見付けても、気が付くめえ」でおちになる。
 似たような噺がある。「風呂敷」で、こちらは、男が押入れの中に隠れるが、その前に亭主がどっかと座りこんで動かない。その前に亭主が座り込んで動かない。かみさんの兄貴分が来て、上手に亭主を風呂敷で包み込んでしまう。その隙に逃がすという滑稽噺だ。
 わが友人のシンちゃんは同じ名前でも、「紙入れ」のシンちゃんとはまったく関係はない。「間男」などとは縁もゆかりも無い。もしかしたら「間男」という言葉すら知らないのではないかと思う時もあるほどだ。(敬称略 2019・7・24)

◎次回の更新は8月7日の予定です。
筆者紹介
▽重金敦之(しげかねあつゆき)1939年東京生まれ。朝日新聞社、大学教授を経て、文芸ジャーナリスト。著書に『作家の食と酒と』(左右社)、『食彩の文学事典』(講談社)など多数。最新刊『淳ちゃん先生のこと』が
左右社から好評発売中。

登場人物紹介
▽シンちゃん 氏名、住所不詳。1947年東京生まれ。横浜市内の開業医(老年精神医学、音楽療法)。中国ウイグル族の詩歌を翻訳し、テニス、ワイン、バイオリンなど、幅広い好奇心の持ち主。筆者を「キョージュ」と呼ぶのには、敬愛と揶揄の意が込められている。敬虔なキリスト教徒で、最近リスボンからスペインの聖地、サンチャゴ・デ・コンポステーラへ巡礼した。