第18回 酒席でトラブルを起こしても、くじけずに生きるには ー梶原一騎に学ぶ

 「猿は木から落ちても猿だが、代議士は選挙に落ちればただの人だ」。自民党結党の立役者のひとりで長く副総裁を務めた大野伴睦の言葉を聞いたことがある人は多いだろう。 

 議員は選挙に落ちれば即座に職を失うわけだが、21世紀の今、サラリーマンも安穏といしていられない。サラリーマンがローリスクローリターンの時代は終わり、大手企業といえど、朝起きてみたら、自分の在籍する会社がどこか他の企業と統合したり、外国資本になったりなんてのは荒唐無稽な話ではない。会社が合併すれば部門などの重複を省くのにリストラを実施するのが常だし、あなたも候補になるかもしれない。

 そのような大きな経営戦略の転換がなくても、コンプライアンスが徹底される今、少しでも問題を起こせば、すぐにでも閑職に飛ばされる。
 
 左遷されれば昨日まで慕ってくれていた部下も遠ざかるかもしれない。「課長と呑むのマジで楽しいです!」なんていってた若手はこちらのメッセンジャーやらLINEやらを既読スルーして新しい課長と楽しげに呑みに出かけるだろう。「なんて非情な奴だ」と怨んではいけない。彼は確かに「課長」と呑むのが楽しいのだ。今回は人が思わぬきっかけで転落したときにどのような心境になるのか、酒や人との付き合い方がどう変わるのかを学んでいきたい。
  
 梶原一騎が日本を代表する漫画原作者であることに異論はないだろう。『巨人の星』、『あしたのジョー』、『タイガーマスク』、『空手バカ一代』などを世に送り出した。平成生まれでも、これらの漫画のタイトルくらいは聞いたことがあるだろう。
 
 恐ろしいことに梶原はこれらをほぼ同時期に手がけている。『巨人の星』、『あしたのジョー』は「少年マガジン」で併行して連載が走っていた(『巨人の星』が1966-71年、『あしたのジョー』が68-73)。現代では考えづらいが同じ少年誌上に梶原が超人気作の二つの原案をつくっていたのだ。『巨人の星』の連載が終わっても、マガジン誌上では『あしたのジョー』と『タイガーマスク』(「ぼくら」で始まり途中から「少年マガジン」に移った)、『空手バカ一代』と複数作をてがけた。
  
 そのような状況で他誌も含めると十誌近く週刊誌連載を抱える身だから日常は多忙だ。時には右手に鉛筆、左手に箸を持ちながら原稿を書く日々を送ったが、決して徹夜作業はしなかったという。
  
 健康に気を遣っていたわけではない。『わが懺悔録』(こだま書房)の中でその理由をこうふり返っている。

理由は単純。はやく仕事を片付けて、銀座に行きたかったから。夜を徹して仕事するなどという殊勝な心掛けは、およそオレの性分とは無縁だった。
  
 遊びが仕事の原動力というのは理解できるが、梶原の場合、銀座がオレを呼んでいるとばかりに、「銀座裏の皆勤賞男」と呼ばれるほど日参していた。
  
 「正真正銘、あそこは私の応接間なのである」(『劇画一代』、講談社)とまで豪語している。仕事のこみいった話もしていたようだが、呑みながら、難しい話ばかりするわけがない。
 
 1970年代の全盛期が過ぎても、梶原ほどのビッグネームとならば周囲が放っておかないし、下にも置かないもてなしようだろう。「ムードだけの取り巻き連とのだらだらハシゴ酒」(同)が夜な夜な繰り広げられ、数百人のクラブの女性と夜をともにしたという。
  
 毎晩のように銀座に繰り出していた梶原の人生が暗転するのは、突然だったが梶原の日々の振る舞いからすれば必然だったのだろう。1983年5月25日に逮捕される。直接の容疑は、少年マガジンの副編集長に対する暴行傷害容疑だ。
 
 梶原の『地獄からの生還』(幻冬舎文庫)によると、このような経緯だ。銀座の高級クラブで梶原は副編集長に「梶原さんがモテるといっても、吉行淳之介さんほどじゃないでしょ」と軽口を叩かれる。後述するが確かに見た目からして吉行の方がはるかにモテそうなのだが、酔っ払っていたこともあり、テーブル越しに梶原が裏拳を食らわした。

 裏拳と言っても梶原は素人ではない。身長180センチメートル、体重90キロ。空手五段、柔道二段。痛くないわけがない。相手は剣道三段の猛者だったが、竹刀がなければただの人、殴られ失神してしまう。殴っただけでなく、蹴りまでいれたことことをうかがわせる描写も著作によってはある。もう、捕まって当然である。
 
 とはいえ、大先生と編集者。その場で話はおさまったし、「作家と関係者のままあるケンカ」と梶原は思っていたようだ。どう考えても「ままあるケンカ」ではないが、約半年後に突如この事件が蒸し返される。
  
 梶原は著作の中で、自身が覚醒剤を使用しているとの密告があり、警察がどうしてもつかまえたいがために、講談社側に被害届を出させたとふり返っている。
  
 チクリくらいで警察が動くのかと思うのだが、いかんせん、梶原は敵が多い。素朴な文学青年が文学の道を志し、漫画原作者としてヒットメーカーの階段を上り始めると、ありがちだが、尊大になった。『あしたのジョー』でタッグを組んだ漫画家のちばてつやは夜の街で偶然出会った梶原に知人を紹介したところ、「だれ、あんた」とにべもない対応をされたという。
 
 そもそも、性格がどうこうの前に、梶原は見た目が恐い。言葉は悪いが覚醒剤をやっていそうかといわれたら、やっていそうな気もする。
 
 インターネットでイメージ検索して欲しいが、ヤクザっぽい。ぽいというか、どう見ても本職である。
  
 実際、「あちら側」とも付き合いが深い。梶原は極真空手の大山倍達と義兄弟の関係にあった。極真空手の顧問も長く務めていた。梶原が二十歳頃に「素手で牛を殺す男がいる」と米国帰りの大山の噂を聞き、会いに行ったのがきっかけだ。その大山は柳川組の元ドンである柳川次郎と兄弟関係にあったので、梶原と柳川は大山を介してまわり兄弟関係になる。柳川組は「殺しの柳川」と呼ばれ、8人で人質になった仲間を助けに100人の組事務所に殴りこみに行くなど山口組の中でも最強の武闘派と呼ばれた。
 
 牛も人も殺しかねない二人と近いと聞けば、梶原がいくら傲慢であったとしても誰も手が出せない。梶原自身も前述したように空手、柔道の有段者である。若い頃、父親が死に、一家の食い扶持を稼がなければならないときに、蒲田でバーを経営していたが、地回りのヤクザを兄弟で撃退した過去もある。本人も腕に覚えがある上に、ボディーガード代わりに梶原の周りには空手の猛者が何人かついている。
  
 あるとき、銀座のクラブのママを梶原に奪われた某企業の社長が暴力団に「梶原を懲らしめてくれ」と依頼したが梶原の背後を知り、断ったことがある。社長は結局、自らママのマンションに乗り込み、梶原と別れることを迫る。拒否されたたため硫酸を浴びせかけ刑事事件に発展したため、全容が明るみになった。

 取り巻く環境がそのような状況なのだから、本人が意図しないでも相手を威圧することになり、怨みを方々に買う。梶原は副編集長暴行容疑で捕まると、いくつか別件でも容疑をかけられる。

 そのひとつが、「アントニオ猪木監禁事件」だ。ホテルの一室に猪木を呼び出して、取り巻きと一緒に圧力をかけたというのが逮捕容疑だ。普通に戦ったらアントニオ猪木の方が強そうだが、話し合いの最中に元ヤクザの取り巻きが部屋から、どこかに電話をかけて「拳銃一丁、もってこい!」と叫ばれたら、確かに恐い。元気があっても拳銃は恐い。
  
 溺れた犬は棒で叩けとばかりに梶原はマスコミにもメッタ打ちにされる。梶原は映画制作に携わり女優との交友もあった。捕まる前は梶原の才能に女性が惚れたのかとかみんな渋々自身を納得させていたが、捕まるや「あんな外見なのに女優とつきあえるはずがない。無理やり犯したにちがいない」となぜか週刊誌上では強姦魔扱い。

 これは逮捕前の梶原の作風の影響ももあったのかもしれない。スポ根漫画ははるか昔の話で、空手家を主役に据えながら、登場する女性がことごとく監禁され、裸にされた挙げ句、鞭でびしばし打たれるのがおきまり。裸にして筏にくくりつけてアマゾン川を流すとか、どんな放置プレイだよと突っ込みたくなるSっ気全開のため、記者たちも妄想を膨らませてしまったのだろう。とにもかくにも、一夜にして稀代の悪になってしまったわけだ。梶原一騎が漫画史に大きな爪痕を残しながらも最近までその功績に言及されにくかったのは、これら晩年の騒動が大きいだろう。確かに見た目は恐いけど、あんまりである。

 二カ月して釈放されると、当然、環境は激変している。逮捕当時は連載を5本抱え、原稿執筆だけで月収100万円程度を稼いでいたがどうなったか。

逮捕されるまで朝から鳴りっぱなしだった電話も、パッタリこなくなった。連載は全部打ち切られていた。ヒマだ。なんとなく面白くない。毎晩、酒を飲みに出かけた。(『わが懺悔録』)

 置かれる立場が変わっても、行動はあまり変わらないのだろうか。結局、呑みに行くのかよ、反省してないのかよと思うも、どうやら少し様子が違う。

「銀座には行かなかった。マスコミでコテンパンに叩かれたオレだ。顔を出せば店に迷惑をかけると思った

 梶原は馴染みのクラブから遠ざかり、ホテルのバーに夜な夜な入り浸った。山の上ホテル、ホテルオークラ、帝国ホテルをハシゴする。ハシゴするのはクラブでもバーでも変わらないが、理由は違った。クラブはいろいろな女性を触ったり口説いたりするためだが、さすがに事件がこたえたのか、バーでは他者の目が気になるらしく、場を移した。さすがの梶原も参っていたのだろう。この当時のことをいくつかの著作で明るくふり返っているが、かなり弱っていたことが分かる。

 大体私は酔っぱらいたい時はドライ・マティーニを飲む。それも結局は一〇杯くらいで終わる。銀座の酒というのは飲むというよりもむしろ、女の子達と騒いでいる方が主で、五軒くらいを廻り歩いても、考えてみるとボトル一本くらいしか飲んでいなかった。ー略ー大体がバーテンも無口な者が多いときているから私も黙々と飲む」(『地獄からの生還』)

 こうした事件を起こせば全ての人がそっぽを向き、一人寂しさをかみしめると思われるだろう。ただ、梶原は寂しくはなかったと書いている。寂しいとか悲しいは自分に甘えている段階であり、ばかげたことをやらかしたという感覚だったと。
  
 寂しくなかったのは、暴行やら監禁やら強姦やらと世を騒がしながらも、周囲の人が完全には離れていかなかったからかもしれない。梶原は、もともと冷たくない者は、何があっても、やはり冷たくないと結論づける。女性関係にしても「手のひらを返して寄りつかなくなった女もいたが、やさしく母性本能を発揮してくれた女性もいた」とか。

梶原は反省を込めてこう書いている。

出版関係の世界に限らず、多方面の交友関係の重要性を身にしみて感じた。人間は明日は闇なのだから、いろんな人間と接触しておくべきだと思った。一本だけの橋にかたくなにしがみついていると、その橋が落ちてしまうと底に沈んでしまう。普段からの、打算のない交友関係がいかに必要かということだった。忙しい時でも、ある程度の自己犠牲を苦にしない心のゆとりが、打算のない仲間意識を強めていくのだろうー略ー締め切りに追いまくられた忙しさを理由にして、大切な人間関係を壊してしてしまっていたかも知れない(『地獄からの生還』)

 現代でもよく耳にする助言だろうが、35年前に苦境に陥った梶原の発言だけに心にしみる。何だか今回はいい話になってしまったかも。
 梶原は事件から3カ月もたたない8月初旬に膵臓炎が発覚。奇跡的に回復するも、1987年1月21日に心不全で50歳の若さで亡くなる。


栗下直也(くりした・なおや)
1980年東京都出身。業界紙記者の傍ら、書評サイト「HONZ」や雑誌『本の雑誌』、週刊誌に書評を執筆 する。新橋系泥酔派を自認するが、酒場詩人は目指していない。辻潤の研究がライフワーク。
Twitter @naokurishita