第28回 まくらとおち(さげ)の研究(承前)【最終回】

 演目によって、さげを自分流に変えて演じる人は多い。あまりにも結末が暗すぎて悲惨だと、救いがあるように脚色をする。「唐茄子屋政談」や「浜野矩随(はまののりゆき)」などがその例だ。
 グリム童話から三遊亭円朝(初代)が翻案したといわれる「死神(しにがみ)」も、演者によって数多くのさげがある。借金で首が回らなくなった男が生きる望みを失い自殺を企てると、死神に出会った。病人に憑(と)りついた死神を退散させる秘密の呪文を教わり、医者の看板を揚げて大儲けをする。しかし遊蕩三昧の末にまた一文無しに逆戻りしてしまった。気を取り直し再び医者になるが、金に目がくらみ死神との約束を破り禁じ手を使って大金を得たものだから、死神の逆鱗に触れ地下の洞窟に連れて行かれる。
 たくさん並んだ蝋燭の中で、消えかかっているのがお前の寿命で、他の蝋燭に移せば助かるとのご託宣。震える手で炎を移そうとする。「ほら、消えた」で失敗に終わるのが標準のパターンだ。いったんは成功して外へ出た途端に風が舞って消えたり、「明るいから、蝋燭はいらねえ」といって自ら消す人や、「奥さんに吹き消される人」「自分のくしゃみで消す人」「誕生日だからと、バースデーケーキに立てて、吹き消す人」など多くの「さげ」の変種、亜種が考えられた。また高座の照明を暗転させるなど、いろいろと工夫を凝らすケースもある。
 SF小説風の異次元に遊ぶ奔放さがあり、洒落た掌編小説で、「死」に向き合う人間の欲望と思慮の本質に迫る「落語らしからぬ」噺だ。落語は横町の隠居と長屋の八さん、熊さんだけの世界ではないことを教えてくれる。

 さげが難しいのは、今ではあまり流行らないが三題噺だ。寄席で客から題を三つ貰い、それを盛り込んでその日のうちに一席の落語に仕立てる。人物、品物、事件(場所)の三つから選び、内一つはさげに使わなくてはいけない。三題噺の中で、一席の落語として今にまで残っているのは、「芝浜」「大仏餅」「鰍沢(かじかざわ)」などがある。
 酔っ払い、芝浜、財布の題からまとめたのが「芝浜」といわれる。有名な「夢になるといけねえ」のさげも果たして良いかどうかは、意見が分かれるところだろう。三つのキーワードを無理矢理一つの噺にまとめるのだから、三題噺はどうしてもさげに無理が生じる。
 「鰍沢」のように長尺でありながら、おちは「一本のお材木(お題目)で助かった」と実に単純な地口でおとす。柳家三三の「鰍沢」を日本橋の三井ホールで聴いたことがある。噺の途中で地震が起き、しばしのあいだ場内がざわついた。三三は慣れたもので「皆さま、そのまま、そのまま、動かないでください」と落ち着いていた。やがて、揺れも治まり平静に戻った。三三は「おかげさまで、無事に治まりましたようで……」と何事もなかったかのように噺を続けた。
 私は、よほど「お題目のおかげ!」と半畳を入れようと思ったが、さげを明かすのはマナー違反だし、「セコキン」(嫌な客)と思われるのは本意ではないから、喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。やはり他の客に迷惑を掛けるのは慎みたい。

 シンちゃんは、すっかり落語の魅力に憑りつかれたようだ。盛んにCDやYouTubeで、聴きまくっている。
「通人は吉原のことを『なか』という」
「隅田川は大川と呼んだほうが粋だ」
などといっては行くさきざきで落語の魅力を説いて回っている。覚えたばかりだから話したくてたまらないらしい。「紙入れ」の与太郎状態。「台のもの」というのは「料理屋から台に乗せて遊女屋に運ばれてくる食事のこと」とか、うるさい、うるさい。
「落語のまくらとおちを研究すると、エッセイを書くときの参考になりますね」
 シンちゃんが、いかにも納得したという顔で、同意を求めてきた。その通りだ。多くのマスコミ志望者に文章の書き方を伝授する「私塾」が盛んらしい。私は30代の頃から、大学生に文章の書き方を教えてきたが、確かに落語の構成は、文章を書くときに大変参考になる。特に入社試験での作文には効能が顕著だ。
 ユニークなまくらとおちに関連を付けて、登場人物を自在に動かせれば、それだけで得点を稼げる。最近の傾向は人の目を惹く書き出し(まくら)をあらかじめ、用意しておいて、どんな題が出てこようともそれを使うのだという。なるほど、なるほど。高レベルの裏技かもしれないが、それも四十八手の一つだろう。

 シンちゃんは「クイズを考えました」といって、自慢げに差し出してきた。作文で誤字脱字というのは命取りになるから、まず手始めに漢字の書き取りから考えたという。

《問い》 次の落語に出てくるカタカナの言葉を漢字で記してください。

 ① モウキのフボク (「花見の仇討」「高田馬場」)
 ② エンジの鐘の音が陰にこもって…… (「お菊の皿」)
 ③ テンテイに翳りが見える (「ちきり伊勢屋」)
 ④ 物事のアイロとリカタがわからぬ (「蝦蟇の油」「高田馬場」)
 ⑤ センダンの木の下にはナンエンソウという草が生える (「百年目」)
 
《答え》
① 盲亀の浮木。仏教用語。大海の底に長いあいだ生きながらえていた目の見えない亀が、海水に浮かぶ木の穴に入ることができなかった、という話しから、千載一遇の好機、あるいは、仏教の教えに出合うのはなかなか難しい意味でも用いられる。落語や講談では、「ここで逢うたが盲亀の浮木、優曇華(うどんげ)の花待ち得たる今日ただいま、……」と、敵討ちと出会う場面で使うことが多い。優曇華の花は、仏教では三千年に一度しか咲かない珍しい花だ。

② 遠寺。ただ遠い寺の鐘の音、の意味。大体もの寂しい時か、おどろおどろしい情景に使う。「お菊の皿」には必ず出てくる。番町だから、寛永寺でも良いはずだが特定してない。「野ざらし」(向島)では、浅草寺とか寛永寺などと多くは明示される。

③ 天庭。眉と眉との間。額を指す。「ちきり伊勢屋」の若主人は有名な易の名人から「あなたは、来年には死ぬ」といわれる。先代がむごい商売をして、店を広げた報いだという。番頭と相談して、恵まれない人のために功徳を施し、自らも遊びほうけて当日を迎えるが、死なない。多くの人を助けたために死相が消えたという。若主人が使ったお金で命拾いをした人との奇縁で、人手に渡っていた生家の質店を再興する。

④ 文色。「あやいろ」がつまったからと考えられる。文色も理方も『広辞林④』には載っていない。
 落語は、講談から派生、翻案、脚色した作品も多い。「蝦蟇の油」の口上に出てくる。「蝦蟇の油」と言うのは、切り傷から潰瘍、痔疾にまで利く家庭用の膏薬で貝殻にいれて路上で販売していた。一種の「啖呵売(たんかばい)」の口上だ。筑波山ガマ口上保存会があり、つくば市の無形民俗文化財に認定されている。大道芸として認知されたということだ。落語の口上とは、微妙に違っている。
 志ん朝の「高田馬場」を聴く。
<さあお立ち会い、ご用とお急ぎでない方はよォく見ておいで、遠出山越し笠の内、物の文色と理方がわからぬ。山寺の鐘は轟々と鳴るといえども、法師一人来たりて鐘に撞木を当てざれば鐘が鳴るやら撞木が鳴るやら、とんとその理方がわからぬ道理だ。>(ちくま文庫)
 啖呵売は路上で品物を並べて売ろうと言うのだから、まず人を集めなくてはならない。お客は最初のうち、恐る恐る遠巻きにして、眺めているだけだ。そこで呼び込まなくてはならない。新入りのお笑いタレントが最初にやらされる「つかみ」と同じだ。
「遠くの方から眺めているだけでは、物の容子も理屈もわからないから、もっと近くに来て、じっくり眺めてください」
といっているのだ。文色は、物の道理、区別の意味。理方は理屈、理論。どうしてこんな小難しい言葉が用いられるようになったのか、わからない。

⑤ 栴檀 南縁草。「百年目」は、堅物で通っている大店の番頭が、芸者衆や幇間を連れて向島の花見に出かけ派手な遊びをしていると、ばったり旦那と遭遇してしまった。「これはお久しぶり、ご壮健で何より」などとしどろもどろになって平伏してしまった。遊びっぷりはかなり年季が入っている様子。番頭は、「これで私もお払い箱」とふさぎ込んで居たところ、翌日になって、主人から次のようにいわれる。
「店の金を使って、遊んでいるのかと思って調べたらそうではない。感心しました。昔、中国では栴檀の木の下に南縁草という汚い草が生える。そこで、南縁草を刈り取ってしまったら、栴檀が枯れてしまった。南縁草は栴檀の善い肥料になっていた。また栴檀は、木の葉から露をお返しに南縁草へ送る、つまり持ちつ持たれつの関係で、旦那と番頭も同じこと。約束通りに来年は店を待たせるから、頑張ってくれと激励される」
 さげは主人から、「向島で会ったとき、私に『お久しぶり』といったのは、どういう意味だ」と聞かれ、「もうこれで店には居られない。百年目だと思いました」と答える。
 もちろん「栴檀は双葉より芳し」の栴檀で、白檀の異名だ。「栴檀は発芽の頃から良い香りがするように、大成する人は子供の時から並外れた才能があるものだ」という俚諺で知られる。

「2020年度から高校の国語の授業内容が激変すると騒がれていますが、落語を聴くのも、立派な国語教育です」
 シンちゃんの発想もとうとうここまで来たか、と感慨深い。
 必修の「現代の国語」は、小説などのフィクションや詩歌などは入らず、法律や契約を巡る実用的な文章を中心とした教材で教科書が作られようとしている。
 いま、我々が暮らしている時代は、言葉と情を徐々に省略していく時代といってもいい。例えば電車の切符を買うにしても、昔は「東京駅まで大人2枚子供1枚ください」と口に出して買ったものだが、今はすべて自動券売機になった。大きな料金表が記された路線地図から行き先と料金を探し出して、お金を投入しなくてはならない。スーパーやコンビニで品物を買う場合も同じで、少しも誠意がこもっていないマニュアル化された言葉が通用している。それでも会話があれば良いほうで、終始無言、カードで決済し一言も発しないこともある。
 トイレの男女の別も文字ではなくイラストレーションというかピクトグラムで表示されている。一昔前は女性と言うと、スカートで表示されたものだ。昨今のご時世では、スカートをはかない女性も多いのではあるが。
 そう考えると落語とは、究極のアナログが生み出した文芸作品といえる。別に「イソップ童話」にあるような道徳的教訓を落語に求めようとは思わないし、勧善懲悪的な単純な物語でもない。「忠臣蔵」にあるような滅私奉公による忠義の押しつけもない。落語は言葉の芸で、人間が持つ志と情の径行と迷走に加わる両者の惑乱が主題だ。さらに「人間とは何か。都市とは何か」を考えるヒントが落語の中に秘められている。この世の中、善人ばかりでは成り立たない。悪人は悪人なりに存在価値があるのだ。私がここで指摘する悪人とは、組織に納まらず、すこし緩い人をも含むのはいうまでもない。不倫は無論のこと、妻を売春させる不届きな亭主もいる。人間社会の光も闇もある。都市も同じことで、「暗黒部分」のない都市なんかは存在しない。
 新しい現代国語では、実用的な文書、例えば駐車場の契約書を読み解くような面が重視されるらしい。小説などを読む時間があったら、契約書や自治体の景観保護のガイドラインを勉強したほうが良いという考え方がはびこり始めている。
 デジタル万能の時代にあって、典型的なアナログ文化の粋を追い求めれば、落語に新しい光が当たっていくような気がする。庶民の娯楽として江戸時代後期に生まれた落語が、今や人生の副読本的にもてはやされている風潮こそが、まさに「落語」そのものかもしれない。珍しくシンちゃんと私の意見が一致を見た。(完 敬称略) 


◎長らくご愛読いただきました「鯉なき池のゲンゴロウ」は、今回をもちまして終わりといたします。また装いを一新して、来春にはお目に掛かりたいと思っております。その時にシンちゃんも顔を出すかどうかは、「神のみぞ知る」と言うことにしておきましょう。
筆者紹介
▽重金敦之(しげかねあつゆき)1939年東京生まれ。朝日新聞社、大学教授を経て、文芸ジャーナリスト。著書に『作家の食と酒と』(左右社)、『食彩の文学事典』(講談社)など多数。最新刊『淳ちゃん先生のこと』が
左右社から好評発売中。

登場人物紹介
▽シンちゃん 氏名、住所不詳。1947年東京生まれ。横浜市内の開業医(老年精神医学、音楽療法)。中国ウイグル族の詩歌を翻訳し、テニス、ワイン、バイオリンなど、幅広い好奇心の持ち主。筆者を「キョージュ」と呼ぶのには、敬愛と揶揄の意が込められている。敬虔なキリスト教徒で、昨年リスボンからスペインの聖地、サンチャゴ・デ・コンポステーラへ巡礼したが、近くスペインのサンセバスチャンへ詣でる。早速バスク語のテープを聴いているらしい。