第20回 泥酔しようが、やるときはやるー伝説のキックボクサー・藤原敏男に学ぶ

 1960年代末から70年代初頭にかけ、日本列島はキックボクシングブームに沸いた。ブームの立役者である沢村忠は「キックの鬼」と呼ばれ、野球の王貞治、長嶋茂雄、相撲の大鵬に匹敵する子ども達の憧れだった。 

 沢村はレコードデビューも果たし、少年誌の表紙も飾った。今考えると、ひげ面の角刈りのおじさんが表紙でほほえんでいる姿はいささか不気味であるが、そんなことを感じさせないほど沢村の人気は凄かったのである。私が小学生だった80年代ですら沢村の代名詞である「真空とびひざげり」は死語になっておらず、廊下で真似する子どもがいた。東京都練馬区という田舎の怪現象かもしれないが。
 
 それほどの人気を誇ったキックボクシングも人気が出たが故、団体の離合集散を繰り返し、表舞台から消えたのだが、ブーム末期に登場したのが藤原敏男だ。
 
 藤原は1969年に21歳でジムに入門。71年には全日本キックボクシング初代ライト級王座を獲得。74年には、元プロボクシングの世界王者で「シンデレラボーイ」と呼ばれた西城正三との対戦も話題になったが、藤原を伝説のキックボクサーとしたのが78年。タイのモンサワン・ルークチェンマイにKO勝ちし、ラジャダムナンスタジアム・ライト級王座を獲得する。ムエタイ500年の歴史で初の外国人王者となった。
これは日本人には想像がつかないかもしれないが、とてつもなくすごいことなのである。今でも藤原はタイでは国賓級の扱いで、空港にはレッドカーペットが敷かれ、税関もそのままスルーできるとか。まさに「生ける伝説」と呼ぶにふさわしく、格闘技界でも神様あつかいで、「400戦無敗の格闘家」であるヒクソン・グレイシーは藤原を見つけると遠くから走って挨拶にきたという。
 
 海外で評価されながらも、日本では過小評価される人物は少なくないが、藤原も一人といえよう。藤原の場合、いかんせん、時代が悪かった。外国人王者になった78年は、沢村忠がけん引したブームは過去のものとなっており、90年代の空前の格闘技ブームにはあまりにも早かった。
 
 と、ここまで読んだ、賢明な読者はお気づきだろう。今回はここまで約850字を費やしながら、一澪も酒の話が出てこない。全くもって、偉人がその時も、あの時も呑んでいない。普段は、酔って殴っただの留置所に入れられただの公序良俗に反する記述しかないだけに、おいおい大丈夫かという声も聞こえてきそうだが、安心して欲しい。藤原は生粋の酒呑みなのである。『吉田豪の空手★バカ一代』によると、例えばこんな感じだ。

―藤原先生はどれくらい飲むんですか?
藤原 平均10時間飲んでるね。
―え、それは週にどれくらいのペースで?
藤原 毎日。(以下略)

 毎日10時間。子どもの睡眠時間並である。それもいつも昼の12時から呑み始めるとか。実際、日刊SAPの記事では「居酒屋でインタビューを行うことにした。濃いめのハイボールを3杯同時に頼み、8時間ぶっ通しで飲んでケロっとしている」ともある。
 吉田のインタビューに戻ろう。

―藤原先生はお酒での失敗ってあります?
藤原 酒の失敗がほとんどですよ。いまはケンカを売ることも買うこともないし、乱暴な言葉を使うわけでもないけど、怖くて近寄れないって言われた。俺と佐山(※著者注・佐山サトル、初代タイガーマスク)があちこちで暴れ回ったのもみんな噂で知ってるんだね。

 知ってるんだね、じゃない。ただただ酒呑んでいるだけで近寄れないってどんだけ恐れられているんでしょうか。和田アキ子か。

 一日の半分近くを酒漬けの藤原だが、心に響く発言もある。

俺は酒飲むのも一生懸命、仕事も練習も一生懸命、飲むのも一生懸命、女を口説くのも一生懸命。100%ではダメなの。101%以上のことをしなかったら絶対に相手に勝てないし、自分のテンションも上がらないよって。

 かっこういい、めっちゃ、かっこういい。でも、毎日、全力で101%の力で呑んでいたら10日後には初日から10.5%、20日後には22%以上増えている。体が持たないんではないだろうか。そんな毎日限界まで頑張り、体は悲鳴を上げないのだろうか。吉田はこう聞いている。

―藤原先生は二日酔いにはなるんですか?
藤原 一生懸命飲んでいるから二日酔いってないの。嫌々飲んでると二日酔いになるの。

 もはや、元気があればなんでも出来る状態だ。一生懸命呑めば呑むほど、翌日、酷い気もするが。
 
二日酔いも気合いで吹き飛ばす藤原だが、現役の頃はストイックな生活を続けていた。呑兵衛ぶりを期待して、藤原の著書『真剣勝負論』を読んでみたのだが、酒の話が、それこそ一滴もでてこない。当然と言えば当然だが、当時は酒もタバコもきつく禁止されていたのだが、その徹底ぶりに身震いする。

練習途中で小便をしたくなってもトイレに行かせてもらえず、サンドバッグを蹴りながらその場でたれ流したことも何度もあった。また、稽古のしすぎで血の小便がぼとぼとと滴り落ちることは日常茶飯事だった。。

私は一年三六五日、毎日厳しい稽古を続けていた。もちろん試合もあったから、試合三日前からは調整をした。しかし、試合を終えればよほどダメージが深刻なものでない限り、次の日から稽古を行った。

 最近のネットのインタビュー記事には「休みは一年で三日だけ」、「一日10時間の練習を欠かさない」ともある。今は一年三六五日毎日10時間酒漬けだが、かつてはほぼ三六五日、毎日10時間練習漬けの日々を送っていたのである。師匠が「終わり」と言うまで練習を止められない決まりだったため、師匠が途中で呑みに行ってしまうと困ったとか。勝手にやめていると帰ってきた師匠に激怒されるので、そういうときは仕方なく朝まで練習し続けたという。帰ってこない師匠も師匠だし、続ける藤原も藤原である。

それこそ、意識を失うまでサンドバッグを蹴り続けなければならない。かく言う私も、何度意識を失いかけたかわからない。意識朦朧としながらも、サンドバッグを叩き続けたのである

 酒では意識朦朧としない藤原も練習では意識朦朧となってしまっていたわけだが、時間の長さだけでなく練習メニューもすさまじい。現代ビジネスのインタビューでは「相手に蹴られても相手がいたがる体をつくえば良いのでは」とあるとき考え、脛の強化に励みだしたとしている。まず、タイヤを蹴り、慣れてきたところで、なんと鉄柱を蹴り始める。タイヤと鉄柱の間には大きな川が流れている気もするが、鉄柱である。その結果、鋼鉄のような脛ができあがる。
引退後に、K-1で一世を風靡したピーター・アーツが藤原のジムを訪れ、どんな練習をしていたんだときいてきたので、鉄柱を蹴って見せたところ、どん引きされたという。ピーター・アーツ、正しい。練習の過酷さが伺えるし、この練習があったからこそ、歴史に残るキックボクサーになれたと藤原も述懐している。
 
 藤原は引退後にゴルフ場の支配人などを経て、キックボクシングジム経営に転じる。いつも酒ばかり呑んでいると業界内でも有名な存在だが、後進の育成と併行して、毎年自主興行でプロレスラーなどと対戦する「藤原祭」を開催してきた。
 
07年には右足切断の危機になり、歩行も困難になるが、手術から一年で再びリングに上がった。周囲からは無謀と思われながらも、酒量を減らし、努力を重ねた。引退してもなお、単なる大酒呑みではないのである。
 
スポーツ選手はもちろん、サラリーマンでも踏ん張らなければならない局面がある。逆にいえば、いざという時に酒に目もくれずに踏ん張れれば、普段は10時間だろうが飲み続けてもいいのかもしれない。やるからには徹底してやる。人生、長い視点でのメリハリが重要なのだ。日々、ひたすら呑み続けていることに対する後ろめたさを隠すための、単なる酒飲みの自己弁護に聞こえなくもないが。

栗下直也(くりした・なおや)
1980年東京都出身。業界紙記者の傍ら、書評サイト「HONZ」や雑誌『本の雑誌』、週刊誌に書評を執筆 する。新橋系泥酔派を自認するが、酒場詩人は目指していない。辻潤の研究がライフワーク。
Twitter @naokurishita