第17回 同僚が路上に寝そべり駄々をこね始めたら -作家・梶井基次郎に学ぶ

 梶井基次郎といえば檸檬である。檸檬といえば梶井基次郎である。と書き出してみたがさすがに無理があるか。キリンレモン、レモンサワーの次くらいに梶井基次郎である。レモネードより梶井基次郎である。

 梶井の作品を読んだことがなくても、梶井の名前と檸檬のタイトルくらいは聞いたことがある人は多いだろう。

 梶井は1932年に肺結核により31歳で死去する。若くして生涯を閉じたため、残した作品は短編わずか20編ほど。ほとんどが同人誌に発表されたもので、生前に発売された単行本は一冊のみだ。ほぼ無名のまま世を去ったが、死の間際に小林秀雄などが絶賛したことから没後に多くの作家に影響を与える。戦前、戦後と継続して支持され、梶井について書かれた評論やエッセイは1000を超える。

 「檸檬」は原稿用紙にしてわずか13枚の短編だ。ざっくり説明すると、「私」は「えたいの知れない不吉な塊」を抱え、レモンを持って丸善にたどり着く。積み上げた画集の上に爆弾に見立てたレモンを置き、そのまま立ち去るという内容だ。本当にざっくりしているが。

 こんな繊細なことを思いつく人はどんな人だろうかと誰もが思い、誰もが梶井の写真を見て驚いただろう。見た目は全く繊細そうでないのだ。


 数多くの言論人が梶井の外見に言及しているが総じて、ひどい扱いである。木訥としたとかワイルドとかでなく、どいつもこいつもそろって醜男扱いである。顔面偏差値が平均よりも梶井寄りの私としては「おまえ、自分の顔を鏡で見てからいえるのか」と叱ってやりたくなるが、彼らは鏡を見てからでもおそらく言えるのだろう。梶井、かわいそう。

 ビジュアルについてはいじられ放題だが、作家で評論家の小谷野敦は自身のブログで谷崎潤一郎と並び、梶井基次郎ほど批判されない作家もいないのではないかと指摘している。梶井が残した作品数が少ないことや決してメジャーとはいえない作家であることを差し引いても批判が少ない。

 文学の素地がない私などは、批判が少ない理由をビジュアルが嫉妬されないからではとうがった見方をしてしまう。クレオパトラの鼻が3センチ高くても歴史が変わったかどうかはわからないが、梶井基次郎が3割増しでイケメンだったら歴史は変わっていたのではないかとマジで思っている。

 梶井の素行について言及されることもあまりないのだが、梶井は周囲にいたらおそらく超迷惑な存在だろう。とにかく酒癖が悪いのだ。

 今回はおそらく誰もが経験がある状況を想定して、梶井から学びたい。「えっ、俺、シラフなんだけど、この人なんで、体がこんなに前後に揺れてるの。パンツのチャック2時間前から開きっぱなしだし」という状況だ。よくわからないか。こちらはほとんど呑んでいないのに相手が泥酔したときの対処法を見ていこう。

 梶井は大阪出身で大阪府立北野中学をへて、三高に進む。23歳の時に東京帝国大に入学、上京する。

 友人で後に小説家となり野間文芸賞や読売文学賞も受賞する外村繁は上京後の梶井を「梶井基次郎のこと」の中でこうふり返っている。

梶井は私達と銀座のライオンや、プランタンや、本郷の百万石などで酔ひ痴れ、新橋の橋桁を渡つたり、電車の運転手の名札を奪つて、運転手に追ひかけられたり、相変らず馬鹿気たこともしてゐたが、最早京都時代のやうな、あの大童になつて、苦悩と、自暴と、後悔の間を彷徨するやうなことはなかつた

 新橋の橋桁を渡つたり、電車の運転手の名札を奪つて、運転手に追ひかけられたりってかなりヤラかしている感もあるが、京都時代に比べるまでもないとは京都時代とはどんなものだったのか。嫌な予感しかしない。


 梶井を語る上で欠かせないのが外村と同じく後に作家になった中谷孝雄だ。中谷がなぜ重要かというと、中谷は全く酒を呑まないのである。つまり、梶井の醜態を終始ひとり客観的に眺めていたのである。中谷は『梶井基次郎』(筑摩書房)の中で、「梶井も私と一緒だと安心して羽目を外すのではなかつだだらうか」と述懐しているが、「羽目を外すってこういうことかよ」というくらい、羽目を外している。

 例えば、梶井は21才の頃、夏に蛍を見に行こうと仲間たちで出かけるも蛍など全く見ずに呑み屋で呑めや歌えやの宴席になる。ここまではよくある話だが、当然、ただの宴席ではない。

床の間の懸物に唾を吐きかけて廻ったり、盃洗で男の大切なものを洗つて見せたりして、限りない狂態を尽くしたが、帰りの電車に乗ってからも、「蛍を見なかった。もう一度引返さう」などと叫んで、大あばれをした

 突っ込み所が多すぎて当惑してしまうのは私だけだろうか。もちろん、このときだけ常軌を逸してしまったわけではない。

梶井の酒の上の乱暴は、この頃からいよいよ激しくなり、甘栗屋の釜に牛肉を投げ込んだり、支那蕎麦屋の屋台をひっくり返したり、いささか狂気じみて来た

 いささかどころではない。おまけに梶井は翌日になると全く記憶がない。中谷に蛮行を聞かされると、とたんに不機嫌そうになり、「君からそんなことを聞かされると、今度はそれ以上のことをしてやらうといふ気になるんだ」と反省ゼロである。

 酔っぱらった梶井の十八番はだだをこねることだ。ある日、中谷を含め3人で呑みに行った帰りに事件が起きる。

「おれに童貞を捨てさせろ!」そんなことを怒鳴りながら梶井は、祇園石段下の電車通りへ大の字にねて動かうともしなかった。酒を飲んでゐない私は、いささか躊躇しないでもなかったが、-中略-二人で梶井を起してすぐ近くの遊郭へ連れていつた。ところが梶井は、女がくると、げろを吐いたりして、さんざん女をてこずらせた。いくらか故意に女をいやがらせてゐるような様子も見え、どうやらそれが最後の抵抗であつたらしいが、その抵抗もやがて崩折れてしまつたやうだ

 面倒くさい、こちらが、シラフでなくても面倒くさい。自分で童貞を捨てたいと大通りで寝そべり駄々をこね始めたのに、ゲロ吐いて、パンツ脱がない徹底抗戦ぶり。北方謙三先生ならば「黙ってソープに行け!」と一喝だが、梶井の面倒くささはこれでは収まらない。

遊郭での一夜の経験は、梶井を非常に後悔させたらしく、その後よく彼はその夜のことを呪ふやうな口吻をもらした

 一体なんなんだお前はと憤りたくなるが、中谷はどうしたか。

「純粋なものが分らなくなった」とか「堕落した」とかいふ彼の言葉には、私は全く取合はなかった

 酔っぱらいには取り合わないのが一番である。付き合わないわけではないが、まともに受け止めず、ほどほどに付き合う。素晴らしい。前出の外村は「澪標」の中で中谷について「中谷は全く酒を嗜まない。が、私達の酒がどんなに長引いても、中谷がゐなくなるやうなことはない」と語っている。梶井たちが酔っぱらって商家の立て看板を遠くへ運び去ったりするのには付き合うが全ての蛮行に加担するわけではないし、面倒くさければ突き放す。こちらが酔っていないときに、べろべろになっている同僚にどう処すか。お手本のような振る舞いである。

 余談だが、梶井を面倒くさい男と指摘してきたが、実はその面倒くささ、生真面目さを持ち合わせていたからこそ、後世の我々は彼を知ることになった。

 中谷は三高時代をふり返り、試験の際に自分は60点(及第点)で通過すれば良いと考えるのに対して梶井は常に百点を目指したとしている。完璧主義の梶井は試験前に参考書を買いあさったり、ノートをくまなく集めたりするが、悲しいかな材料を揃えるのに必死になりすぎる。勉強をし始めた頃に試験をむかえるため、中谷と点数が大して変わらなかったという。

 顔に似合わず食べ物や持ち物にもこだわりがあり、リプトンの紅茶を飲み、銀座のカフェでビフテキを食べた。フランス製の石鹸やポマードを好んだ。あのビジュアルでポマードかよと思うが、梶井の髪はポマードで固められ、その一本一本の筋も際立つほど、きれいに櫛が入れられていたというから梶井の細やかさがわかる。

 完璧主義、非凡人主義が学生生活では空回りした感もあったが、小説を書くようになってからはプラスに働いた。一作ごとに妥協せずに完璧を目指す姿勢が短い生涯にもかかわらず梶井の名を文学史に残すことにつながったのだ。

栗下直也(くりした・なおや)
1980年東京都出身。業界紙記者の傍ら、書評サイト「HONZ」や雑誌『本の雑誌』、週刊誌に書評を執筆 する。新橋系泥酔派を自認するが、酒場詩人は目指していない。辻潤の研究がライフワーク。
Twitter @naokurishita